「知らなければ知ればいい、勉強すれば済む話だ。何より知らないのなら妙な知識が先に入ってなくて勉強すればするほど身につくだろうさ」

「そ、それはそうかもしれませんけど」

「雑用はまず家事全般、必要な物は買い出しにも行ってもらう。よって、日々の筋力トレーニングも付け足しだ」

「トレーニング?」

「わからないか? 買い出しをするということは、麓まで下りて荷物を持って上がるということだ。つまり……」

「まさか! あの山登りを?」

「そういうことだ。ちなみにうちはネット販売もしている。宅配屋はここまで登ってきてはくれないからな、商品発送も麓まで下りて出してもらう場合もある。それに、郵便物等も麓の山道入口に届くから一日一回取りに行くように」

「まじか、嘘だろ……」

「嘘などついてどうする? 大丈夫だ、私はその生活をずっとしているが死んでないからな。慣れれば大したことじゃない」

「慣れるまでは?」

「だから、トレーニングだ」

 お先真っ暗だと知哉ともやはうなだれる。

 母親によって有無を言わせず香御堂こうみどうに送り込まれた職場は、みこと一人ではできない様々な雑用を行う下働き。しかも、山登り付きだったのだから無理も無い。

 にやにやと楽しげにみことは笑いながら立ち上がり、うなだれたままの知哉ともやを見下ろす。

「この部屋はお前の部屋だ。好きに使って良いが、家自体を傷めることはしないよう丁寧に使うこと」

 不気味な笑顔を見せながらも、今日はとりあえずゆっくりすればいいとみことは言い放った。

「それはありがとうございます」

 ふてくされながら返事をした知哉ともやに面白くて仕方がないとこらえ笑いをして廊下に出る。

「それと、明日までに文机の中にある香御堂こうみどうの事を説明した冊子に目を通しておけ。明日は朝五時には起きるように」

「五時! 早すぎ……」

「何を言う、朝日と共に目をさますのは原始時代からの人間の営みだ」

「原始って」

「雇い主のいうことを聞かないのであれば、こちらとしても給料を払う必要はないと判断するが、いいのか?」

「……了解、しました」

 布ずれの音だけが遠ざかって行き、静寂の中で知哉ともやは小さく息を一つ吐き出した。

 家族以外の人物の会話、しかも面識のない偉そうな態度の人間、加えてみことはどこかつかみどころのない感じがして、話を聞いているだけでも息が詰まる。そんな人と話をし、話せば話すほどみことの気配に完全に飲み込まれていった。

「僕、やっていけるのかなぁ」

 ため息混じりに枕もとに置かれている水差しを手に取り、コップに注いで一口。乾いた喉を潤し、足を崩して背中から布団に倒れ込む。

 体力を付けろと言われたからには、日々の生活それ自体に体力が必要であり、あの山登りもまた日常生活の一部なのかと寝転びながらも出てくるのは溜息ばかりだった。

「まぁ、何にしてもやらなきゃダメなんだけど。帰る訳には行かないもんな」

 ここで香御堂の仕事を投げ出して帰ったとしても、無理やりに自分を送り出した母親がすんなり受け入れてくれるとは思えないし、自分を締め出すのは確実だ。

 以前まではそれほど厳しくはなくそう言ったイメージはあまりなかった母親だが、ここに来る数日前から堪忍袋の緒が切れたのか妙に厳しくなり「知哉ともやの為なのだからね」と口癖のように言い始めた。

 確かに一か月も息子が何もしなければそう言った態度になるのも当然かもしれない。

 あきらめ半分にとにかくこの香御堂こうみどうの事を知らねばならないと文机に四つん這いで近づき、三つの引き出しの内、一番下の段で冊子を見つけて布団に寝転がりながら読み始めた。


 あぁ、波の音だ。

 波打つ水の音の中に打ち寄せる波が弾け飛ぶ音。岩に向かってきた波が叩きつけられ弾ける。

 岸壁の上にたたずんでいるようだ。

 もしかしてこの香御堂こうみどうは海に接しているのだろうか?

 上ってきた場所の周辺にそんなところは無かったように思うけど。香御堂こうみどうの裏手側にあるのだろうか?

 こんなにも今ははっきり聞こえてくるのだからきっと近くに違いない。

 でもさっきまでは全く気が付かなかった。

 どうしてだろう?

 すぐ裏手にあると言うわけではないのだろうか?

 海は好きだ。波の音も心地いい。

 そして、懐かしい。

 懐かしい……、懐かしいだって? どうして懐かしいのだろう。

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