霧の中の殺人

犬井作

深い霧の中、黒い人影と、白い女が出会った。

 都から遠く離れた、人里離れた山道に、すうーっと薄絹がかかるように白いものが覆いかぶさった。途端に陽の光は遮られ、呑み込まれたものは、形をすっかり失ってしまった。

 霧である。

 この山は度々、濃霧が出た。

 日が高く昇っていても前がみえなくなるほどに、たいそう深い霧である。

 一度呑み込まれるともういけない。霧は木々や獣たちの姿、落ち葉の匂い、そういったものまでかき消してしまう。視界の全てが白くなると、まるで方向感覚などなくなってしまう。動けば間違いなく迷うだろう。

 しかしそれはたいそう神秘的な風景でもあった。なんせ、視界の全部、どこを見渡しても白いのだ。ともすると、爪先が見えなくなることもある。指先が見えないこともある。そんな滅多に見られない霧がここでは度々見られるのだ。

 それを浮世を抜けて浄土へ至る道はかくやと思う人もあれば、地獄へ誘う怪生たちが潜むと思う人もあるだろう。いずれにせよそこは、この世ならざるものが跳梁するに相応しい舞台であり、人のいるべき場所ではなかった。


 そこに、人の姿があった。


 その者は、黒かった。目深に被った編笠のせいだろうか、それとも汚れた羽織袴のせいだろうか。だがその者の存在は、霧に穴を空けたようにいびつだった。

 背格好は男にしては幾分小さく、長い髪が後ろでひとつ結びにされている。羽織袴も随分と汚れてはいたものの、もとは立派な装束だと見て取れる。洗えば、汚れでかすれてしまった家紋も判別できるだろう。

 腰には二本が差してある。拵も黒く塗られていた。

 この者は背筋をピンと立てたまま、ずっと立っていた。霧の中、眉一つ動かさず、右手に広げた地図の一端を握ったまま、左手は柄に添えているばかりだった。

 その者は、じっと前を見ていた。途方に暮れているようにも、人を待っているようにも見えた。とにかく動こうとしなかった。その者の周りだけ、時間が止まっているようだった。

 だが、時間は流れる。刻一刻と、確実に。

 そうして、どれだけ経っただろう。

 たとえ霧が出ていても、陽は動く。

 ほんの僅か、その者の足元にできた影は傾いていった。

 しかし霧は、その色合いを変えるだけで、一向に晴れる気配がなかった。

 だが、何かが変わった。

 ぴくりと、その者の耳が揺れた。

 次の瞬間、その者は鯉口を切りながら振り向いた。

 その者はしかし刀を抜かなかった。けれど、斬られたと思ったのだろう。その者の目と鼻の先で、仔犬のような悲鳴が上がった。

 その者は鼻を鳴らして刀を納めると、尻餅をついた女に視線を向けた。

 いつからそこにいたのだろう。

 女は尻餅をついたまま、胸を手で押さえながら、息を整えようとしていた。

 その体に手拭いが放られる。女は顔を上げると、会釈して、額にびっしょりと浮かんだ汗を拭いて、立ち上がった。


「――ああ、驚きました」


 うつくしい女だった。霧に溶け込みそうなほど白く、髪も、肌も光そのものに似た白さで、身につけた貴族めいて華やかな着物も、その白さの前では霞んでしまう。川又常行の美人画が、そのまま絵画から抜け出したようだった。

 その者の興味を引いたのは、異質な、真っ赤な瞳だったらしい。女を一瞥したと思ったら、その目をじっと見つめた。

 女は照れたように頬に手を当てながら微笑する。しかしその者が皮肉っぽく笑いながら不機嫌な声を発すると、慌てて言い訳し始めた。


「覗き見とはいい趣味だな」


 その声に、女はわずかに驚いたようだ。鈴を鳴らしたような声は紛れもなく女のものだ。わずかばかり訝しんでいた様子だが、女は気を取り直したように話を続けた。


「覗き見していたのではありません。わたしの家はこの先にあるのです。帰ろうとした道すがら、ぼんやり立っている人がいたから、声をかけようと思っただけですよ。だって、この霧でしょう? 立往生をしているかと思って……それで……そのう、お侍様。どうして、こんな霧の中をつっ立ってらっしゃるのです? 旅の御方とお見受け致しますが……」

「さあ。どうしてだろうね」


 その者は編笠を取って頭を揺らした。


「私は椿。椿と呼べ」

「では、椿様。もしよろしければ、わたしの家でお休みになっていきませんか? さほど贅沢なもてなしはできませんが、一晩の宿には事足りるでしょう」


 女は椿を覗き込むようにしながら尋ねた。


「それとも、このような女ではお嫌ですか? 覗き見をするような者とは」


 女は袖を持ち上げて口元を隠すと、冗談っぽく微笑んだ。あどけなく、屈託のない笑顔は、見れば警戒心をすり抜けて、心をすっと和らげるだろう。

 それは、椿でも同様だったのか。椿は首を横に振ると、さっきの皮肉っぽい笑顔とは異なる、柔らかい笑顔を女に向けた。


「甘えさせてもらおうか」


 女は椿の横を通り抜けると、霧の先へと足を向ける。


「この霧は深くて、迷ったらきっとはぐれてしまいます。ですからわたしの後ろを、ぴったりついてきてくださいね。きっとですよ」

「念を押さずともそうするよ。こうしてもいいかね」


 椿は女の背中に手を当てた。女は寛容な笑顔で受け入れた。

 二人は歩き出した。

 もし目撃者がいたとすれば、それは不思議な光景だったろう。白い霧に浮かび上がった白い人型をしたものが、歩く影を連れているのだから。しかしこの濃霧はそんな風景も不思議でなくしてしまう魔力のようなものがあった。この世ならざる場所では何もかもが起こりうる。死神に憑かれたような美女がいても、なんら不思議ではないのである。

 いくばくか歩いた頃、女が先に口を開いた。


「それで……椿様はどちらまで?」

「この山に用事があるのだ」

「まあ、それは珍しい……それに刀を持った人などはじめてみました。まして、……」

「珍しいか。この刀は軽い。お前でも持てるだろう」

「左様ですか」


 素早く返された言葉にも驚いた様子で、女はほう、と嘆息した。


「この山にはなんにもありませんよ。珍しい山菜が採れるわけでなし、川に大きな川がいるわけでもなし……ああ、けれど、学者様がいらっしゃったことがありましたね」

「学者?」

「ええ、なんでもここでたいそう珍しい生き物がいるということで……その生き物は陽の光を浴びると死んでしまうというのです。わたしは聞いてしまいましたよ。それでは、その生き物はどうやって見つけることができるのです? 光のない闇の中でものを見られる生き物なんて、いやしないではありませんかと」


 椿は忍び笑いを漏らした。

 機嫌の良い声を聞いて、女も世間話を続けた。


「その学者様はなるほどそうかと言いながらもここいらでその生き物を探していたそうですが、けっきょく麓へ降りてしまいました。何度かご飯を振る舞いましたが、ああいう人は都のほうでしかいないのでしょうね」

「おや、おかしいな。私が聞いたのは、その学者はけっきょく帰ってこなかった、という話だが」

「……なんですって?」


 女は立ち止まった。振り向くと、愉快そうな笑顔と不愉快そうに眉根を寄せる顔がぶつかった。


「そんな話、いったいどこで?」

「知れたこと。麓よ」


 女はますます不愉快そうに眉根のしわを深くした。


「私がいったいどこから来たと思っている?

 あの濃霧の中、突然そこへ現れたとでも? まさか。死神でも幽霊でもあるまいし、この通り二本の足を持っている。街道を通り、麓へ寄って、そこから山へと登ったのだ。そこで聞いただけのこと」


 女はむっつりと黙っていた。


「なにを不機嫌そうにしている? 可愛い顔が台無しだ」


 はっと我に返ると、女は取り繕うように笑顔を作った。


「い、いえ、麓のものとは、折り合いが悪いものですから……」


 椿は促すように肩に触れた。


「さ、早く行こうではないか。このままでは日が暮れてしまう。日が暮れてしまえば夜になる。夜になれば、なにも見えなくなるだろう。こんなに霧が濃くてはな」


 見たところ提灯もないようだし。

 椿がそういうと女はこくこくと頷いた。

 二人は再び歩き出した。しかし椿が案じていた通り、霧は次第に色を変えた。白が翳ってきたなと思ったころ、わずかばかり切れ間があったのだろうか。黄金色の陽が射し込んだ。


「おお、これはいけない。間もなく日没だ」

「もうそんなに経ちましたか」

「無駄話をしたな」

「ええ……」


 険のある声に後ろめたさを覚えるのか、女の声は少々暗い。椿はしばらく黙った。女も黙った。そのうち、射し込んだ光はまた霧に呑まれた。しかしその黄金が、霧の中で乱れたように散らばった。辺りは一面の白から、金粉を散らしたようになった。わあ、と女は声を出した。


「……綺麗ですね。わたし、こんな風景、初めて見ました」


 だが椿は不機嫌を隠さず言い返した。


「綺麗なものか。お前はこの光をなんだと思っている、日没だぞ。まもなく辺りがみえなくなるという証左だ。だいたいここに住んでいたら珍しくもあるまい。私を馬鹿にしているのか」

「いえ、いえ、違います、本当です! わたし、初めてこれを見たんです」


 女は食い下がった。立ち止まって言い返そうとして椿に背中をずいと押された。女はよろめきながら前へ進んだ。狼狽した様子で、だけどなおも食い下がった。


「本当なんです。ふだんは霧が出ないときに動きますから。それか、こんな時間に外にいませんから。ですから……」

「不愉快なやつだな。お前はそんなにいい目をしているのに。やっぱり人間は不愉快なやつだ」


 吐き捨てるように椿はいった。が、すぐ機嫌を変えると、女の背中を軽く押しながら愉快そうに笑いを溢した。


「まあいい、お前にとって珍しいことにしてやろう。日没を知らない珍しい田舎者だとな。だがな、知っているか。今は明るいが、少しすると、陽は沈み、光の残滓だけが残る。それはとても淡いもので、すぐに夜がやってくる。昼から夜へと変わる刻をなんと呼ぶか、知っているだろう。逢魔が時というんだ」

「は、はあ……」

「魔が潜むのだ。その刻はな。面白いことを麓で聞いた。これは、お前は知ってるはずだ。お前が会ったという学者様はな、魔物に食われたというんだ」

「食われた?」

「生き血を啜る怪生だそうだ。そいつは深い霧を操り、光から隠れて生きるそうだ。そして鋭い牙で生き血を啜り、命の糧にするという。まあ、人がけものを食うように、そいつも人を喰うだけだろうがな。どうやってか、海を渡って入ってきたという話だ。港から逃げて、この山奥へ消えたのだ、だからこの山は深い霧が出るそうだと、麓では評判になっていたよ」

「……ばかばかしいですね……そんな話」

「そうかな。侍には熊と相撲を取った者や、山のように大きな百足を退治した者もいるのだ。そんな化物がいてもおかしくないだろう」

「バカバカしいです。不愉快です。どうしてそんな話をするのですか」

「食われたという学者様がその噂を頼りにこの山に入ったと聞かされたからさ。世間話の続きだよ」

「…………」


 女は黙った。


「知らなかったか」

「ええ……知りませんでした」

「そうか。おかしなことがあるものだなあ。お前は学者様に会ったというのに」


 女は黙った。前へ進んだ。会話は絶えた。

 二人を包んでいた光の海は消え去り、いつしか霧に闇が混じりだした。


「まだ着かないのか」

「いえ、そんな。もうすぐです」


 急かすように椿は女の背中を押した。


「誤魔化すんじゃない」

「本当です」

「だがなにも見えないぞ」

「そんな……」

「私を騙そうとしているのか?」

「滅相もありません」

「あ、ほら、あそこ!」


 声をあげて指差した先に灯りがある。霧に遮られてぼんやりしているが、たしかに人家の灯りだった。


「いつも家の中で火を焚いているんです。だから」

「ふうん……」

「……椿様?」


 女は二、三歩歩いて、立ち止まった。彼女の背中に触れていた手の感触が消えていたからだ。辺りを見回したが、椿はいない。ただ霧が紺色に近づいて行くばかりだ。


「椿様? 椿様?」


 女は何度も呼びかけた。山彦だけが答えた。椿様と呼ぶ声が、あちこちから聞こえた。気が狂ったように声が押し寄せる中、霧の中から黒い影が姿を出した。

 女は安心したように頬をほころばせた。

 だが次の瞬間、黒い影は深く沈み込んだ。鯉口を切る音がした。女は何かに気づいたように顔をこわばらせた。長い犬歯が、上唇の端から見えた。

 鈍い音がした。

 黒い影は女の後ろにあった。背中を向けたまま、刀を振るった。血が霧の中散って、消えた。

 女は崩れ落ちた。


「――つばき、さま――なんで――」


 椿は振り返ると皮肉っぽく笑った。


「妖怪といえどずいぶん鈍感らしい。それとも、霧に隠れてしか生きられない弱虫には、そんな繊細さはないか」

「な――なんですって?」

「私は麓の村のあるものに頼まれてお前を斬るべくここへ来たのだ。観念して受け入れろ。もう助からん。腹を抉ってやったのだから」


 椿が言うように、女の腹から血が溢れていた。墨汁のような血にまみれて、人並み外れた大きさの腎臓や腸が、女のふとももの側にあった。あの一撃で女の腹を背中まで斬り裂いたらしい。

 浅く息を吐きながら、女は寒さに耐えるように体を抱きしめた。そしてキッと椿様を見上げた。


「わたしは、ただの女なのに。あなたは地獄へ行きますよ」


 椿は答えない。憎悪のこもる赤い瞳をただ受け止めるばかりだ。女は息も絶え絶えに、椿に濁った声をぶつける。


「わたしは、生まれたときからこの容貌でした。だから村では化物の子と蔑まれました。山の上に居を構えたのは、わたしを愛した父と母の計らいです。家族を捨てて、村を捨てて、わたしのために、家族で山奥へ移ったのです。そして山の実りを取り、人との交わりを持つことなく、この日まで生きてきたのです。この長い犬歯も、化物の噂などとは関係ありません。それだというのに噂が立って、……わたしに会いに来たものは、わたしがただの人だと知って、勝手に期待して、勝手に落胆して……その帰り道、霧に足を取られて。山に食われたのです。わたしが人を食うたのではありません。だというのにあなたは、聞かずに斬りました!」


 女ははじめは穏やかに、だが次第に烈しく、呪い殺すような声で叫んだ。


「あなたは地獄へ行くのです。さあ、とっとと斬りなさい!」


 はじめ、椿は黙っていた。

 が、……くつ、くつと忍び笑いを漏らしたかと思うと、声を上げて笑い出した。


「これだから人間は不愉快だ」


 女は呆然と、椿が笑うのを見ていた。

 椿は女の肩を蹴ると馬乗りになって顔を近づけた。その目玉に唇を寄せて、べろりと舐めた。


「だがこの目玉は格別だ。たいそう美しい目だ。二つとなく美しい目玉だ……まあ、二つあるのだが」


 女は驚いて体を逸らし、その拍子に痛みで声を上げた。やにわに椿は頬を張った。烈しい音が鳴った。

 女は驚いて言葉を失った。

 椿は笑う。


「安心しろ。すぐには斬らない。それに地獄も怖くない。お前が本当に人を食らっていたかなどもどうでもいい。目玉だけが目当てだからだ。私はまずお前の目玉をくり抜いて、それから首を切り落とす。新鮮な目玉でなければ色が濁るからな」

「……なに?」

「お前は刀が珍しいと言ったな。当然だ、これは私の刀ではない。私が愛した目玉の主の持ち物だ」


 椿は刀をしゃらりと抜くと立ち上がった。薄闇を背に、椿は影そのもののようになった。白刃の鋭い煌めきに、椿の黒い瞳が映る。


「冥土の土産に教えてやろう。私は人の形をしたものが嫌いだ。この世というのにうんざりしている。血肉で出来た糞袋が糞を吐くように我が物顔で歩いている。気に食わん。だが目玉だけは好きなのだ。こいつなら、いくらでも見ていられる。この世の栄華である金銀財宝、きらびやかな宝石も、それは虚しい輝きだ。砕けば石ころより安い。だいたい、土から取れるのだ。糞が栄華を産んでいるのだ。そんなもの、なんの価値がある? だがこいつは違う。目玉は、命ができるとき勝手に作られる。人は糞からは生まれない。こいつの色の美しさは、この世で最も美しい花と同じもの。私には、そのほうが遥かに価値があると思う。だからだろう、こいつにしか想いを感じられないのだ。

 旦那様に嫁に出されて、閨を共にした。だがつまらなかった。なにもかもつまらなかった。だが、ある時な、辻で女中が馬に頭を砕かれて、足元に目玉が転がってきた。そのとき、胸が高鳴った。その晩、夜になっても忘れられなくてな、旦那様に抱かれているとき思った。旦那様を愛しているのはこのうつくしい目があるからだと。もしこの目玉を得られたらたいそう気持ちいいだろうとな。だから旦那様が寝たとき、旦那様の顔を包丁で割いて、目玉をくり抜いた。ほら、見ろ。これが私の旦那様が持っていた目玉だ。幼い私を娶って後ろめたかったのだろう、剣術を教えてくれた恩もあって、これだけは大切に首からぶら下げている」


 椿は首元から紐でくくられた透明な容器を見せびらかした。さながら子供が宝物を自慢をするような笑顔だった。


「この容れ物は海の向こうから来たという医者がもたらしたものだ。旦那様がたいそうな蒐集家でな、こんなものもあったのだ。これには液体が満たされていて、それに漬けると、なま物をそのままにしておける。もとは蛙なんぞをより生きたままにしておくためだったそうだがな……おかげでこうして、旦那様の目玉と、いつも一緒にいられる。旦那様は死んでしまったがこの目玉はうつくしいまま。だが殺してしまったから家にはいられない。旦那様の装束と刀をお譲りいただいて、私は旅をしているというわけだ。目玉集めの旅をな」


 椿は袴を翻した。そこにはいくつもの小瓶が縫われた紐で留められていた。空の小瓶もあったが、ほとんどに目玉があった。色も形も異なる目玉が、女を見下ろした。


「おまえで五十人目だ。お前の目は両目とも貰ってやる。お前のようなうつくしい目、誰かにやるには惜しいからな」

「……化け物め」

「ああ……いい目だ。その目のままにしておいてくれ。苦痛に歪んだ目なんぞより、恨みの籠もった目のほうがいい。旦那様もそうだった」


 椿は女の首を突いた。音もなく振り下ろされた刃は女の喉を貫いて、地面に突き刺さった。女は声も出せなくなった。

 椿は馬乗りになると懐から小さい刃物を取り出した。女は知らなかったが、それはメスという外科道具だった。女はまだ息をしていた。喉からあぶくが吹き出した。椿は女の顔を刃先でさっと撫でた。

 悲鳴が上がった。霧が揺れるようだった。濃くなっていく闇の中、答えるものはなかった。獣たちの目も、去りゆく大日霊貴おおひるめむちの目すらも、濃霧に遮られてしまっていた。

 しばらくののち、椿は立ち上がった。そのうつくしい顔に跳ねた血を手ぬぐいで拭うと、動かなくなった女を蹴転がし、道の脇に押し出した。

 椿は気づいていなかったが、そこは急な斜面に挟まれた一本道だった。女は巧妙に椿を逃げられないようにしていたのである。それは自分の身を守るためでもあった。が、しかしその崖にも似た斜面のせいで、女の体はあっという間に谷間に向けて転がっていった。

 椿はあたりを見回して目を凝らした。遠くに灯りが見えた。どうやら霧が晴れてきていた。あれが、女が連れて行こうとしていた家らしい。

 椿はそちらに向けて足を向けた。

 歩きながら、こう考えた。日が昇るまであそこで休ませてもらおう。誰か仲間がいるかもしれない。もしそうなら、そいつの目玉も見てみよう。

 もし朝になっても霧が晴れず、帰れなくなったら、あの女のように生きるのも悪くない。

 足取り軽い椿の背中は、霧の中へ消えていった。

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霧の中の殺人 犬井作 @TsukuruInui

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