第五章:それぞれの思い

52. 橙宝院茉梨衣の場合


 ―――――――――――――


 三月末、それは年度末から新年度へと切り替わる一つの節目。


 経済界の名家にとっても多忙な時期であり、ここ橙宝院家本邸でも大人たちがせわしなく足と手を動かしている。


 つい先日婚約が決まったこの家の長女、鳳花ほうかもまた婚約者ともども仕事に追われ、二人での時間を過ごすことができていない。そんな彼女がまだ学生で自由に生きている妹に対して息抜きの世間話を始めたのは、よほど精神的に疲れているためだろうか。


 妹の茉梨衣まりいは優しくやわらかい声をしていて、彼女との会話にはリラックス効果があると評判なのだ。顔立ちもおっとりとした美人であり、その笑顔は聖母かと錯覚するようなオーラを発しているとかいないとか。


 時刻はちょうどティータイム。屋敷の広いリビングスペースでソファに腰かけお茶を飲んでいた鳳花は、そこに顔を出した妹へと癒しを求めて話しかけた。


「――― ねえマリー、学院の方はどんな感じ?」


 「お疲れ様です、姉さま。学院は特に変わらないですよ。今は春休みですし。新学期が始まっても外部入学者はいないと聞いているので、新一年生も見知った子ばかりですから」


 突然話しかけられたにも関わらず優しい笑顔で対応しながらそのまま隣に腰かけた妹を見て、話を聞いてくれるようだと疲れた頭で判断した姉は、気晴らしにどうでもいい呟きを零す。


 「まあそうよねぇ。はぁ、学生だったころが懐かしい……」


 「こちらのことはともかく、姉さまはご婚約したばかりだといいますのに、このお忙しさでは愛しの海斗様とお会いすることも叶いませんね……」


 しかし妹の茉梨衣には姉と話したいことがあったようで、先日決まったばかりの婚約について話を切り出した。どこか悲しげに、婚約者と会えない姉を思いやるような様子で。


 ただ、『愛しの』という部分が鳳花のお気に召さなかったらしい。オレンジっぽい茶色の長髪を揺らし、同色の瞳を大きく開いて否定の言葉を叫ぶ。


 「ちょっ、マリー! ワタシはべつにあんなやつのこと好きなんかじゃないしっ! 政略結婚だから仕方なく嫁にいってやるだけなんだからねっ!」


 「もうそのツンデレも聞き飽きましたわ。長らく拗らせていた初恋が実を結んだことは奇跡なのですよ? 長年敵対してきた白宮守家、紫乃藤家との同盟関係は今の情勢がなければありえなかったのですから。結ばれるはずのなかった意中の殿方との婚約。その幸運に感謝して素直になるべきかと思います。いつまでもそのようにしていると嫌われてしまいますよ?」


 「そ、それはイヤ! だ、だけど……今更アイツに気持ち伝えるとか恥ずかしいし、そもそもどうすればいいか分かんないし……」


 モジモジしながら恥ずかしそうに下を向いて呟く姉を見て、厳しくも思いやりのある言葉をかけた妹はその姿こそ思い人に見せるべきデレの真骨頂だと思った。姉と同じ色の瞳で純情な乙女を見やり、小さく微笑んでそれを言葉に出す。


 「そういった可愛らしい部分をもっと見せていけばいいかと思いますけれど……。そうですね。姉さま、少し目を瞑って待っていてください。海斗様のことを想像しながら、少しの間だけ」


 そして何かを思いついたのか、これまでよりわずかに子どもっぽい無邪気さを含む笑顔で姉へと提案した。


 「? ……分かった」


 「少しだけ席を外します。しばしお待ちを」


 困惑した様子を見せる鳳花であったが、優しい茉梨衣の言葉に従わない理由もないと考えて瞼を閉じ、長年恋慕していた婚約者のことを脳裏に思い浮かべるのだった。



 リビングを出た茉梨衣は、中毒性の高い蠱惑的な笑みを浮かべて呟く。


 「――― さて、マリーにもやらなければならないことがあるのですけれど、お可愛い姉さまのためにお節介の一つでも焼いて差し上げましょう。お二人に結ばれて頂かないと、雪華さんと姉妹になれませんから」


 一人称が『マリー』である彼女にも用事があったものの、今は可愛い姉をもっと見るために策を講じるつもりらしい。スマホを取り出し、最近手に入れた電話番号へと発信する。


 呼び出しのコール音を聞く彼女の口元が人工的な明かりに照らされ、綺麗な紅色の三日月が浮かび上がった。




 「姉さま、戻りました。それではそのまま、マリーの質問にお答えください。ここにはマリーしかおりませんので、素直なお気持ちをお聞かせ願いますね」


 数分後、スマホを片手にリビングへと戻ってきた茉梨衣は言いつけを守って目を閉じている姉へと話しかけた。思い人のことを考えているせいか小さな顔をわずかに赤くしている鳳花。妹の言葉から問われるであろうことを理解してさらに顔の赤みが増していく。


 「う、うん……」


 「姉さまは白宮守海斗様のことをどう思っておいでですか?」


 「そ、それは……す、好きよ。勝手にライバル視して突っかかってひどいこともたくさん言ってきたのに、そんなワタシを見放さないで勝負にも付き合ってくれたし、パーティーで変な男に絡まれてたときも助けてくれたし、こんなちんちくりんのワタシでも子ども扱いしないで淑女として扱ってくれるし……。そんな優しい海斗のこと、ずっと前から好きで好きでたまらなかったの。だから顔合わせると感情隠さなきゃいけなくて思ってもないこと言っちゃうんだけどね……」


 綺麗な瞳を伏せて小さな手を握ったり閉じたりしながらも確かに気持ちを言葉にした鳳花であったが、その重く長い愛の告白に妹は少し引いてしまっていた。


 自分でも言っているように、鳳花は身長が低く身体つきも妹と比べれば女性らしさに欠けている。その小さな身から出た愛の大きさは、茉梨衣にとっても想像以上だったのかもしれない。


 「……それでは今回の婚約についてはどうお考えですか?」


 「う、うれしかった……」


 「先ほどはあれだけ熱く思いを語ってくださったのにどうなされたのですか?」


 「い、妹相手とはいえ流石に恥ずかしくなったのっ!」


 可愛い姉の大きな声に動じることなく、茉梨衣は楽しそうな笑顔で最後の問いを投げかける。


 「まあいいでしょう。それでは最後です。政略結婚という形ではありますけれど、姉さまは幸せですか?」


 「当然幸せに決まってるわ! ずっと好きだった、でもぜったいに結ばれないと思ってた初恋の人と一緒になれるんだからっ! ……でも海斗の方がどうか分からないっていうか、たぶんワタシなんかじゃふさわしくないっていうか……」


 『そんなことはないよ、鳳花。俺も君のこと、一人の女性として愛してるから』


 不安からか徐々に小さくなっていく可愛らしい声。それを否定したのは茉梨衣の持つスマホの向こう側にいる男性の声であった。


 「……へ? か、かいとっ!?」


『ああ、そうだ。マリーさんから連絡を貰って、少し時間をくださいって頼まれて――――』


「じゃ、じゃあさっきのぜんぶきいてたの……?」


 ここには自分しかいないという妹の微妙な嘘を咎める余裕もなく、ただただ困惑して取り乱している鳳花。愛の告白を受けたことも理解できていない彼女と会話するのは白宮守海斗、政略結婚の相手である。


 『まあな。隠れて聞いて悪かった。でも鳳花の素直な気持ちが聞けて嬉しかったよ。今まで嫌われてるのかと思ったこともあったし、今回の政略結婚も君にとっては迷惑なことかもしれないと思ってたから』


 「わ、ワタシ……いまさっき告白してたの? 海斗に? 気持ちぜんぶ聞かれて……?」


 『鳳花? どうしたんだ?』


 「も、もう顔合わせらんないよぉ……」


 『いや、これから夫婦になるんだし……。そうだ、近いうちに二人で食事でも行こうか』


 会話にならない状況ながら、海斗はどこか楽しそうに会話をしていた。可愛らしい婚約者を誘うことにもためらいはなく、その声はどこか弾んでいるようにも思われる。


 ただ、誘われた側はそれどころではなかった。本人もよく分からない精神状態で、思いのままに心情を叫ぶ。


 「だ、だから無理だって言ってるでしょ! 海斗だってワタシのこと、恋愛対象として見てないくせに……」


 『さっきの聞こえてなかったのか……。俺も鳳花のこと、一人の女性として愛してるって言ったはずだけど』


 「ふぇっ!? そ、そうなのっ!?」


 『ああ。これでお互い様だろ? そういうことだから今度二人でゆっくり食事でも――――』


 「し、仕方ないわねっ! 明日の予定は空けといてあげる!」


 先ほどまでの弱々しさはどこへやら。嬉しさで舞い上がった鳳花はらしさを取り戻した。


 『え、明日? いやまあいいけど、これから店を探すこっちの身にもなってほしいというか……』


 「白宮守の次期当主ならなんとでもなるでしょ? あ、あいしてる女のためなんだから!」


 『おっしゃる通りで……。そろそろ仕事に戻らないといけないからまた連絡する。じゃあな、鳳花。マリーさんもありがとう』


 通話が切れ、リビングを静寂が包む。婚約者と思いが通じ合った姉はしばらくボーっと虚空を見つめ、甘ったるいやり取りを見せつけられた妹は本心を笑みで隠してニコニコと姉を眺めていた。



 「……わ、ワタシも仕事に戻らないと! 明日の準備とかいろいろしなきゃだし! あ、でもその前に……マリー?」


 ようやく我に返った鳳花はウキウキ気分で仕事に戻ろうとしたところで何かに気づき、足を止めて妹へと振り返る。


 「どうなされましたか?」


 「ど、どうして海斗の連絡先知ってるの……?」


 あまりに分かりやすく、それでいて抜けている質問。茉梨衣は思わず素が出そうになったものの、なんとかこらえて笑顔で返答した。


 「まもなく義兄となる方なのですから連絡先を知っていてもおかしくはないかと思いますけれど……」


 「海斗はワタシのだからね!」


 政略結婚を考えれば妹の茉梨衣が相手でも問題がないためだろう。鳳花は既に自分よりも大人っぽい雰囲気を醸し出している妹を威嚇した。


 噛みついてきそうな勢いの姉に、そのつもりなど毛頭ない茉梨衣は優しく慈愛に満ちた笑顔で言い聞かせる。


 「分かっております。両想いのお二人を邪魔などいたしませんし、マリーにも気になる殿方がいますので」


 「えっ、そうなの!? だれだれ?」


 「……仕事にお戻りになるのでは? 仕事に追われてろくな準備もできず海斗様とお会いになるつもりでしたら構いませんけれど……」


 「そうだった! また今度聞かせてね!」


 予想以上の食いつきがあって面倒になった茉梨衣は姉を遠ざけた。そうしてリビングで一人になり、ぼそっと小さな呟きが漏れる。


 「本当にお可愛いですね、姉さまは……。まあマリーがその気になれば堕とせない殿方などいませんけれど、それをやったところで誰も幸せになりませんからね」


 変わらない笑顔で、感情の薄い平らな声で。そして、どこか寂しそうな瞳で。


 「さて、マリーもお仕事に戻りませんと。なかなか情報が入ってきませんし、もう少し下僕……いえ協力者の皆さんに頑張って頂かなければなりませんね」


 諜報活動に自分を慕う者たちを動員したものの、思うように進んでいないという現状。それを打破するために思考を巡らせながら、茉梨衣は姉の幸せな様子を思い出して何故か少しだけ痛んだ胸を抑えた。


 それを誤魔化すかのように、自らの願望を小さく紡ぐ。恍惚とした笑みを浮かべて。


 「あの雪華さんを変えた殿方……黒菱大也様。その輝きをマリーだけのモノにして、可愛い雪華さんと一緒にずーっと愛でて差し上げましょう。あぁ、マリーの手に堕ちた彼を見てどのような色を見せてくれるのか、今から楽しみで仕方ないですわぁ……」


 言葉とは裏腹に、オレンジの瞳は悲しみを宿している。


 「彼が、変えてくださる……?」


 わずかに希望のこもった疑問形の予言が、広い部屋に小さくこだまして消えた。


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