香御堂。

御手洗孝

 つまらない。

 どうしてこう、自分の周りは日々変わらないのだろうか。

 世界の至る所で様々に流れ、様々に変わる日々が起こっていたとしても僕の周りにそれはない。

 それはとても平和で有り難い事なのだろうけれど胸の何処かが空っぽになっているような、満たされていないと言う思いがつのり何度も何度もため息をつく。

 そして何故だか最近は、遠い昔、もう記憶にすら無いだろうと思っていた祖母の事が思い出されてならない。


 まだまだ自分がとても小さく、一人でやっと海の入れるようになった頃のことだ。

 その頃はよく祖母の家に遊びに行っていた。両親に車に乗せられ、数時間かけてやってきた祖母の家はすぐそばに海がある。

 散々海で遊び、疲れて砂浜に寝転がっていれば、いつの間にか祖母が隣に座っていた。

 遠い瞳で打ち寄せる波を見つめる祖母の横に座り祖母を見つめる。

 祖母はそんな僕の視線に気づいてぽつりぽつりと話始めた。

「其れは誘いよる。主と同じ姿かたちでやってきて、主のホシイモノを手にして誘いよる。こっちゃこい、こっちゃこい言いよるが。でもな、ついていってホシイモノを素直に受け取ってはいかん。ホシイモノと引き換えにそれは主を喰らいよる。どしてもホシイモノが欲しければ後ろ向きで貰いなせ。とすれば、運が良けりゃ助かるで。運が悪けりゃ喰われよる。ええか、よう覚えときんさい。1足す1は1で、2引く1は1じゃ」

 算数が苦手であったが、単純な足し算がわからないほど馬鹿ではない僕は、必ず祖母のその言葉を否定した。

「ばっちゃ、間違うとる。1足す1は2じゃ」

 そうやって否定する僕に祖母は小さく笑って首を横に振る。

「いんや、たとえ数字の計算で1足す1が2になっても、計算では答えが出んこともあるでな。のうなったのなら補われ、補われたならのうなる。常にあるのは1だけじゃ。たったそれだけの事じゃが、それは決して忘れちゃいかん事だで。そしてのぉ、欲には善悪が無い。もし其処に善悪が生まれて居るなら、それは己の善悪だけ。これから先、お前が何かをしようとも、されようとも、欲のせいにも、人のせいにもしてはならんで。お前がここに居る事、それ自身がもう欲だでなぁ」

 そう言うと祖母は必ず悲しげに夕日を眺め僕の頭を撫でた。

 まだ小さな僕には祖母の言っていることが全く理解できず、正しい計算の答えを言ったのに違うと言われたことに「ばっちゃのいうことは良うわからん」と頬を膨らませてふてくされる。

 あの時の祖母の様子がとても印象的で、言葉も意味がわからないながらも何か感じるものがあったのに、僕はずっと忘れてしまっていた。

「決して、忘れちゃいかんで」

 そう言っていた祖母はすでにこの世には居ない。

 思い出した今でも、僕には祖母の言葉のその意味が分からない。

 しかし、何故かこの所、祖母のこの言葉とあの時の情景が思い出されてならないのだ。 




 辺りは暗く、ゆらりと揺れ動くのは遥か上空からの薄明かり。

「あぁ、冷たい」

 そう、此処はとても冷たい場所。

「あぁ、寒い」

 そう、だから此処は寒い。

「あぁ、暗い」

 此処は陽の光が届かない、水底の底。

「一体己はここで何をしているのだろう。微動だにせず。ただ目前にある、揺らめき姿を変え続ける水面の光を眺め。ただただ、やってくるかもしれない影を待つ。……己は一体何を待っているのだろう」


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