3.

 暑い陽射しが射していたから、夏のことだったと思う。木々の緑がとても深く、濃い影がアスファルトに落ちて揺れていた。

 十歳の僕は、サッカークラブに入ったばかりの兄と一緒に、地元にある公園にやってきていた。敷地の中には植物園や、ヒョウタンの形をした池なんかがあったけれど、小学生だった僕たちはもっぱら草原で遊んでいた。周りには他市から来る人も大勢いたけれど、その日はどうだったか。サッカーをやる余裕くらいはあった。広いとはいえ、繁盛しているとは言えなかった。

 買ってもらったばかりのサッカーボールはまだ真新しく、蹴りだすと弾みのいい音を出した。草原の草の上をすべるように転がっていく。僕と兄には年齢差があったけれど、身長はすでに僕の方が高かった。どういう都合なのか、神様がそういう形になるようにしてしまった。僕は兄のことを小さいとは言わない。兄が周りの同級生に何回もそう呼ばれているのを聞いていたからだ。

 僕が蹴りだしたボールが兄の足元に転がる。兄のつま先が何度も、腫れ物に触るかのようにおずおずとボールをつつく。兄がサッカークラブに入った理由は、確か友達に誘われてだったと思う。友達に馴染むために努力するのが兄のいつものやり方だ。努力をして、それでいて報われるとは限らない。つま先の制御を外れたボールを兄が慌てて取りに行く。ごめんなと、最初は威勢が良く言ってくれた。五回目くらいからはその声も聞こえなくなった。

 僕は決して急かそうとしていなかった。それを口でも伝えた。でも、慌て始めた兄の耳に僕の言葉はなかなか通らなかった。見えないシャッターが下りてしまう。何度目かのボールを蹴りだして、それを兄が足の裏で強く抑えた。バチンと、強い音が響いた。それを最後に、兄は休憩しようと切り出した。太陽は中天に差し掛かろうとしていた。

 大きすぎるケヤキの枝葉は常に空をわしづかみにするように伸びていた。その影に縋って僕ら兄弟は涼んだ。太陽の熱も、大地のほてりも、ただ日陰にいるだけで落ち着くことができた。草原にはちらほらと子供たちがいた。僕らのような兄弟もきっといるだろう。僕はそちらに目を向けることがうまくできなかった。

 兄はボールを手で触っていた。草原の上をくるくると押して回す。草が靡いている。試合の途中ならハンドを取られてしまう。最初は息を荒げていた兄も、すぐに呼吸を整えた。それなのにボールを蹴らなかった。兄の目はひどく虚ろだった。

 僕は立ち上がって伸びをした。兄が身じろぎするのがわかった。僕が立つのをわかっていて、それでいて顔は向けない。向けることができない。ぼくらは言葉を交わしていないのに、僕には兄の考えていることが手に取るように分かった。それは僕が弟だからだったのだろうか。その能力も、幼いころだけのものだったが。

「撫でるように蹴るんだよ」

 声を掛ける。ようやく兄が僕を向いた。兄の細い目は僕を見つめていた。その視線が揺れないことを僕は好機だと思った。兄のボールに手をつけると、兄は手のひらのロックを外し、ボールを僕に渡してくれた。

 僕は足の下でボールを転がした。力は入れない。足の側面で撫でていく。ボールは地球儀のように斜めを軸にして回っていく。左足で蹴って右足へ。次は反対側へ。往復を続けている様を、いつしか兄も黙りながら見つめていた。兄が声を上げるときはまれだ。その代わり、見つめてくれていることが、兄の強い意思表示になっていた。

 ボールが僕のつま先から逸れていく。わざとだ。公転は軌道を外れ、兄のひざに当たった。兄は立ち上がった。兄の骨ばった足がボールを触り、その足の裏がボールを撫でる。再び軌道に乗ったボールはゆっくりと僕の方へと転がっていった。

「ナイスパス」

 音もなくボールに触り、木陰の外へと僕は出ていく。兄が追いかけてくるのがわかった。もうパスをしても、休憩とは言わなかった。それがとてもうれしかった。今日も上手くやることができたから。

 兄が笑ってくれていること。それは僕にとって居心地のよいことだった。



   〇

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