235. 要請と安堵


 生徒指導の教員に連れてこられたのは、これまでに訪れたことのない校長室。それはきっと草野も有馬くんも同じだろうと思う。先ほどまでの周囲が全員敵という環境よりはマシかもしれないが、この妙に緊張感のある部屋で校長先生や生徒指導担当の若干強面な先生と話をするというのもあまり経験したいことではない。


 それでも、教室で注意があったようにスマホで俺たちの様子を配信していた生徒がいたことを教員陣は重く見ているようで、そのときの状況を知っていることもあるのか、お偉い方の先生の俺への対応は親切で優しいものだった。


 別々に話を聞くということで、草野や有馬くんと顔を合わせなくてもいい隣の個室に一人でいさせてもらえているし、スマホを使用しての家族への連絡なども許可をもらえている。公平に見てもらえるのはありがたいし、さっきまでのように完全アウェーということはないはずだ。


 そういうわけで、誰もいない部屋の中一時の自由を得た俺は、この不利な状況を打開するために電話をかける。助力を求めたのは、マリーの兄であり俺にとってはバイト先の先輩である琥珀さん。


 一華さんの近くには母さんがいて、もし耳に入ってしまえば不要なストレスをかけてしまうかもしれない。そして、紫乃藤家とはまだ何も関係を築いていない。藍葉さんに連絡してもいいが、従姉妹とはいえまだ出会って間もない相手に頼むのも気が引ける。


 それに何よりも、アリアさん、アトラさんという護衛をつけてくれている橙宝院家であれば既にこの状況を把握してくれているだろう、という考えがあった。


 「――――――お忙しいところすみません、琥珀さん」


 『こちらのことは気にしなくてもいいよ。大也の方が大変だろうからね』


 いつものように落ち着いた口調の優しい言葉に、わずかに残っていた心配がどこかに霧散していくのを感じる。そして、俺のことを案じてくれていることから予想通り現状を把握してもらえているようだ。


 「えっと、アリアさんたちから話は伝わっているということで大丈夫ですか?」


 『ああ。だから大也は何も心配しなくていい。僕たちがどうにかするから気楽に待っていてくれ』


 さらりと告げられた言葉に特段強い感情は含まれていないようだったが、俺にとってはとても心強く感じられるものであり、よりいっそうの安心感に包まれる。


 そうして待機していればいいと言ってもらえたことで肩の力が抜けた俺は、今更ながら他人の心配をできるようになったため気がかりなことを尋ねてみた。きっと橙宝院家の力をもってすれば把握しているだろう、と考えて。


 「ありがとうございます。あの、嘘の証言をしている生徒は脅されてるみたいなんですけど、何かご存じですか?」


 『調べはついているからそちらも問題ないよ。・・・・・・すまないけどこれから会議があるんだ。電話を替わるから少し話してやってもらえるかな』


 やはり、というか流石の対応力である。予想出来ていたことなので事前にある程度調査が進んでいたのだろうか。それはともかく、本当に忙しいタイミングで電話をかけてしまったらしい。


 「はい。頼り切りになってしまって申し訳ないですけどよろしくお願いします」


 『あまりかしこまらないでくれ。大也からお願いされなくても、僕たちは勝手に動いただろうからね。それだけこの一件には腹を立てているんだ。それに、大也が周囲の雰囲気にも負けず状況を打開しようと努力したことも知っている。よく頑張ったね。それでは電話を替わるからよろしく頼む』


 申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいになりながら改めてお願いをすると、思いがけない反則とも言える褒め言葉をもらって、涙腺が緩むのを感じた。もし面と向かって言われていたなら、この涙を堪えられた自信はない。それくらい嬉しかったのだ。


 電話の相手が替わるというタイミングも今で良かったと、少し恥ずかしい気持ちになりながらそう思った。


 『大也さま。マリーです。この度は大変でしたね』


 琥珀さんの口ぶりから予想していた相手の声が聞こえてきて、泣いている場合ではないと一旦気持ちを引き締める。ただでさえ頼り切りで申し訳ないのに情けない様子まで晒すことはできない。


 「まあ、うん。でも琥珀さんやマリーが力を貸してくれるなら大丈夫だって思うよ」


 『あの、マリーたちだけではありませんよ?』


 平然を装って答えた俺であったが、それに続いたマリーの言葉に間抜けな声を挙げてしまった。


 「え?」


 『瑠璃お姉様から白宮守家、すみれさんから紫乃藤家にもこの一件は伝わっていますので』


 まったくその可能性を考えていなかったかと言えば、そうではない。けれど個人的な感情だけを通すならあまり多くの人を巻き込みたくはなかった。理由は色々とあれど、今更それをマリーに言ったところで意味はないため相づちを打つだけになる。


 「・・・・・・そうなんだ」


 『ご心配なさらずとも、瑠璃お姉様は百合花さんに伝わらないよう一華さんだけに上手く話をされています。紫乃藤家の方も、おそらくですが藍葉さんのところまでしか伝わっていないでしょう』


 ただ、説明せずとも勘の鋭い電話相手には俺の心情など筒抜けだったらしい。そして、マリーだけに限らずみんなが此方の気持ちを汲んだ上で行動してくれているような気がして、改めて支えてもらっていることへの感謝が溢れてきた。


 「流石マリー、全部お見通しみたいだ」


 『大切な方のことですから』


 シンプルかつ明瞭なその答えが嬉しくない人間などいないだろう。そして先ほどまで周囲が敵ばかりだった俺にとって、この言葉の安心感は胸の奥深くまで浸透した。琥珀さんもそうだったが、この兄妹には本当に人を惹きつける力があると思う。


 幸運にもそんな二人と知り合って関係を結べているのだから、何度でも感謝を言葉にしていきたい。


 「ありがとう。俺も大切なマリーの声が聞けて嬉しいし、ホッとしたというか落ち着けたよ」


 『そ、それでしたらよかったです』


 なんとなく電話越しの声が上ずっているような気がしつつ、心身ともにリラックスできたためかふと頭に浮かんできた問いを投げかける。


 「そういえばマリー、学校は大丈夫?」


 『はい。問題ありません。大也さまのことより優先されることではないですから。アリアから連絡を受けてすぐに帰宅し、琥珀お兄様に相談していました』


 他に優先するべきことはあるだろう、と立場の違う位置にいるお嬢様のことが心配になる。けれどそれを否定することなど出来ないし、むしろずっとそう思ってもらえるように頑張りたいところだ。


 「俺の優先度はそこまで高くなくてもいいんだけど・・・・・・でもありがとう。そういえば、一応事前にこういう場合の対応についてお願いはしてたけど途中で介入してくる可能性もあるかと思ってた」


 お願いというのは、できるだけ穏便に済ませたいという俺のエゴのこと。とはいえ、教室での状況を思えば何か動きがあってもおかしくはないほどの窮地だったようにも思う。自意識過剰かもしれないが、俺と同じように草野の言動に怒りを覚えて暴走する味方もいたかもしれない。


 『もちろんそれも考えましたが、大也さまが堂々と戦っておられましたので邪魔はできません。久世さんの名前を出されて劣勢になった際にはあの運だけの愚者を狙撃させて黙らせようかと思いましたけど。怒ったアリアとアトラが命令を出す前に準備を終えて実行しようとしたので、逆に冷静になって止めてしまいました』


 「・・・・・・止めてくれて本当にありがとう」


 想像していたとはいえ、実際に寸前のところまで迫っていたことを知ると背筋に冷たいものが流れてくる。あれだけの人数がいる中で狙撃事件など起こったら大騒ぎどころではないしすべてを隠蔽することも難しいだろう。いや、それができてしまうことも十分にありえるため今は考えないようにして心からの感謝を伝えた。


 『いえ、感謝されるようなことではありません。命を奪ってしまっては反省ができませんからね』


 「ははは・・・・・・」


 どこまで本気なのか分からない物騒な言葉には乾いた笑いを浮かべることしか出来ない。ただ、マリーの使った『反省』という単語はまさにその通りで、感情の暴走と言ってもいい今回の件についてはきちんと草野自身に省みて欲しいところだ。


 『大也さまが望まないことはいたしませんので、ご安心を』


 恵まれた人間関係に助けられ、俺はきっとこの難を逃れることができるだろう。それでも、もしみんなとの繋がりがなかったとしたら、と考えたときにこの手口は相当悪質だ。窃盗の罪を着せられて退学処分になるはずだし、最悪警察沙汰にもなるだろう。


 そう考えたとき、俺は草野にどんな罰を望んでいるのだろうか、とマリーの献身的な言葉を聞いて思った。もっとも、それについては自分が決めて良いことではなく、客観的な視点で判断してくれる人たちに委ねるべきことのはずなので考えるのをやめる。


 とはいっても、この後権力者たちの力を借りて盤面をひっくり返そうとしている時点で個人的な報復になっているような気もした。たとえそうだとしてもこの状況を許容することはできないので、そこは割り切っている。


 「―――――黒菱、そろそろ話を聞きたいんだがいいか?」


 自身の感情やこれからやろうとしていることを繰り返し俯瞰的に見つめていると、扉をノックする音が聞こえて生徒指導の男性教員から声をかけられた。


 先に行われていた草野、有馬くんからの聞き取り調査が終わったのだろう。次は被疑者である俺の番ということだ。マリーたちのおかげでもはや向かうところ敵なしといった精神状態になっているので、ただ落ち着いて事実だけを話せば良い。


 「はい。大丈夫です。――――――ごめん、マリー。先生に呼ばれたから切るよ。あ、何かお礼もしたいから俺にしてほしいこと考えといて。あと、何回も言うけど本当にありがとう。愛してる」


 自分でも少し驚いてしまうほどすんなりと出た愛情表現の言葉。そこに羞恥心はなく、きっと電話じゃなくて直接でも言葉にできる自信があった。改めて自分が愛されていることを自覚したからこそ、恥ずかしがっていてはいけないと思ったのかもしれない。


―――――――――――――――――


 『――――愛してる』


 「・・・・・・・・・・・・ず、ずるいです。こんな不意打ち」


 プツッと通話の終了を告げる短い音がしてからしばらく、茉梨衣はゆでだこに負けない真っ赤な顔で呆然としていた。脳内で何度も再生される愛しい相手からのまっすぐな言葉に、出てくるのはポジティブな感情しかない小さな不満だけ。


 きっと今世界で一番幸せな人間は自分だと、一人の世界に入り込んでいる茉梨衣はそう思っていたに違いない。そんな彼女のもとに、リモートでの会議を終えた兄の琥珀が声をかける。


 「マリー、どうかしたのかい?」


 「お、お兄様! なんでもありません!」


 ハッと我に返った茉梨衣は咄嗟に嘘をついてしまったが、慌てふためいているその様子を見て信じてもらえるはずはない。


 「そうは見えないんだけど・・・・・・まあ会話を聞き返せば分かるかな」


 「えっ?」


 いつもの落ち着いた雰囲気など皆無の妹が手に握っていたスマホを回収した琥珀は、小さな笑みを浮かべて茉梨衣の想像していなかった事実を告げる。


 「音声だけでもいくらか情報が読み取れるからね。大也の状況をより正確に確認するために録音していたんだ」


 「ま、マリーにもその音声をいただけますか!?」


 実際のところは妹とその思い人がどのような会話をしているか気になったのかもしれないが、そのまっとうな理由を疑う余裕などない茉梨衣にはそれが真実であろうと嘘であろうと関係なかった。


 今はただもう一度幸せな時間に浸りたいという一心だけである。そんな恋は盲目というのを体現したような妹を見て、琥珀は綺麗な微笑みを崩さずに条件を告げる。


 「別にいいけど、それには対価が必要だよ」


 「な、なにをすればいいのでしょうか」


 兄から対価という言葉が出て、茉梨衣はようやく冷静さを取り戻した。最近は気にかけてもらっているとはいえ、兄の考えはまったく見通すことができない。何を要求されるのかと警戒して我に返ったのだろうが、時既に遅し。おそらくこれからも勝つことはできないだろうと諦めつつ、茉梨衣は兄からの命令を待った。


 「先ほどの会議で決まった橙宝院家の役割、それを果たしてもらえるかな」


 「大也さまの助けになることでしたら、報酬などなくてもやり遂げてみせます」


 会議の相手が白宮守家の一華、紫乃藤家の藍葉であることを茉梨衣は知っている。そしてその内容が彼女の思い人を助けるためのものであることも。


 つまり、そこで決定された役割ということは大也のために行うこと。最初から自分で動きたいと思っていた茉梨衣にとってその要求はむしろ願ってもいないことだった。


 「そうか。頼もしくなったね。それならこれはいらないってことでいいかな」


 「よ、よくありません!」


 真剣な表情になった妹の決意に、わずかながら嬉しそうな笑みを浮かべた琥珀。ちょっとした意地悪なのか、差しだそうとした妹にとって最高に価値のある対価を削除しようとスマホを操作する。


 しかしながらそれは茉梨衣の制止によって阻まれ、スマホはいとも簡単に妹の手に渡った。


 「冗談だよ。でもデータを再生しなくても本人に何度でも言ってもらえばいいと、僕は思うけどね」


 「直接言われても大丈夫なように、練習が必要なんです・・・・・・」


 恥ずかしがりながらも、お宝を手にしてすぐにでもそれを再生しそうな勢いの茉梨衣に、どこか優しい雰囲気の琥珀は火を点けるための言葉を投げかける。


 「そうみたいだね。でもまずはそんな愛しい大也を傷つけた相手への対処だ」


 「はい。分かっています。愚か者には大也さまの前から消えてもらいましょう」


 頬の緩んだ表情から一転、黒いオーラを纏ってどこか恐ろしい真顔になる茉梨衣。大也の望まないことをするわけにはいかないが、具体的な判断のラインがあるわけでもない。対応を任された以上、茉梨衣の中で許される範囲において徹底的に叩き潰すことは確定事項だった。


 愛しい思い人から愛の言葉を貰ってこれまで以上の幸せを感じたからこそ、そんな大也を陥れようとした相手のことがさらに許せなくなったのかもしれない。


 こういった事件が起きたからこそ、その言葉の時期が早まったわけだが、今まさに断頭台へ上っている愚かな人間にとっては、藪をつついて蛇どころではなく虎や龍が出てきて、泣きっ面に蜂ではなく猛毒をもった蛇にかみつかれるような事態である。


 当の本人が現状に気がついていないことは、むしろ幸運なことなのかもしれなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る