香御堂

 今、山登りをしている。

 木陰は少しの安らぎのような涼しさを与えてくれたが、それでも日向に出れば上空から容赦なく照りつける太陽に体の水分のほとんどを搾り取られていくその日。

「くそ、こんな場所だなんて聞いてないぞ。一体どれだけ歩けばいいんだ」

 文句も息切れの中で、自分を励ますように吐き出しつつ僕はひたすら歩く。

 公共のバスでさえ通らない山奥の、もちろん自家用車も通れない人が通るだけのただの一本道。

 舗装もされていない、一体これがふもとにあった案内板通りの道なのか、目指す場所にたどり着くことが出来るのかという山道を登っていた。

 登山が趣味な訳ではない。

 言ってみればこれは有無を言わせぬ上司からの命令に近い状況。

 つい一月ほど前に職を失い、というよりも自らの意思でろくでもなかった会社に辞表を叩きつけ職を手放し、何をするわけでもなく自宅に居たのが事の発端。

 我が家の影の支配者とでもいえばいいのか。優しい笑みの向こうに非常に厳しい顔をお持ちの母上より、有無を言わさぬ労働を言い渡されることとなった。

 ある日の午後、相変わらずスウェット姿で家に居座る僕は、母さんにリビングに呼び出された。

 僕の姿をじっと見つめて、ため息を付いた母さん。

知哉ともや、あんた再就職はどうなっているの? 毎日毎日家にいるばかりで就活しているように見えないけど」

「煩いな、外に出ていくだけが就活じゃないだろ」

「それは否定しないけどね、にしても何もしていないようにしか見えないのよ。本当に、一体どうしちゃったのかしらね」

 母さんは口を開けば僕がおかしいだの、変わってしまっただの言っていた。

 また同じ小言かと思って、いい加減に聞いていると、母さんの口調が少し変わる。

「でもね、いつまでもその言い訳が通用すると思わないでちょうだい。母さん、堪忍袋の緒が切れる寸前よ」

 そう言うと母さんはリビングの机の上に、一枚の紙を置いた。

「何、それ」

「母さんがちゃんと見つけてきてあげたわ」

「はぁ?」

「あんたがいつまで経っても動こうとしないのが悪いのよ。恨むんなら自分を恨みなさい」

「この歳になって親が見つけてきたものに、そうですかって行けるかよ」

「そう。でも嫌だとは言わせないわよ。ここに行かないというなら家を出て行ってもらいます。働かざる者食うべからず、追い出されるか働くか、どちらかにしなさい。母さん本気よ」

 久々に見る母親としての迫力に僕は紙を見つめて考えこむ。

 貯金がそんなにあるわけじゃない。家を追い出されたらどうしようもなくなるのは目に見えてわかっていること。確かに、恨むならろくに何もしようとしなかった自分を恨むのが正しいとも思う。

「わかったよ、ここで働けばいいんだろ」

 じっと僕を見つめていた母さんは、僕の一言でホッとしたように息を吐き出してニッコリ微笑んだ。

「まぁ、良かった! 知哉ともやの荷物は後で母さんがまとめて送ってあげるから、とりあえずの支度だけして、明日か明後日にでも行きなさいね」

「荷物? 送る?」

「いやぁね、場所を見ればわかるでしょ。この家から通うなんて無理よ。住み込みでって約束なのよ」

 やられた、それが正直な感想だった。

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