50. 令嬢と老執事の帰り道 -2


 「……と、ところで爺や。どうして二人はまったくアクションを起こしてこないのでしょう?」


 大きな声を出してしまったことが恥ずかしかったのか、雪華は誤魔化すかのように話題を転換する。彼女はいつの間にか冷静になったようで、質問の内容は非常に重要なものであった。


 老執事は分かりやすい主人の要求に従い、理由を説明し始める。ただ、そこには普段の彼が見せることのない厳しさが確かに含まれていた。


 箱入り令嬢が理解しきれていない闇の部分を理解させるための厳しさが。


 「私の方から牽制していることも理由の一つかと思いますが、最も大きな理由は情報収集かと。目的が目的ですし、発覚した際のことを考えると表立った行動はできないでしょう。……なので、今回の場合ですと黒菱様の情報を集めて弱みにつけこむというのが最も有効な手段というわけです」


 「そ、そのようなことが平然と行われているのですか……? 身勝手な目的のために他者のプライバシーを侵害して勝手に詮索して、弱い部分を暴いて相手を貶める……。そういうこと、ですよね? そのようなひどいこと―――――」


 「お嬢様もお分かりでしょう。白宮守家をはじめとした名家の繁栄の裏にある様々な悪い噂を。それらのすべてが真実というわけではありませんが、すべてが嘘ということもありません。目的のためなら手段を選ばない。お嬢様の周囲にもそういった人間が存在しています。私だってそのうちの一人です。今の私は、お嬢様のためになることであればどのようなことでも実行いたしますよ」


 運転中の老執事は前を向いていて主の方を見ているわけではない。しかし雪華はジッと視線を向けられている気がした。すべてを見透かしているかのような瞳で、まっすぐに。


 まるで何かを問われているようだと、人間の闇に慣れていない令嬢は感じた。ただ、箱入り娘とはいえ彼女も名家に生まれた娘である。そういった部分を考えたことがないわけではなかった。


 それでも、実際に当事者となれば受け入れがたく思うのも当然かもしれない。


 「そ、それはっ! ……わかっている、つもり、です。で、でも……それではわたしのせいで大也さんにご迷惑を……」


 「雪華お嬢様。黒菱様と本気で関わると決めたのであれば、覚悟しなければなりません。それが白宮守に生まれたお嬢様の宿命でもあります」


 好きでこの家に生まれたわけではない。そんな思いが雪華の中で沸き上がった。しかし彼女も白宮守の一族として自覚をもって生きてきた人間であり、これまでの人生を否定するような真似は決してしない。


 そして、老執事がどうしてこのようなことを言うのかについても、変わりつつある雪華にはもちろん分かっていた。


 「……今日の爺やは厳しいですね」


 「いまのお嬢様であれば大丈夫です。それに、私の見込みが正しければ黒菱様はご自身の弱みをすべて分かっておられますし、強い芯をもっておられます。たとえ二人の行動を抑えきれなかったとしても、つけこまれることにはならないでしょう」


 どこまで考えて主の思い人を引き合いに出したのかは分からない。しかしこの老執事の言葉は、白宮守雪華という人間を一段階上へと押し上げた。


 「そう、ですね。大也さんなら…………うん。だけどそれを、私が目を背ける理由にしてはいけませんよね。だから、責任を持ちます。私の弱さのせいで大也さんを傷つけるかもしれないことに」


 強い意志のこもった言葉を雪華が紡いでいると、車の走る先にある青信号が黄色を経て赤に変わる。ゆっくりとブレーキを踏んで車を止めた老執事は、ミラー越しに雪華の様子を確認して思わず息を飲んだ。


 「ですが、二人に好き勝手させてはいけません。ただ、家の力を借りられない問題である以上、私の味方は爺やだけです。力を貸してください」


 「……っ! お、お嬢様の仰せのままに」


 白宮守家の現当主にも劣らない気迫を宿したその青い双眸と、あらゆる修羅場をくぐってきた者に畏敬の念すら抱かせるほどの圧力を感じさせる美しくも力強い声音。


 上に立つ者としての風格を一瞬でも纏ってみせた雪華に、老執事は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。


 心の底から停車中で良かったと思いつつ冷や汗をかいていた彼は、その後に続いた命令によって再び愕然とさせられる。


 「大也さんと百合花さん、二人にとって重要な情報。それを死守しなさい。事情を知っているみたいなので、情報の優先順位はあなたの判断に任せます。一人で相手にするのは大変でしょうし、すべてを守れとは言えません。ですが、もし大也さん自身も知らないことがあるのなら……あの二人によってそれが伝わることだけは阻止してください。それだけは、ぜったいに許せないので」


 「お、お嬢様はいったいどこまでお分かりになられているのですか……?」


 これまで完璧に隠し通せていると思っていたところに突然触れられ、老執事は表情を取り繕う余裕すらなかった。主からの命令に対して返事をすることすら忘れ、湧き出た疑問を口にすることしかできない。


 そんな老執事とは打って変わって、いつもの雰囲気に戻った当の本人は恥ずかしそうに微笑む。いたずらを自ら告白する子どものように頬を軽く掻きながら。


 「え、えっと……いろいろそうかもしれない、くらいの考えでしたけど、少し鎌をかけてみようかなと思いまして……」


 「……」


 「爺や?」


 「流石はお嬢様ですね……。ご命令、確かに承りました。全身全霊を以って、この命に誓って、必ずや黒菱様の重要な秘密をお守りいたします」


 車の中でなければ中世の騎士のように膝をついていたかもしれないと思ってしまうほど、老執事は雪華の圧倒的なオーラに魅せられた。


 過去の後悔と、現在の立場。その間で何を優先するべきなのか迷っていた自分に道を示してくれた主。彼女のため、彼女の大切な人のため、残りの寿命を全うしようと老執事は誓う。


 「ええ、頼みました。私の方も大也さんに事情を話して謝罪をします。そのうえで、その……一緒にいてもいいか聞いてみます。……す、好きな人のことは近くで本人から聞きたいですし、わたしのことももっと知ってほしいですから……」


 「恋というものはここまで人を成長させるものなのですね……。やはり恋する乙女はお強い、ということでしょうか。いまのお嬢様であれば大丈夫です。こんなにも可愛らしい方のお願いを断るはずがありません」


 「は、恥ずかしいのでそれはもうやめてくださいっ!」


 つい先ほどまであった力強さが嘘のような乙女の可愛らしい叫び声が車内に響いた。



 信号機が青色に変わって走り出した車は、止まる前よりもどこか迷いのない走りを見せているように見えるのだった。



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