第二章:新たな日常

12. 春休みの幕開け

 「―――というわけで、少し遅くなってしまいました」


 「そうでしたか。メイドの主人というのも大変ですね……」


 時刻は午後三時過ぎ。ティータイムにはもってこいの時間。俺の働く執事喫茶でもそれなりにお客様が多い時間帯なのだが、今の俺はただ一人のお嬢様に仕える執事だ。その理由はもちろん個室対応のお嬢様につきっきりのためである。


 料金がアホみたいに高いこのサービスを利用して頂いたのは二回目だが、前回と同じお嬢様であり、金剛という名の執事としてだけでなく本名の黒菱としても知り合いという相手なのであまり緊張はない。


 その二回目にしてお得意様ともいえるご令嬢は来店直後、本日ここまでにあった出来事を簡潔に説明してくれた。内容としては、一人で外出できるよう、自身に仕えているメイドを説得していたというものだ。話を聞く限りかなり溺愛されているようだったが、何とか丸く収まったらしい。


 今も無表情ながらどこか嬉しそうな声音で話してくれていることから彼女の喜びが伺える。


 「いえ、これまでずっと彼女なりに私を守ってくれていたことは分かっていますし、私の方から言わないとお互いに変わらないままだったでしょうから……」


 「……当たり前だったことを変えるのはとても勇気のいることだと思います。凄いですね、お嬢様は」


 本当にそう思うのだ、俺は。自身にとって当然のことは、人から指摘されて簡単に変えられるものではない。己の常識は今の価値観を構成する重要なファクターであり、それを変えるということは価値観の根底を揺るがし、自身のアイデンティティすら変質させるかもしれないのだから。


 「そ、そうでしょうか……。これもこ、金剛のおかげです。ありがとうございました……。と、とにかくこれで、私は自由にここへと訪れることが可能になりました!」


 「いえ、自分は何も。ですが本当によく頑張られたと思います。流石はお嬢様です。お疲れでしょうからリラックスして頂けるよう精一杯お仕え致します。何なりとお申し付けください」


 表情を崩してわずかに照れと喜びを見せてくれているお嬢様と、そんな彼女に仕えるメイド。二人の生活を変えてしまった者として彼女たちの未来が良い方向に向かっていくことを切に願いつつ、俺は今日も執事として仕事に励もうと思った。


 「ありがとうございます。では金剛、紅茶を淹れてくれるかしら」


 「かしこまりました、お嬢様」


 お嬢様の様子から昨日と同じミルクティーのことだと察した俺はすぐに準備へと取り掛かる。


 チラチラと向けられる視線を可愛いと思いながら、自分はお嬢様のようには変われないだろうという気持ちを飲み込んだのだった。




 お嬢様学校の制服ではなく可愛らしい春用のワンピースを身にまとったお嬢様。白を基調とした生地に、胸元のリボンなどところどころ青色の装飾が見受けられる。肌の白さとその白銀の長髪も相まって、雪の妖精と表現しても誇張ではない気がしてくる華麗さがあった。


 姿勢正しく椅子に座る、眩しいほど綺麗なお嬢様が白いカップを傾けて俺の淹れたミルクティーを口にしている。ついピンク色の唇に視線がいってしまうが、すぐに意識を切り替えて仕事に集中。ただ、視覚に意識をやると他の感覚が反応してしまう。


 鼻に染みついた紅茶の香りを抑え、もう一つの甘くて優しい香りが鼻を支配した。そしてその小さな口から紡がれた、凛としていてかつ鈴の音のように美しく響く空気の波が鼓膜を揺るがす。


 「……今日も美味しいです。今度私にも淹れ方を教えて頂けますか?」


 「それは構いませんが……家の方に教わった方がよろしいのでは?」


 いまだに慣れないお嬢様の圧倒的な存在感に見惚れてしまい、少し返事が雑になってしまった。あまり考えずに発した俺の言葉に、お嬢様の無表情がムッとしたものに変化する。


 「むぅ……私は金剛に教えて欲しいと思ったのです。美桜は給仕においては完璧ですけど、指導に関してはあまり適任とはいえないですから。それに、私はもっと金剛のこと……」


 「……お嬢様がそのように仰ってくださるのであれば光栄です。自分で宜しければいつでもお教え致します」


 素直に嬉しい言葉を貰い、仕事中にも関わらず浮ついた気分になってしまった。本物のご令嬢に評価されるというのは普通に嬉しい。お嬢様が最後に小さな声で言いかけたことは聞き取れなかったが、下を向いて口ごもったことからして気恥ずかしいことだったのだろう。本当にまっすぐで可愛いなと思ったせいか、俺は返答の際いつもよりはっきりとした笑顔になっている気がした。


 「は、はい。もう少し忙しくないとき、長い時間専属で仕えてもらえるときにお願いしますね」


 「お気遣い感謝致します」


 「それでは今日は昨日のお話を聞かせてもらえますか? メールでお聞きした件です」


 わずかに頬を赤くしてお願いをしてくださったお嬢様に感謝を述べた後、躊躇も何もない純粋なその問いが飛んできて、何故か冷たい汗が背中を流れる。


 ……いきなり来てしまったか、この話題。昨夜から色々とどうするべきか考え、一応大人も巻き込んで対応することに決めた、少々話しづらい案件である。来店が遅くなることはメールで朝伝えられていたため、説得する時間は十分にあった。


 「……はい。ですがそれは自分が説明するには不適当な内容ですので、ここは当店の店長にお願いしたいと思います。理由は内容をお聞きになればご理解頂けるかと思いますので、今はご納得頂き、こちらでお待ちください。店長が応対している間の料金は頂きませんので」


 「えっと……分かりました。お子さんのいらっしゃる店長さんの方が適切ということでしょうか……?」


 「……それも理由の一つです。それではしばしの間失礼します」


 「? はい……」


 困惑するお嬢様は、おそらく俺が説明してくれるものだと思っていたのだろう。だが俺には無理だ。健全な高校男児が年下の美少女にそういう話をするわけにはいかない。恥ずかしいし、何よりも雪さんという絶世の美少女を目の前にして色々な若い衝動を抑えられなくなる可能性が恐ろしかった。


 自制心はかなり強い自負があるものの、できるだけリスクを負わない主義なんだ、俺は。


 と、いうわけで大人の女性の出番だ。どうせろくに仕事をしていない店長である。たまにはお客様の相手をしてもいいだろう。すでにお子さんを二人産み育てている母親なら上手く説明してくれるはずだ。まあ若干の不安はあるが、頼れる女性が一人しかいなかったので仕方ない。真剣にやってくれと頼んだし、真面目な話なので大丈夫だとは思うけど……。


 そしてこの個室はあまり大声ではできない話をするのに適している。周囲を気にしてはぐらかすこともないはずだ。


 従業員室へと下がった俺は、ソファに寝転がってスマホをつついている店長に事情を説明して個室へと連行した。しぶしぶではあったが自分の足で歩いてくれたので大丈夫だろう。終わったら呼んでもらうことにして扉を閉める。


 「これでよし。忙しそうだし俺は接客にいくか……」


 一般スペースではお茶をしに来たお嬢様方が列を作っていて、先輩方がせわしなく動き回っていた。従業員室では店長の二人のお子さんが春休みということもあって仲良く遊んでいる。母親がいなくなったことに気づいていないくらい夢中で、お姉ちゃんの方は母親に似ずしっかりした性格なのでここは問題ないはずだ。


 俺の激動の春休みはこうして慌ただしく始まったのだった。




「えっ? もしかして……黒菱くん?」


 「……それはどなたでしょうか。お嬢様?」


 「ごまかさないで。その声、黒菱大也くんだよね?」


 「…………人違いでは?」


 いや、ホントね。高校で昨日まで同じクラスだった女子生徒がいて、まさか完璧な変装を見破られるなんて思わなかったわけですよ……。


 学校の時とは違う、低めの執事モードの声で気づくとかどうしようもねえよ。喋ったこともほとんどなくて、翔斗と一緒にいることが多い以外目立つ要素のない地味メンな俺に気づくとか、この人俺のこと好きなの? いや、それはないだろうけどさ、普通に身バレはめんどくさいぞ……。


 波乱の幕開けってこういうことをいうんだろうなぁ……。


 こうして、マジで慌ただしい俺の春休みが幕を開けたのだった。


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