234. 謀略と抵抗
暗い窓の外から聞こえてくる雨音も掻き消されるほどの喧騒に包まれた教室。その異常な雰囲気は入ってすぐに感じ取れるもので、きっと自分がその中心にねじ込まれるであろうことも容易に察しがついた。警戒していた相手から嫌な視線を向けられたこともそうだが、もう一人巻き込まれたと思われる同級生の暗い表情が目に入ったこともその大きな理由である。
起こってしまったことは仕方ないと諦めの気持ちを抱きつつも、授業後の片付けで遅くなってしまっている着替えを済ませようとしていると、ドアの外から女性の声が聞こえてきた。
「――――――男子はまだ着替え中なの? 女子が待ってるけど」
「森岡先生、良いところに来てくれました。呼びに行こうかと思っていたので」
声の主はこのクラスの担任である森岡先生。瑠璃さんに対抗意識を燃やしているのは生徒の間でも知られていて、先輩という立場もあって瑠璃さんに対して色々嫌みな言動が多いらしい。瑠璃さん本人はさほど気にしていないみたいだが、俺としては正直好きになれない相手だ。そんな心象もあるせいか、瑠璃さんのクラスの生徒に対して厳しかったりもするように思ってしまう。
それはともかく、俺のせいで時間がかかっていることは間違いないため着替えを急いでいると、人だかりの中心にいた草野がその声の方へと歩いて行って状況を説明しているようだった。
「草野くん、何かあったの?」
「はい。実は―――――」
詳細な内容は聞き取れなかったものの、教室内の至る所から聞こえてくる話や単語からなんとなく状況は把握できる。簡潔に言うなら、体育の授業の間に草野の財布がなくなったということ。
もしもそれが俺のカバンに入っているなら、その自作自演によって俺を陥れて退学にでもしようという魂胆だろう。今カバンの中を確かめてもいいのだが、あえてそれに触れて指紋を残したりするのも嫌なのでさっさと着替えを終わらせることにした。
「・・・・・・それは一大事ね。申し訳ないけど男子はここで待機。女子には一旦戻ってもらうわ。あとは生徒指導の先生にも連絡して―――――」
そうこうしているうちに状況説明は終わったようで、深刻そうな表情になった森岡先生は生徒たちに指示を出してから他の先生への連絡などに動く。もっとも、教員はタブレット端末を携帯しているためわざわざ教員の部屋に戻ったりはせず、手元で連絡は終わったらしい。
その後、俺たちの着替えが終わっていることを確認して教室に入ってきた女性教師は、生徒を見渡しながらド直球に問いかけた。
「―――――それじゃあ一応確認させてもらうけど、無くなった草野くんの財布について何か知ってる人はいる?」
「先生、流石にこの状況で手を挙げるのは難しいんじゃ・・・・・・」
名前も把握していないこのクラスの男子生徒から至極もっともな意見が出てきたが、俺はそうは思っていない。考えている通りなら協力者を用意するのは当然で、この場合嘘の証言をする証人が手を挙げるのはほぼ間違いないのだから。
「別に犯人じゃなくても目撃者とか、あとはそもそも事件じゃなくて単に落ちてるのを見たとか、何でもいいのよ?」
「えっと、あの・・・・・・」
教師としては面倒ごとであることは間違いない。単純に落としていた、というのが最も平和的な終結であることから、森岡先生の声にはそういった希望が含まれているようにも思えた。
ただ、この作られたストーリーは期待通りには進まない。協力者にされたと予想している男子生徒が震えながら手を挙げたため、俺は全員の視線が向かってくることに備えながらそのときを待つ。
「有馬くん、何か知ってるの?」
「く、黒菱くんがその・・・・・・草野くんのカバンを漁っているのを見ました」
明らかに顔面蒼白に見えるのは、罪悪感があるからだろうか。そんな状態の彼に証言として重要な「いつ」という部分が抜けていることを追及してもいいものかと考えていると、その有馬くんの友達らしい生徒がおそらく何も知らずにフォローした。
「そういや体調悪いから水分補給のために一回教室戻ってたけど、そのときか?」
「・・・・・・うん」
「なんか授業に来たのもぎりぎりだったし、怪しいと思ってたんだよ」
ただ、それを思い出すのならその有馬くんが俺を体育の授業に遅れるよう誘導していたことも思い出して欲しい。近くにいたもう一人の友人が明らかに犯人を見る目を向けてくるが、その場にいたのだからもう少し考えてくれ、うん。
たとえ思い出してくれなくとも、その辺りから反論していくしかないか、と思考を巡らせている俺には当然疑いの視線が集まり、森岡先生からは事実確認の問いかけをされる。
「よく勇気を出して話してくれたわね。ありがとう。それで、黒菱くん。この証言に間違いはない?」
「いえ、俺はそんなことしていません。見間違えじゃないでしょうか」
いっそここで有馬くんの言動について追及することも考えたが、これだけの衆目がある中で弱々しい様子の彼を嘘つきだと糾弾するのは心象が悪いだろう。
というか、こうなった時点で個別に話を聞くとかの配慮はないのだろうか。慣れていないのかもしれないが、犯罪かもしれないというセンシティブな内容を、すぐに尾ヒレも背びれもついた噂が広がってしまうような状況で行うべきではないと思うのだが。
ただ、そんなことを言っても聞く耳は持たれないような雰囲気なので、別の反論手段を考えながら対応していくほかない。
「そう。じゃあ少し荷物の検査をしてもいい?」
「はい。どうぞ」
「ずいぶん余裕なのね」
「全く心当たりのない冤罪ですからね」
ほぼ確実に入っていることは分かっていたが、ここで慌てる方が怪しいし事実だけを伝えるべきだ。ただ、この教師は瑠璃先生の教え子である俺を犯人にしたいと思っていてもおかしくはないので、最初から敵だという認識で応対する。
「・・・・・・それならどうして財布が二つ入ってるのか説明してくれる?」
「誰かが入れたんだと思いますよ」
「何のために?」
「それは当事者にしか分からないことです」
ここで草野が俺を陥れるために、なんて説明しても意味がないことは明らかだ。俺と草野に接点はそれほどないし、その説明に必要な菜月の名前を出すこともはばかれるのだから。
「そう。でも証言と物証がある以上、君を疑うしかないのよね」
この場の全員、森岡先生と同じ意見なのだろうと思う。ただ、彼らは作られた犯罪だからこそ簡単に用意されている証言と物証のせいか、簡単な理屈を忘れている。
明らかな物的証拠を残して犯行に及ぶ犯人など、よほど衝動的にやってしまった場合を除けばただの間抜けでしかないということを。
「そもそも、お金目当てなら中身だけ抜き取ってしまえばほとんどの場合物証も残らないわけです。もし俺が盗むならそんなあからさまな証拠は残しません」
「それは、そうだけど・・・・・・」
取り乱すこともなく淡々とド正論をぶつけたおかげか、完全に俺を犯人だと思っていた女性教師の中にも迷いが生じているように見えた。
周囲にもそれは伝わっているようで、ひとまず雰囲気を変えることができたことにホッとしていると、やはりと言って良いのか、首謀者である草野が介入してくる。
「おいおい。こざかしい言い訳をしても見苦しいだけだぞ。この財布自体が高価なものだから一緒に盗んだんだろ? もしバレても今みたいに言えば誤魔化せると踏んでな」
「はぁ・・・・・・。もし目撃者がいなかったら全員の荷物を確認されてバレるのが分かりきったこの状況でそんなことしようと思わないだろ、普通」
なんとなく焦っているようにも見える草野からトンデモ理論が飛んできて、思わず吹き出しそうになってしまった。ただ、ぼろを出しかけている相手のミスを利用しない手はない。せっかく観衆がいるのだから味方につけられるようにわざとらしくため息をつきつつ、呆れた声でそれを否定する。
「まあ、普通はそうだろうな。でも君は普通じゃない。とてもお金に困ってるそうじゃないか」
「別に困ってないし、急に論点を変えないで欲しいんだけど」
周囲の雰囲気が変わりつつあり、想定したよりも上手く事が進んでいないためだろうか、物証から動機へと無理矢理軌道修正し始めた草野。なんとか話を戻そうと試みるも、これが失敗すれば後のない追い詰められた人間には意味が無かった。
「強がらなくてもいいさ。学校に許可を取ってまでバイトしてるんだろ? たった一人の家族である母親も入院中で働けないそうじゃないか。生活が苦しい君はバレなければラッキー、くらいの気持ちで過ちを犯してしまったんじゃないか?」
「他人の物を盗むくらいなら学校やめて働いてるよ。というか、なんで俺なんかの個人情報をそんなに知ってるんだ?」
おおよそ大金をはたいてそういう業者にでも調べさせたのであろう俺の個人情報を、余裕がないとはいえ、プライバシーなど無視して暴露してきたことに呆れる。動機を強くするためなのかもしれないが、情報の出所を追及されたときの対応まで考えているのだろうか。
問いかけながら相手の表情を観察していると、一瞬だけ顔がこわばったかと思えば次の瞬間には口角がいやらしく釣り上がっていた。何かひらめいたのかもしれないと警戒しつつ回答を待つと、まったく想定していなかった名前が出てきて驚かされる。
「もちろん、詳しく話を聞いたからさ。危険因子である君のことをね」
「誰から?」
「決まっているじゃないか。久世だよ」
「・・・・・・え?」
普通に考えればすぐに嘘だと分かる。翔斗に連絡を取ればいいのだから。ただ、今はそうもいかないことに気づかされる。大会中に翔斗と連絡が取れないことは、昨年も同じタイミングがあったためそれなりに知られていること。まさか冷静さを欠いている草野がそれを覚えていて、咄嗟にその名前を出せるとは思っていなかった。
たとえ後から翔斗がそれを否定したとしても、不在の間に俺がやったと判断されて処分を受けてしまっては後の祭りだ。無いとは思うが怒った翔斗が草野に手を出してしまえば、翔斗の評価も下がってしまうだろう。なんとなく、運は相手に味方しているようにも思う。
そしてさらに、校内でも広く知られ男女ともに人気のある親友の名前は、この場においても強い影響力を有していた。その証拠に、この事件の終着点を見失い始めていた観衆は再びざわつきながら俺の方へと疑念の視線を向け始めている。
そこには、俺を犯人にした方が簡単にこの場が収まるという集団心理のようなものも働いていたのかもしれない。早く部活に行きたい生徒、家に帰りたい生徒など理由のある生徒に関わらず、ほとんどの人間はこのような険悪で面倒な状況を早くどうにかしたいと思っていることだろう。
周囲のそんな雰囲気を察してか、余裕を取り戻した草野はどちらが悪か分からないほど醜悪な笑みを浮かべながら真っ赤な嘘を重ねてくる。
「仲が良さそうに見えて、実は久世が脅されてそう見せていただけだと知ったときには驚いたよ。あの久世が弱みを握られてお金まで渡してるとは思いもしなかったからね。久世の方もそろそろ限界だったみたいで、親が社長で裕福だと知られている僕に忠告してくれたわけだ。狙われるかもしれない、とね」
証言と物証、そして動機。多少不自然なところはあっても、これだけの条件が揃っていればほとんどクロであり、そしてその容疑者が久世翔斗という人気者を害する存在だと言われれば、この場の俺以外の人間が行き着く結論など決まっていた。
「俺と翔斗はそんな関係じゃ――――」
その情報の信憑性など考えられる余地もなく、俺は完全に悪人だと認定されて針のむしろとなる。なんとか反論しようとしても、俺の言葉は関係ない外野からのたくさんの声に掻き消された。
「まあそれもそうだよな。あの久世と黒菱じゃ釣り合わねえっていうか、なんかおかしいと思ってたんだよ」
「あの久世も苦労してたんだな。というかマジで引くんだけど」
「なんか最近女子たちとよくつるんでるのも、そういうことかもな。サイテーじゃん」
「裏ありそうだなって思ってたけどまじでやべえヤツだったんだな。こわ」
これまで翔斗以外に交友関係を広げてこなかったせいなのだろうか。教室中のあちこちから湧き上がる罵詈雑言は完全に嘘を真実と断定したような口ぶりで、草野の言葉に疑問を感じている同級生は俺の目には見当たらなかった。
唯一の大人である森岡先生はもとより公平な立場ではなさそうだったので、この場の雰囲気をもしかしたら望んでいたのかもしれない。
四面楚歌、というのはこんな状況をいうのだろう。そんな孤独の中にいると、本当に翔斗が友達ではなかったのではないか、という錯覚すら覚えてくる。弱い心が顔を出し、まるで世界から孤立してしまったような感覚に脚が震えそうになった。母さんも友人がいなくなったとき、こんな感情になったのかと思うと余計に胸が苦しくなる。
「まあまあ、そこまで言ってやるなよ。彼だってある意味では被害者なんだから。一番悪いのは彼の母親だろう? 多額の借金をどうにかすることもせず息子に押しつけ、苦しい生活を強いる。そんな過酷な家庭環境で育てばこうなってしまうのも理解できるさ。だから、ここで罪を認めるなら警察沙汰にはしないでおこうと思うんだ。流石に学校はやめてもらうことになるだろうけどね」
ただ、王様にでもなったかのようにふんぞり返って饒舌に語る草野が母さんのことを口にしてくれたおかげで、自分だけに向いていた意識が切り替わり心を覆っていた闇が霧散した。
今まで母さんのことを否定した瑠璃先生やバイト先の店長は、俺のことを考えてくれた故の行動だった。家庭の事情という踏み込みづらいところを越えてきてくれたことに感謝できたし、その厳しい言葉の中には優しさがあったのだ。客観的に考えてもその意見が理解できたから、感情的になることもなくただ自分の意見を伝えて理解してもらえた。
しかし、今回はそうではない。自分の欲望を満たすためだけに、大切な家族のことを貶められた。俺だけならともかく、それを許すつもりはない。自分だけの力では覆すことができず、たとえ虎の威を借る狐になろうとも、そんなことはもうどうでもよかった。
「なんと言われようと、俺はやってない」
「っ!・・・・・・こ、これだけ温情をかけても認めてくれないのか。やっぱり久世が言っていたようにどうしようもない屑なんだな、君は」
強い感情を抑えながらにらみつけ徹底抗戦の意思を示すと、一瞬だけ怯えたような雰囲気を発した草野は虚勢を張るように見下してくる。
ただ、その溢れ出る小者感も、周囲のどうでもいい声や視線も、今はもう何一つ気にならない。どのように罪を償わせるか、頭にあるのはそれだけだ。
「―――――草野、そこまでだ。続きは当事者だけで話す。あと、今スマホのカメラを向けていた奴らも後で呼び出すから勝手に帰るんじゃないぞ」
冷徹に少し先の未来を想像していると、今更になって生徒指導の教員が現れる。そのまま草野、有馬くんとともに校長室へと連行された俺は、ふとその有馬くんが何を理由に協力させられているのかが気になった。
もし他にも犯罪に近い何かを草野がやらかしているなら、そちらも解決しなければ勝ちとは言えない。もっとも、力ある人たちにお願いすることしかできない俺は無力で、一人では戦うことすら出来ないのだ。
この程度の苦境も打開できないのか、と落胆されるかもしれない恐怖はある。それでも今だけは力を貸してもらいたいと、分厚い曇の向こうにある強大な光へと手を伸ばしたのであった。
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