第5話 二人と一匹の朝

 アングヒルの空が、夜の闇から澄んだ青色に染まりきった頃。

 レジデンスの研究室ラボのテーブルの上に置かれた携帯用端末が、ピピピと耳に付く電子音を鳴らす。

 その音と共にパチリと目を開けたエーデルは、手を伸ばして端末を握り、目覚まし機能をオフに切り替えた。

 それからゆっくりと体を起こし、ぐうっと軽く背伸びをしてから、テーブルに立てかけていた杖を手に取る。


「よ……っと」


 エーデルは杖とテーブルを使って、勢いよく立ち上がった。そして、椅子に掛けていた薄手のポンチョを羽織り、ぎこちなく足を動かしながら、ひょこひょことラボから出る。


「おはよう、エーデル。よく眠れたかい?」


 ラボから出た途端、エーデルに低く穏やかなロバートの声がかかる。思わず反射的に身構えたエーデルに、彼はくすくすと笑い声を零し出した。足元では、起きてきた主人に甘えるように、リアンがごろごろと喉を鳴らしながら擦り寄ってきていた。

 にこにこと笑顔を向けてくるロバートから視線を逸らして、「おはよう」と消え入りそうなほど小さな声でエーデルは答える。

 そんな反応でも、ロバートは嬉しそうだった。

 エーデルはそれには何も触れず、それよりも気になることであるリビングダイニングキッチンに充満している匂いの方へと意識を向ける。

 甘い匂い。焼いたパンの香ばしい匂い。その他にも、焼けた肉の匂いもしている。普段の生活の中で、しばらく嗅いでいない匂いだった。


「……何してるの」

「何って、朝ご飯を作っているんだよ。さ、どうぞ、ソファに座ってて」


 ロバートはそう言って、ソファの前にあるテーブルの上に二人分の朝食を並べていく。彼を手伝えないことを理解しているエーデルは、促されたままにソファに腰を下ろした。

 彼女の目の前には、ハムエッグの乗った食パンと都市農園産の葉野菜サラダ、そしてココアの入ったマグカップが置かれる。いずれも、昨日利用した商品宅配サービスを使って買った食材だ。

 元々アンドロイド関連の物と家賃以外にクレジットを使わないため、ある程度欲しい物を買ってもいいと言ったのは彼女本人だ。だが、ロバートが自身の衣類や生活用品以外に食材を買うのは想定外であった。

 ぴょんと膝の上に乗ったリアンを撫でながら、ロバートが最後の一品を持って座るまで待つ。運ぶ作業を終えた彼はソファに座ってから、エーデルへ目を向けた。


「食べていてもよかったんだが」

「作ってくれた人は待つ。……断っておくけど、私は常識がないわけじゃない」

「ふふ、冗談だよ。そんな顔をしないでくれ」


 エーデルがむっとした顔でそう言えば、ロバートはくすくすと笑う。エーデルには何が面白いのか、さっぱり分からなかった。


「さぁさぁ、食べて。――あぁ、でも普段あまり食べていなかっただろうから、無理をして全部食べようとはしなくて構わない。君が食べられる範囲で、ね」


 エーデルはそろりと、まずはココアに手を伸ばした。

 小さな口の中に含めば、甘い匂いが鼻を抜け、温かなぬくもりが身体へじんわりと広がっていく。随分と久し振りに感じるココアの味だ。

 ほわ、とエーデルの顔が柔んだ横では、ロバートが食前の祈りを捧げ終えてから、ハムエッグトーストに齧り付いていた。


「うん、いい具合だ。エーデル、お味はどうだろう?」

「……美味しい」


 ロバートの問い掛けに、サラダをもごもごと食しながら、エーデルはボソリと呟くような声で答えた。

 ロバートは、にこりと笑う。


「それは良かった。それで今日は、何時頃に帰ってくる予定なのかな。それまでに私が家で出来ることとか」

「いや、……家に居なくていい。職場に付いてきて」


 エーデルの申し出に、ロバートはキョトンと目を丸くさせた。そんな彼の反応に、彼女はむくれた顔をする。


「いいだろ。護衛もしてくれるって言ったのは君だ。……私は、使えるものは使う主義なんだ」


 それきりエーデルは黙々と、ロバートの作った朝食を腹の中へ収めていく。彼はそんな彼女を見ながら、顔を綻ばせながら食べていた。


 結局エーデルは全てを腹に収めることは出来ず、ハムエッグトーストの三分の二ほどをロバートに食べてもらい、何とかエーデルは朝食を終えた。

 食後。エーデルは身支度を手早く整え、端末とアンドロイド管理局に入るためのIDカードをポケットへ入れ、部屋の扉を開けた。

 部屋の前では、すでに身支度を終えたロバートが、リアンの相手をしていた。エーデルが出てきたことに気づくと、リアンと共にすぐに歩み寄ってくる。

 そして、ロバートは手を差し出してきた。流れるように無駄のない動きである。


「……この手は」

「杖だけだと歩くのが大変そうだと思って。言ったろう、君の介助用アンドロイドの代わりにもなると。さ、どうぞ」

「そういうのは、私なんかじゃなくて普通の女の子にやった方がいい。リアンのこと、よろしく」


 エーデルはそう言って、玄関の方へ歩いて行く。


「……リアンくん、君の主人はなかなか硬い人だね」


 その後ろ姿を見ながらボソリと呟いたロバートに対し、みゃおぅと彼の腕の中のリアンは愛らしく鳴くのだった。


 平日の朝のアングヒルは、人間もアンドロイドもロボットもごちゃごちゃと混ざり合い、一日の中でも一番騒々しい時間だ。

 皆、同じようなスーツ姿をして、それぞれの職場の持ち場へと歩いていく。その後ろを、彼らの所有しているアンドロイドやロボットが、荷物を持ってついて行っていた。

 普段のエーデルであれば、特に何かを見ることも喋ることもなく歩いていくが、今日の彼女は違った。


「エーデル、あのビル、随分と窓から緑色が見えているけれど、デザインか何かだろうか? かなり目を引く建物に見えるだが」

「……ヘブンズファーム、っていう都市農園をやってる会社の所有しているビル。あの中で色んな野菜をアンドロイドを使って人工栽培して出荷してる。今日の朝食の野菜も、この会社が作ったものだと思うよ」

「なるほど。では、その横は?」

「培養豚の飼育施設。ちなみに一階は直営になってて、新鮮な肉がその場で購入出来る。オンライン販売もしてる」

「ふむ。じゃあ帰りに寄って買って、今日は焼肉にしようか」


 ロバートの質問に対して、エーデルは逐一彼へその答えを伝えていく。隣に並び立っている為、無視することははばかられた。

 日頃よりも口を動かすからか、顎に痛みがあるような気すらしている。そんなエーデルの気持ちなど知らず、ロバートは楽しそうに笑っていた。


「肉だろうが魚だろうが、好きに食べればいいだろ」

「そうかもしれないが、二人で食べるんだから、私一人の意見に偏るのは良くないだろう? あぁ、そうだ。エーデルの好きな食べ物は何かな?」

「……好きな、食べ物……」


 エーデルは、そこで口を閉じた。それから少し視線を左右にさ迷わせて、人の喧騒に消えてしまいそうなほどの声で、ブツブツと呟く。


「……上手く言葉で表現できないけど、今日飲んだココアは、また飲みたいとは思った」

「そうか。それは良かった。じゃあ夜にも作って出そう」


 にこにこと笑顔を見せるロバートに、エーデルは杖の先で足を叩いて返答した。

 そして、二人はじっくりと時間をかけて、アンドロイド管理局の前までやって来た。

 ロバートとの会話に時間をかけていたからか、エーデルは普段よりも随分と疲れを感じていた。

 溜息と共に管理局の自動扉をくぐった時。


「どうしてくれるんだ!」

「す、すみませんっ!」


 低い男の怒号と震えた中性的な声、二つの声が聞こえてきた。

 声はエントランスの受付カウンターの横。向かい合っている年の離れた二人の姿を見つけ、エーデルは溜息を再び吐いた。


「あれは、」

「……時々ね、ああいう人が来るんだよ」


 エーデルはじとりと二人の姿を見てから、ひょこひょこと杖を突きながら歩いていく。ロバートも慌てて後を追った。

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