4.

 頬がひりついていた。知らないうちにローテーブルに突っ伏していた。

 どれくらい眠っていたのだろう。気が付いたときには太陽の光がうすく黄色を混ぜた水あめのようになっていた。間延びした電子音が鳴っているのを何度か聞き流し、やがてそれがこの部屋のインターフォンだと気づくと、眠気は一気に吹き飛んだ。

 急ぎ足で向かっていき、のぞき穴から外を見た。女性だ。制服ではないけれど、大人には見えない。聖書も持っていないし、セールスマンっぽくもない。着ている服のトレーナーに例の大学の名前が入っていることがわかると、少し気持ちが和らいだ。

「どなたですか?」

 まだドアを開けずに聞いてみる。女性はうつむき加減だった顔を跳ね上げた。目を見開いていた。

「寛也くん? 風邪ひいた?」

 兄の名前だった。名前を知っているばかりでなく、兄の声と違うことまで知っている。話すよりも見た方が早いと思い、ドアを開けた。ギイと鳴き声みたいな音を立てて扉が開いた。

 目を丸くするのはこういうことなのだなと思うくらい、はっきりと目を開いて、女性は僕を上から下まで見つめてきた。

「背、伸びた?」

「いや、まず兄じゃないです」

 まあ、と女性は言い、少し笑った。溜息が漏れ聞こえてきて、緊張していたのだとわかった。

「弟です。喬也と言います」

 たかやという読み方を女性は口だけで呟いている。

「弟さん、いたんですね」

 はい、としか言いようがなかった。女性の足元では茶色い木の葉がくるくると舞っていた。目に見えない、感じもしないほどの小さな風が僕らの間で回っている。その人は小さく頭を下げて、身体を引いた。この場から去ろうとしていた。つられるように、僕は身を乗り出した。

「兄に用だったんですか?」

 背中を向けかけて、その人は立ち止まった。

「申し訳ないんですが、兄はしばらく帰ってこないと思います。僕もまだ、連絡が取れていないので」

 嘘は言いたくなかった。でも、戻る見込みがないとも言いたくなかった。頭の中で言い訳を重ねる。兄はまだ見つかっていない。繰り返していると、その人の声が聞こえてきた。

「これを借りっぱなしだったんです」

 その人は初めて背中にあるそれを手に取った。先ほどから気にはなっていた。女性が背負うというよりはおおわれているような印象だった。

「ギターですか?」

「そうです。貸しておいて、自分はどこかに行っちゃうんだから。ご実家でも同じように勝手だったんですか?」

 その人は初めて口元に笑みを浮かべた。頬が少し膨らんで、かすかな笑窪が影をつくる。赤らんだ頬をしていた。外の寒さのせいだけではないかもしれない。

 口を開いて、言葉を発する前に閉じた。いうべき言葉とそうでない言葉の判断がすぐにつかなかった。本当のことを言った方がいい。頭の隅ではそう思う。もう一方はこの人を悲しませたくないと思っている。兄はいない。今はいない。死んだとは限らない。声にならない繰り言が頭の中を少しずつ埋め尽くしていった。

「兄は、まあ、口下手でしたね」

「やっぱり」

 指をカギにして、口にあてて笑う。小さく跳ねるような声には、一切の悪意がないと思った。

 僕は自分がこれからこの部屋を引き継ぐことをその人に説明した。運が良かったんですね、とその人は自分を指して言った。話を少しして、その人の名前が梓川さんだとわかった。

「じゃあこれを、しまっておいてください」

 兄のものだというギターを僕は受け取る。兄が演奏している姿は見たことがない。大学生になってから始めたのだろう。ギターの教本はあのカラーボックスの中にはあるのかもしれない。

「さようなら」

 梓川さんは小さく手を振って言った。

 今日初めて会った人。おそらくは兄の知り合い。それ以上の関係はない。多少の興味はあるとはいえ、声を掛ける理由は見つからなかった。

 だから、自分でもどうして手が伸びたのか、説明しろと言われてもわからない。梓川さんはまた目を丸くして、自分の腕を僕の右手がつかむのを見ていた。僕も似たような顔をしていたかもしれない。

「あの」

 説明するのは難しかった。自分の中に理由がない。それをはっきり言ったところで困るのは自分だ。僕は右手を離した。つかんだのは僕だったのに、右手の指先から手のひらのひとつらなりがじんわりとしびれをともなっていた。

「すいません、なんか。兄は自分のことをほとんど話さなかったので。実家にもあんまり帰ってこなかったし、友達もあまりいないみたいだし。兄が普通に生活しているか、心配だったんです。だから、気になって」

 僕は嘘は言っていない。気になっていたのは本当だ。海中で見つけた命綱のように手繰り寄せて、言葉を連ねていく。理由を通す。話しているとだんだんと本心になっていく気がする。

 重ねようと思った言葉がふっと僕の内側に消える。梓川さんは僕を見ていなかった。自分の腕と、僕の右腕に焦点を当てている。

「すいません」

 僕の視線に気づいたのか、梓川さんは首を振った。否定というより、何かを振り切るような強い動きだった。伏した目は一瞬虚ろになり、それからまた僕の右腕に視線を注いだ。

「兄弟で、腕って似ているものなんですね」

 梓川さんの声は空気の中に形をもって落ちていくような気がした。見えないのに、消えたりもしなかった。

「今は、そうですね」

 梓川さんの視線と、僕の視線がかち合った。ついさっき会ったばかりなのに、目を合わせるのは久しぶりな気がした。

「不思議な話なんですけど、この右腕が今は兄の腕のような気がするんです。そうなる夢を見たんです。兄が何も言わずに、僕に右腕を貸してくれる夢を」

「腕を?」

 質問されたら、頷くしかなった。不思議がられても仕方ない。でも、我慢しておくのも限界だと思った。僕の内側では兄の幻の記憶が熱を持ち始めていた。その熱を放つのに、梓川さんは適任だと思えた。今ここで話してしまわないと、僕はこの話を誰にも言えなくなってしまう。それはとても悲しいことのように思えた。

「もう一度、触ってもいいですか」

 梓川さんは僕の目を覗き込んだ。背丈は梓川さんの方が低いけれど、僕の方が、どこか水槽の中にでもいて、覗き込まれているような気がした。

「どうぞ」

 僕は右手を伸ばす。数日前から、少しだけ縮んだ右腕。梓川さんの前に握手の形で差し出すと、梓川さんは少しだけ間をおいてから、僕の右手の指先に、自分の右手を触れた。始めは指の先が触れ合った。冷たかった。ずっと外にいるから冷えてしまったのかもしれない。僕の右腕は動かなかった。じっと、少しだけ指先を折り曲げたまま、梓川さんの指が訪れるのを待っていた。人差し指と中指が重なって、すべるように梓川さんの手が入り込む。掌と掌が、見えないところで交差していた。冷たい指先も、時間をおくと温もりを持ち始めた。右手と右手の間の空気が温められていく。鼓動を感じた。それは梓川さんの方なのか、僕の方なのか。指の先まで血が巡っていた。

 長い時間が経ったと思う。足元で待っていた木の葉は去って、次の木の葉がやってきて、僕らの合間を邪魔そうに転がり落ちていく。梓川さんは左手で口を押えていた。赤らんだ指先が頬に食い込んで、顔の輪郭をゆがめていた。長い前髪に隠れながらも、その目は潤みながら、僕の右腕を見つめていた。

 アパートの一室の、どこかの部屋が空いた。そんな偶然が、握手の終わりだった。離れてしまった指先をまた戻すこともできず、ゆっくりと、温もりは距離を置いた。

「これは寛也さんの右腕そのものです。間違いないと思います」

 それは断言だった。梓川さんを見ると、笑っていた。頬に流れ落ちた涙は冬の風にさらわれて、すでに乾いていた。

 梓川さんはポーチから、ケースに入ったスマートフォンを取り出した。紺色のケースには鮮やかな浅葱色の羽根が描かれていた。

「もしよかったら、これからも触っていいですか」

 それは連絡先を交換するという意味だと、しばらくしてから僕は気づき、あわてて自分のスマートフォンを持ってきた。一緒にギターを持っていけば楽だったのに、そこまで頭が回らなかった。メッセージアプリを開いて、コードを読み取る。梓川さんを示すアカウントのアイコンはつぶらな瞳をパイルに埋めた熊のぬいぐるみだった。熊は二匹いた。ピンクとブラウン。

「栗毛の方は寛也さんのものなんです」

 そういえば、同じ熊が先ほどのカラーボックスの中にいたことを思い出していた。ますます捨てられないなと思った。



   〇

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