第4話 契約
ウィンという音で扉が閉じられたことを確認し、エーデルはそっと胸を撫で下ろす。その安堵の吐息と共に、ぐうと腹が音を鳴らした。
夜通しの機械義手の作成。ロバートの看病。一対一で面と向かって異性と喋るということ。どれもエーデルの初めての経験で、思っていた以上に精神を使っていたらしい。
彼女はよたよたと、冷蔵庫へと向かっていく。
エーデルの住むレジデンスは、アンドロイドに関係した職に就く人間が住まうことを想定とした特殊な住居だ。基本的には利便性に重きを置いて、部屋が作られている。
リビングダイニングキッチンで一部屋。バストイレ、寝室、
キッチンの後ろの冷蔵庫を開け、栄養補給液が入ったパック飲料を取り出す。半透明の液体が入ったそれは、人間には必須である水の補給も出来る上に、手早く栄養を摂っていることにもなる。エーデルにとっては、一石二鳥である。
日頃の彼女の食事の大半はこれだ。ゆえに、冷蔵庫にはこの商品が大量に入っている。
「あぁそれ、駅前の
後ろから聞こえてきた声に、エーデルは肩を大きく跳ねさせて、勢いよく後ろを振り返った。
「っな、なんで」
「少し歩くくらい構わないだろう? ……ここは、随分と生活感の少ない部屋だね」
ロバートはにこりとエーデルへ微笑みかけ、室内全体を見渡した。
どこもかしこも飾り気のない部屋。人が住んでいるとはあまり思えないほど、必要最低限の家具しかなかった。
そのため広くなっているリビングでは、リアンがカーペットにごろごろと体を擦り付けている。
「ここには、君と彼の二人きりなんだね」
「……そうだけど、何?」
「いや、人間嫌いが嘘ではないのだなと思って。君は足が悪いと見えるのに、人型のアンドロイドを置いていないから」
ぴくっとエーデルの指が動く。
こんなレジデンスに住めるだけの金を持っているのなら、介助用のアンドロイド一体程度、買うことは可能だ。だがエーデルは、手元に子猫の愛玩ロボットしか置いていない。
彼女の人嫌いが、筋金入りのものであることが窺える。
「……君には関係ないだろ」
「まぁ確かに。そこにとやかく言うつもりはないとも。それに強敵がいないということだし」
「強敵?」
「あぁ」
エーデルが首を傾げていると、パックを持っている小さな手をロバートは取り、その指先に口付けを落とす。あまりにも手慣れた所作に、エーデルの口はあんぐりと空いたままになる。
そんなエーデルの反応に、ロバートはふわりと口を綻ばせたまま、少しだけ彼女の手を引いた。
「君が、あまり人と関わることをして来なかったのはよく分かる。自分の意見だけ先に告げて、こちら側の意見は聞こうともしないのだから。……あぁ、立ち話はよくなかったね」
「っうわ!」
ロバートは、ひょいっとエーデルの体を横抱きにした。
彼女は慌ててロバートから離れようとしたが、足が動かせないためろくな抵抗も出来なかった。彼は、エーデルをソファに下ろし、その横に腰を下ろす。
「な、何」
「単刀直入に。君の傍に私を置いて欲しい」
「──ハァ?」
ロバートの申し出に、エーデルは目を白黒させる。聞いたことも無い主人の声に反応して、リアンの動きが一時的に止まった。
「見ず知らずの人を、どうして私が家に置く必要があるんだ……」
「……その、私は、自分の夢というものを探しているんだ」
ロバートの口から溢れた夢語りな言葉に、エーデルは目を瞬かせる。
「前の職場の上司が、別れの間際に『お前たちはまだ若い。夢や生きがいを抱いて、自分の人生を生きよ』と言葉をかけてくれてね。でも、私は生憎そういうのに縁遠くて。どうやって生きていこうか、悩んでいたんだ。……今もね」
どのような職場に居れば、そのような重たい言葉を上司から頂戴するのか。
そう思ったものの、エーデルは特に口を挟むことはせず、栄養補給液を飲み始める。
ロバートは、機械義手の右腕をゆっくりと持ち上げた。
「君は、これについて語っている時は、凄く楽しそうだった。好きなんだろうな、という思いが、初対面の私にも伝わってくるくらいに」
「そ、れは……」
「うん、君はやはり誠実な人だな。否定しない」
にこにこと笑う彼に、エーデルは顔を顰めている。
「君の傍に居れば、何か分かるような気がするんだ。あの人の言葉も、自分の夢や生きがいというものも。……もちろん、ただの推論に過ぎないが」
ロバートの褐色の手が、エーデルの色素の薄い手を握る。伝わってくる暖かな温度に、彼女は身を竦ませた。
オーシャンブルーの双眸が、ハニーイエローの双眸を見つめる。
「エーデル。もし君さえ良ければ、どうか私の頼みを受け入れてはくれないか」
エーデルは、はくと唇を動かす。
どういう反応が世間一般的な返答になるのかが、対人経験の少ないエーデルには分からない。
学校では、アンドロイド管理局の局員採用に向けた個人での競争。アングヒル支部の調律部門に所属してからは、個人主義的な調律師社会に組み込まれた。他人と会話を楽しむという経験を、これまでの彼女の人生の中でほとんど積んでいない。
混乱したままの頭で、エーデルは彼の言葉をただひたすらに反芻する。
「君の生活に深く踏み入りはしない。介助用アンドロイドだと思ってもらったのでいい。……どうだろうか」
なかなか答えを口にしないエーデルへ、再度ロバートが声を掛ける。
「……文字は?」
そんな彼へ、今度はエーデルから問い掛ける。
ロバートは面食らったものの、すぐに「文字?」とエーデルへオウム返しした。
「文字だよ。読めるの?」
「あ、あぁ、そういう……。ええと、そこまで難しくなければ、読み書きは可能だけれど」
「料理は?」
「料理上手とは名乗れないが、少なくとも、そんな水ばかりで済ませる君よりはマシ、と言っておこうかな」
「うるさい。もし私が反アンドロイド派の人間に殴られそうになった場合、対処は出来る?」
「こう見えても腕は立つよ。……あぁ、アンドロイドには劣るかもしれないけれどね」
「そこと比べなくていい」
エーデルは、小さく息を吐き出し、リアンを膝の上へ呼んだ。彼は、名を呼ぶ声と叩く音に反応し、すぐに彼女の膝の上へ乗る。
「……少し、自分語りをしてもいいか?」
「? あぁ、もちろん」
ロバートの言葉に、エーデルは一呼吸おいて、口を動かし始めた。
「……私の主な仕事は、アンドロイドやロボットの最も重要なパーツ、情操領域の調整。人間でいうところの、心とか
エーデルの語る言葉の意図が読めず、ロバートはただ彼女の唇が次の言葉を紡ぐのを待った。
「主任曰く、私の調律では感情が希薄で、人間味が少ないのだと。たまには友達と遊んでごらんよと言われたけど、友人の作り方は学校で習ってないから分からなくて。……再出荷オークションでこの子を買ったのも、何か人の心を掴めるかと思ったからだ。まだ分かってないけど」
「そうか。……大変な仕事だね。人が嫌いなのに、人のことを知れ、か」
「矛盾してるのはよく分かってるよ、私自身がね。でも、私が一人で生きていくには、調律師しかなかったから」
エーデルの手は、リアンの丸まった背を撫でる。柔らかな手触りの毛。だが、同時に冷たい金属の温度も伝わってくる。それ以上に何か抱くことはない。
普通の人は、リアンに対して『癒される』だとか『可愛い』だとか、そういった感情を抱くのだろう。そのことを理解していても、エーデルは実際に思ったことがないため、情操領域の調律へ還元することが難しいのだ。
「……君といれば、分かると思う?」
「……きっと」
ロバートの言葉に、エーデルはふふと小さく笑う。
初めて見る彼女の破顔した表情に、ロバートは目を見張った。
「絶対、と言わない辺り、君も誠実な人だな。……妙な真似をしたら、すぐに追い出すからな、
それが彼女なりの了承だと理解し、ロバートはこくこくと激しく頷いて、ぎゅうっと繋いでいる手を強く握った。
「ありがとう! ……よろしく頼む、エーデル」
「こちらこそ。君が早くこの家から出て行くことを願っているから」
こうして、二人の奇妙な共同生活が始まったのだった。
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