柵と扉

朝霧 了

柵と扉

しがみついたその手は、力を込めれば込めるほどすり抜けて行くように感ぜられて、尚何度も手を滑らせる。私の手はまるで油を塗ったみたいに滑りやすくて、あなたをここに引き留めて置くには弱く、短すぎた。

ごめんね、と笑ったあなたを引き留めて置くのはきっとあなたを愛する私のすることではないと私には解っていたけれど、私にはそれ以外の選択肢がなかった。

あなた無しではもう、呼吸も出来ない。





彼の脚が組み替えられる気配に気づいて、私は思考を取り戻し、彼を見上げた。

「恋愛とは、まるで麻薬みたいだと僕は思う」

その目の先では、なんだかとても交ざりあった色をした夕焼けが滲んでいる。沈みゆく太陽が最後に奇跡の力なしで虹を空に映し出したような、そんな色合いがそこに広がっていた。

「麻薬…?」

恐る恐る、尋ねる。彼は恋とか愛とか、そういった俗世のものとは無縁なのだと、私は勝手に思い込んでいた。誰かに愛されたいなどという欲望とは切り離された、聖者のようなひとなのだと私は思っていた。

「僕は……」

思う、と断定した癖に、彼は少し悩んで、困ったように首を傾げる。

「恋愛って、どんな味がするんだろうね」

指を組んで、目を閉じる。

「きっと、甘くて、柔らかくて、マシュマロみたいな、そんなものですよ」

私はそんな月並みな答えを返す。

彼は少し笑って、目を細めたまま今日初めて、私を見た。

「君もそう思うのかい?」

少し失望したよ、と目線を外す。

その瞬間、ざわりと脳髄が融け出すような寒気と不快感に襲われて、私は奇妙に歪めた笑顔のまま、首を傾げた。

彼は前を向いたままだ。

段々と世界が暗くなる。虹を溢した空の色は紺碧にいつの間にか侵されていて、街の灯りがそれに抗うように地平線を明るく照らし出していた。

「恋は決して、甘くはないだろう?」

まるで何かを確かめるように語尾を上げたあと、彼は唇を結だ。

「恋は、欲だ」

醒めた声が、融け出す脳髄を掻き回す。私は視界が滲んで行くのを感じた。そしてその言葉を受け止められないまま、少し早く夜になった空を見上げる。

「では、恋は罪悪でしょうか?」

いつか読んだ小説。

「恋は純粋な欲だ、だからこそ美しいんだよ」

彼は鞄を取り上げて、音もなく立ち上がった。私は釣られて立ち上がり、彼の二度と合わない視線を追いかける。

「だって君は、僕に恋をしているんだろう」

言葉の内容とは裏腹に冷たい金属のような声。

「いいえ、」

もはやこれは恋ではない。

「なら、何だというの?」

彼は、目を合わせないままコートのポケットに手を入れて、地面に目を落とした。

「私はあなたを愛してるんです」

ふ、と空気の抜ける音。彼の口元は、笑顔によく似た形に歪んでいた。

「君のしがらみは、まるで鋼鉄だ」

しがみついたまま、僕を離そうとしない。

この想いを告げた時、彼はそう言った。

「僕は君のことが大嫌いだよ、瑞季」

裏腹に優しい目で、私を見つめる。いつも冷え切った手が、私の髪に擦れて、愛撫と呼ぶには弱々しすぎる感触が髪の上を滑り抜けていった。

「私はあなたのことが大好きです」

どんなに疎まれようと、厭われようと、私は彼を愛することをやめない。

「知ってるよ、君は僕を愛さずにはいられない」

葉月薫という、私より二つ年上のその男は、完全に闇に沈んだ公園のベンチの前で、いつものとおり私を折れそうなほど強く抱きしめた。

「だからこそ、僕は君が大嫌いだ」

普通なら愛を囁くはずのこの場面で、彼はいつも私を呪う。

「大好きです」

彼と同じだけの力で、私は彼を抱きしめた。

離れていかないように。この痛みが、ほんの少しでも私を彼の中に残してくれるように。


私が彼に会いたいと言うと、あの人はいつも私の教室まで私を迎えに来てくれた。その度に私の周りの女の子たちは、あれ彼氏?とやっかみ半分純粋な疑問半分に尋ねた。いつも私は曖昧に笑って、違うよと言って彼の元へ行く。すると彼は陶器のような笑みを浮かべて、いつもの場所へと歩き始めた。

振り返ることのない背中を見つめながら、私はいつものテンポで歩く彼のあとをついていく。歩幅も速度も違う。私より彼はずっと背が高いから、ついていくのにはいつも少し苦労した。彼が私を待ってくれたことなど、今までに一度もなかった。

重い鋼鉄の扉を開いて、ふわりと香る外気の冬の匂い。乾燥した、優しさの一つもないこの空気が好きだと彼は言っていた。金網の柵が頭上二メートルまで高くそびえていて、四角く切り取られた空がそこにはある。

見下ろすと、ごちゃごちゃと人々の暮らしのひしめく地面が遠くにあった。地平線まで続く、幾万の生命。この街に生きる人々の中で、一体何人が棚瀬瑞季を知っていて、一体何人が葉月薫を知っていて、一体何人がいま私たちがここにいることに気づいているのだろうか。

案外、誰にも気づかれずに生きて、誰にも気づかれずに死んでいくことは可能なのかもしれない。私は、いつもこの金網の隙間から見える「無数」を見るたびにそう感じる。

「瑞季」

彼の唇から紡がれる、私につけられた名前。その響きを聞くたびに、激しい違和感を感じた。彼は私を嫌うはずなのに、その声にはいつもどうしようもない憐憫が含まれていた。

「薫さん?」

肺から空気が押し出され、肋骨が軋む。身体の繋ぎ目がみしりと音を立てそうな、抱擁とも呼べないそれを受け止めながら、私はいつも微笑んだ。これだからきっと、彼は私無しでは生きていけないのだ。言いようのない優越感が私の中で形にならないまま存在していた。

絶大な嫌悪感は、彼の中で私が大きな存在感を示していることの証である。好きの反対は無関心、まさにその通りである。少なくとも彼は私を、この眼下に広がる「無数」からは切り離している。それが憎しみであったとしても、堪らなく嬉しかった。

私が彼を好きなのはこういうところだ。彼がかつて私を愛していたときと同じように、彼は私を傷つけることを厭わない。彼がかつて私に愛していると囁き続けたのと同じように、彼は私を嫌いだと呪い続ける。今更な嘘で塗り固められた愛情をなすりつけたりはしない。だからこそそれだけ彼の冷たい金属のような言葉が私の肌を掠めて傷つけてゆくとしても、私はその傷も滲み出る液体もその痛みも愛せるのだ。

「もう少し曇っていたっていいのに」

萎れた鉢植えを横目に蔑みながら、彼は呟いた。

「青空なんていうのは、透明すぎるんだ」

金網に寄りかかったまま、私は彼を見つめる。

「かといって雨は情緒的すぎる」

雨粒など空から注いではいないのに、彼はそれを掴むように手を握った。

私の視線はいつも彼を通り抜けて行く。まるでそこに誰もいないみたいに、私は彼を捉えることができない。

きっとあのプラスチックの板を通して切り取った彼の世界に、私の居場所は無い。見えない何かに縛られて固執しながら生きようとする彼の姿が酷く切なく、紙の端片で指の皮膚を裂いた時のような滲んでしみる痛みがそこにはあった。いつか彼の実体を見つめることができるのではないかなんて、淡い夢を抱きながら、私は彼を見つめ続けた。




タナセミズキというその女の子が僕を慕い、彼女なりのやり方で僕を「愛して」いるのを、僕は知っていた。彼女の僕を見つめる視線や仕草、何よりも彼女自身が僕を愛していると公言している。

彼女が僕を愛するのは、恐らくは僕が彼女を嫌うからだろう。彼女はこの世界の中でそれなりに愛されながら生きている。好きだと言われることに彼女は慣れていた。女の子特有の馴れ合いの感情や、身体を目当てにした男性、単純な憧れや彼女自身が演じる女を愛する人間は多くいた。

しかし僕は彼女が本当は愛されたいなどともう願っていないことを知っている。彼女を抱きしめるとき、愛しているという言葉と裏腹に彼女の声が乾いているのも、底冷えのする刃のような響きなのも、そして彼女の体が驚くほど冷たいのも僕は知っていた。その人間らしくない無機質な匂いと、陶器のような手触りや、まるで義務であるかのように囁く張りぼての愛に僕は固執していた。それでも彼女の視線だけは肉欲と承認欲求を孕み、嫌いだと言われるたびに彼女の欲求が満たされていくのを僕は感じていた。

僕は彼女が大嫌いだ。そしてとても愛おしい。そんなありきたりな言葉で表せるほど単純な感情ではなかった。滲み出す黒浸みた液体を白い彼女の肌の上に落として染みをつけていくように、僕の欲望は彼女の上に擦り落とされてゆく。そして彼女はそれを微塵も知らず、ひたすらに僕の嫌悪を糧に生きていた。

なぜ、彼女が嫌われたがるのか。それなのに嫌われたくないと、人を傷つけたくないと言って優しい振りをするのか。僕にはどうしてもわからなかった。生きたいのに死にたい、この世界から承認されたいと思えない。彼女の生き方には矛盾が満ちていた。

彼女のコンプレックスの対象は彼女自身だった。彼女の理想とする彼女はあまりにも彼女からかけ離れていて、まるで蝋人形のようで、彼女らしさはどこにもなかった。彼女は彼女になるためにはあまりに不完全で利己的で、自己愛が強かった。彼女も結局、自分を愛さずにはいられない、普通の女なのだ。けれどその方法は酷く歪んでいて、痛みと傷で存在を確認するようで、そして僕は、その歪みが酷く愛おしく思えた。

「薫さん?」

先ほどから黙り込んでいたからか、彼女が不思議そうに僕の顔を覗き込んでくる。

女の子らしくない真っ黒で大ぶりな傘にばちばちと夕立を跳ね返しながら、彼女は目線を足元に戻した。

「君は、」

呼びかけて、話す言葉などないことに気づく。

彼女は目を上げない。

僕は彼女に愛されることに慣れ過ぎていた。愛されるべきである、などと傲慢なことを想っていた。

雨が降ると、こうして二人で帰る帰り道が異様に長く感じられる。その気配を感じると、いつも僕はほんの少し嬉しくなる。雨の匂いと、大きな黒い傘が作る影と、それから彼女の白いソックスを濡らして汚していく、水溜りの泥水。僕は雨の降る日、こんなことを期待しては家を出る。人間らしい美しいものを好きだと僕は思えなかった。彼女の歪みや汚れた染み、人為的な影やひび割れた壁の亀裂、こびりついて取れない茶渋、消し切れない落書き、茶色く残った古傷の微かな痕、コーヒーを零した本のページ。僕はこんなものが好きで、もしかしたら僕はおかしいんじゃないかとすら思った。僕にとってこれらのものは作られるはずのないもので、人々が忌み嫌うもので、見せたくないと思うものであるからこそ美しい。恋は欲であり汚いからこそ美しいのだと彼女に語った時、彼女は不思議そうな顔をした。それでも存在することをやめられない、その矛盾が美しいのだ。僕にはそれが彼女の中に見えた。だから、僕は彼女が酷く愛おしく、それを隠しまるで普通の女の子みたいに生きようとする彼女が大嫌いだった。

「狂ってしまえばいいのにね」

ポツリとつぶやくと、彼女はこちらに目をむけた。

「えっ?」

「僕は君が大嫌いだよ。」

微笑んで告げる。

「君のそういう、まるで溶け込んで行こうとするところがね、大嫌いだ」

世界には馴染まないと生きていけない。

彼女の生き様は、彼女の死に様をも表すようだった。

きっと彼女は誰の目にも触れないところで、ひとりで消えて行くのだろう。まるでその背景に滲んで溶け込んで行くかのように。

矛盾を孕んだ彼女の美しさは、彼女が溶け込もうとすることで霞んで行く。確かにそこにあるのに、彼女の存在は普遍とか平凡とかいったものに塗り込められて、息をしないまま少しずつ体温を失って行く。

かつて僕には、どうしようもなく愛した女がいた。けれどそれは、どうしようもない憎悪をも孕んでいた。だからこそ僕はその女を命をかけて愛したし、同時に考えうる限りの方法で傷つけた。最後はボロ雑巾のように握りつぶして捨て去った。これが、僕の肩から降りることのない永遠の十字架だった。

別れを告げた時のあの女の表情は、途方もなく空虚で、あの女がその言葉に傷つけられる前に透明な膜を張ったことに僕は気づいた。僕がこの二枚のプラスチックの板を通してしか世界を知覚できないのと同じように、あの女はいつからか僕の手に引かれてしか世界を歩けなくなっていた。それに気づいたとき、愛情の表裏であった憎しみはそれそのものに姿を変え、僕の中で彼女はただのボロ雑巾と変わらなくなった。踏みつけて引き裂いて、それでもなお彼女は起き上がってきて微笑んで僕を抱きしめたから、届かないところまで連れて行って、そこに置き去りにした。僕が彼女を愛さなくなってから彼女は何度でも僕を愛してると言ったし、僕も同じだけ愛してると言った。同じ言葉であったのに、それは全く違う意味を抱いていた。それに気づいた日、僕は愛してると言うのをやめた。

彼女は決して僕と別れたがらなかった。理由は明快、彼女が僕を好きだからだ。僕は彼女が嫌いで、どこまでもまとわりついてくるその愛情にもはや興味を持たなかったから、彼女を棄てることに僕はなんの罪悪感も抱かなかった。縋り付いてくるその手がたまらなくうっとおしくて、振り払うために触れることさえ疎ましく、僕は手を触れることなく、これ以上近寄ることなく、彼女を殺すことに成功した。僕は彼女に拒絶しか与えないまま、あの日からずっと今日まで生きてきている。嫌いだと言われ続けることで彼女は僕の中に彼女の存在があることを確認し、僕は彼女を拒絶し続けることであの女ではない彼女を愛した。彼女はもう僕の嫌悪と憎悪なくして生きることはできない。僕が彼女を抱きしめながら何度も突き刺す刃とその痛み無しに生きることはできない。

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