5.
大学が始まってしまうと、やることが増えた。僕の身分に大学生が加わった。高校時代の記憶が遠のいていく。代わりに新しい人間関係が構築されていく。戸惑い交じりの新入生と、それを導いている上級生。講堂の中も並木通りの下でも同じものが展開されていて、たとえサークルに入っていなくても、同じ第二外国語や教養科目で近くに座った人などから声を掛けられたりもした。人間がこんなに話しかけてくるものだとは思っていなかった。どちらかといえば、悪い気はしないけれど、やんわり断る技を少しずつ身に着けていっているような気がした。
同じことをしている人というのがいない。最初のうちに悟ったのがそのことだった。何から何まで同じにはできない。選ぶ教科も違うし、学校への通い方も違う。先生というよりそこに立っているのは教授で、授業の質問以外に人生相談なんかは行わない。そういうものだということは、高校にいるうちにはわからなくて、新鮮だった。馴れてしまうと、今まで過ごしていた学校というものはどうしてあんなに入り浸るようにできていたのかなと思う。
ほかの人が授業にいっている合間に学外の外に出る。それもまた新鮮だった。大学の近くは学生街で、文具や書店から安い値段の料理店、生活必需品の類も手に入れることができた。入り組んだ街は全景が見通しにくい。切り込みを入れていくように歩を進めていく。頭に思い描いている地図が少しずつ変わっていく。まだこの街に僕は来たばかりで、要するに知らないことがたくさんあった。僕を傷つけるリスクのない未知は、心地よい波になっていた。
波野さんと出会ったのも、そのような散策の途中でのことだった。川べりのテラスを歩いていると、カメラを持った波野さんと出くわした。もっともそのときすぐに波野さんとわかったわけではない。薄い水色のワンピース姿を眺めているうちに、教養科目の授業で隣の席でよく僕の後ろの席に座る女性徒だと気づいた。黒縁眼鏡の中で一重まぶたが瞬いて笑いかけてきた。話してみると同学年だとわかった。
「カメラ珍しい?」
波野さんが言う前から、彼女が首から下げているカメラを僕は見つめていた。一眼レフカメラを気軽に持ち歩いている人は珍しいと思う。僕なら写真はスマホで撮る。その機会もあまりない。撮っていいことなのかどうか、すぐに判断できない。そう言うと波野さんは楽しそうに手を叩いた。小気味よい音がした。
「なんでもいいんだよ。やってみないとわかんないことだけど」
波野さんは午後にひとつ教養科目の授業があり、試しにカメラを持っていくのだという。僕の例のように目を引くだろうし、通暁している人なら話もはずむことだろう。そのような手法で同好の士を探す。話している間、波野さんはひたすら楽しげだった。
別れ際に写真を撮られた。ピースサインは数年ぶりな気がした。写真はあとで現像して授業のときに渡すと言われた。アルバムは部屋にないのでどこにしまおうか、口に出さずにちょっと悩んだ。
大学のチャイムの音が街にゆっくりと降りてきて、波野さんがじゃあねと手を振り歩いていく。僕は反対に遠ざかり、橋を渡っていった。川を越えると公園があり、時間をつぶした。大した目的のなかった僕は、先刻のできごとを思い返していた。
ピースをしたとき、僕は左手を使っていた。右利きなのに、最近右手よりも左手の方がすぐに出てしまう。そういえば兄は写真が嫌いだった。どちらかといえば僕も苦手だけど、兄は僕よりよほどその気持ちが強いらしい。初めて知った。初めてになってしまった。深く沈んでいきそうになる思考を、肌寒い風が遮ってくれた。
〇
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