14. 花と自覚

 喫茶店らしくコーヒーの香りに包まれた従業員室。バイトを始めてこういう休憩時間に飲むようになったブラックの苦さにも慣れてきた俺だが、今は糖分が欲しいので砂糖とミルクを入れている。飴玉は既に一本消費済みだ。


 苦味の中にある甘さを感じながらゆっくりコーヒーを飲んでいると、個室につながる扉がバタンと音を立てて勢いよく開いた。そこから現れたのはこの店の店長で、ダルそうないつもの雰囲気がより一層増している。そんな店長は死んだ魚のような目で俺を見て呟くように声をかけてきた。


 「あぁー、疲れたぁ……。おーい、大也くん、終わったわよ……」


 「お疲れ様です。その……大丈夫ですか?」


 「大丈夫じゃなーい……。金持ちの教育はどうなってるのよ……」


 「それは同意見です」


 「あ、そういえばあの子たちは……?」


 その至極まっとうな意見に俺が同意したところで、店長はふと周りを見渡してお子さんを気にした。それなりに長い時間拘束されていたのだから当然か。ただ、子どもたちのことはきちんと休憩中の従業員が様子を見ていたので心配はいらない。俺も天使のような寝顔に癒されていたところだし。


 「ソファで眠っていますよ。遊び疲れたんですかね」


 「ワタシも寝る……」


 ソファに近寄って我が子の寝顔を確認し、優しい表情で微笑む店長。その慈愛に満ちた顔を普段見ることはないが、きっといいお母さんなのだと思った。しかし、その後出た言葉はいつも通りめんどくさげに紡がれ、残念なような、安心するような……。


 「……店長なんですから最低限起きていてください」


 「それならコーヒーか紅茶淹れて」


 仲良く隣り合うお子さん二人の寝顔を上から見つめながら空いたスペースに寝転がろうとしている店長が、俺の一言でなんとか動きを止めてくれた。しかしそんな彼女は眠気覚ましをご所望のようだ。


 「自分にも仕事があるんですけど……。はぁ、少し待ってください」


 そろそろ休憩を終えて雪さんのところに行かなければならないのだが、今回の件を頼んだ依頼者としては引き受けてもらった感謝があるので簡単な要求には応えたいと思った。


 先ほどまで飲んでいたものと同様のインスタントコーヒーで申し訳ないが、今は本格的に淹れる時間もなければそこまで求められてもいない。温かい店長専用のマグカップをソファの前にあるテーブルへと置き、だらけている店長に声をかけた。


 「はい、これどうぞ。店長はいつもブラックですよね。それじゃ俺は仕事に戻りますね」


 「お、そうそう、ありがと。まあ大也くんも頑張って。ちょっと刺激が強かったみたいで、あの子今放心状態だから」


 ゆっくりとテーブル前に移動してカップを手に取った店長が伝えてくれた情報は特に驚くべきことでもない。間接キスで恥ずかしくて気を失ったくらいなのだから。


 「……そうなんですね。とにかく今回はありがとうございました。後は自分がなんとかします」


 「いつも頑張ってくれてるからこれくらいね……。まあ今回みたいに行動するかは別だけどいつでも相談には乗るからさ、もっと大人を頼ること」


 「はい、ありがとうございます。それじゃ行ってきます」


 少々残念さの残る言葉だが、こういうときの店長は普段とのギャップもあってカッコいい。もっとまじめな様子を見せてくれればいいのになぁ、と思いながら店長に感謝を伝え、放心状態というお嬢様のもとへと向かった。


 「……ほんと、どうして彼みたいな良い子が苦労しなきゃいけないのかしらね」


 背中越しに聞こえたその呟きは小さく、何を言われたのかは分からない。いや、俺に向けた言葉ではなくただの独り言か。


 そう判断して振り返らずに歩みを進め、意識を執事モードに切り替えながらお嬢様が待つ部屋の扉をくぐる。


 コーヒーから紅茶へと匂いが移り変わり、視線が高級感溢れる室内に佇む白い美少女へと引き寄せられた。


 「お待たせ致しました、お嬢様。ただいま戻りました」


 「……」ポケー


 心ここにあらずといった状態で天井を見上げているお嬢様。赤く染まった頬が肌の白さを際立たせていて、光る青い双眸は焦点が定まっていない。そしてまったく動かない様子がより人形らしさを強めている。


 (まあこんな様子じゃこっちに気づかないのも当然か……。というか、ずっと見ていられるくらい、ホントに綺麗だよなぁ)


 しばらく見惚れてしまったが、今は仕事中だ。首を横に振って再度意識を切り替えた。


 「さて、どうするべきだろうか……」


 このままにしておくべきか、それとも何かしらの方法で目覚めてもらうか。



 「お嬢様、失礼致します」


 俺が選択したのは後者。正面からそっと肩を掴み、ゆっくりと揺らした。


 「お嬢様? 大丈夫ですか?」


 「ん、ううん……」


 近くで見ると本当に綺麗だ。この二人きりの状況、俺じゃなければいたずらの一つくらいはしたことだろう。ふわふわした甘い香りが鼻腔をくすぐってくるが、鋼の理性の前では無意味!


 などと脳内でアホみたいなことを考えていると、お嬢様は小さな音をこぼしてわずかに反応が返ってきた。もう少しか?


 「そろそろお目覚めください、お嬢様」


 「……あれ? わたし……」


 「お気づきですか?」


 「…………え? ……く、黒菱さんっ!?」


 名前を間違えるということはよほど混乱しているのだろう。こういう場合は此方が冷静に対応すればいい。それに合わせてお嬢様も落ち着いてくれるはずだ。手を離し、距離を取ってから視線を合わせて訂正する。


 「違います。金剛です」


 しかし、思った方向には転ばなかった。


 「どどど、どうして黒菱さんがここにっ!? ま、まさか先ほど習ったことのじつ―――――」

 「ていっ」

 「ひゃっ!」


 言わせねえからな! そして絶対にやらねえからな!


 暴走状態のお嬢様に何度目かの手刀を振り下ろし、その自由な口を止めた。少々勢いがついて強くなってしまったせいか、頭を押さえて涙目になるお嬢様。申し訳ない気持ちもあるし可愛いけど、今は怒ることが先だ。


 「お嬢様、おかしなことを口走ろうとしないでください」


 「……うぅ、いたいです。金剛ひどいです……」


 サファイアのような瞳から落ちる雫を見て罪悪感が生まれたものの、此方に向いた視線はきちんとした輝きを有している。名前も間違えなかったことから、だいぶマシになってきたことが伺えた。


 「落ち着きましたか、お嬢様?」


 「……はい。すみませんでした」


 「ご理解頂けたのであれば幸いです。ところで、この後はいかがされますか? 少しお話が長くなりましたが……」


 変にそういう話を続けることを避けるために話を変えることとし、室内の壁に掛けてある時計へと視線を動かしてお嬢様の視線を誘導する。そこに示された時刻を確認した彼女は青い瞳を大きくしてわずかに驚愕の表情を見せた。


 「えっ、もうこんな時間なのですか!?」


 「はい」


 「美桜と夕食を一緒に食べる約束があるのでそろそろ帰らなければなりません……」


 シュンとした様子で残念そうにそう呟くお嬢様。いつもの無表情が上手く作れていないところを見ると、まだ完全に本調子というわけではないのかもしれない。とはいえ、その方がずっと魅力的なのでそれでいいと思ってしまうのもまた事実だ。


 今も落ち込んでいることが分かり、こちらも少し名残惜しい気分になってしまう。だがメイドとの約束を破らせるわけにもいかないため、この日の特別な時間の終了を宣言する。


 「それでは本日はここまでということで」


 「……もっと色々お話ししたかったです」


 「自分も同じ気持ちですよ。お嬢様がまたお帰りになられることを心よりお待ちしております」


 残念がってくれることが嬉しいし、何よりもその様子が本当に可愛い。それと同時に、そんなお嬢様に対して言えることが「また店に来てくれ」というものだけなのが恥ずかしくて、また酷い罪悪感に苛まれる。


 俺の心情を察したわけではないと思うが、お嬢様は小さく笑ってくれた。それがあまりに魅力的で、眩しくて、どうしようもない気持ちになる。


 「……また来ますね。でも、あの、その……ワガママを言ってもいいですか?」


 「何なりと。自分にできることであれば、ですけど」


 「あのお菓子を一つ頂けませんか?」


 棒付き飴のことだろう。俺たちの間でお菓子と言えばそれしかない。ただ、あんな安物の飴玉を求める理由が分からなかった。いつでも好きなだけ買えるはずなのだから。


 「それは構いませんけど……理由を伺ってもよろしいですか?」


 「ふふっ、秘密、です」


 「……」



 咲き誇った美しい花に、奪われた。視線を、心を、意識を、すべて。


 偶然見ることができたに過ぎないその花をずっと見ていたいと、どうしようもなくそう思った。それと同時に、高嶺の花にはどうしたって届かない己の立場を理解させられる。


 非日常の世界、楽しい夢の時間。それを残酷なものだと、初めて思った。



 ポケットに入っていた飴玉を適当に一つ手渡し、昨日と同様に見送る。そうして無意識のうちに仕事を終えた俺が完全に意識を取り戻したのは、母が待つ家の前まで帰ってきてからであった。


 古くてお世辞にも綺麗とはいえないアパート。けれどそれが、俺の乱れた心を強くしてくれる。何のために、誰のために。それを再確認した俺は、いつもの俺に戻っていた。


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