11. 令嬢の思い

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 大也(金剛)へ初めてのメールを送信した後、画面の明かりが消えて暗くなった空間で、わずかな光を反射して白銀に輝く長髪を揺らすこの部屋の主は小さく呟いた。


 「返信はしてくれると思いますけど、お忙しそうですしすぐには返ってこないでしょうか……」


 制服を着たまま、自室のベッドの上を携帯電話と一本の棒付き飴を握りしめながらゴロゴロしているご令嬢。胸もお腹もいっぱいで、しばらく一人にして欲しいと執事に頼んだため、今は誰かが入室してくる心配もない。美桜については、目覚めたとしても仕事を完璧に遂行してくれる爺やが何とかしてくれるはずだと、雪華は安心していた。


 窓から差し込むほんの少しの外界の明かりが、彼女の飾らない素顔を照らし出している。


 「だめ……表情が、崩れてしまいます……」


 今日の出来事を思い出すと口角が上がってしまい、幸せそうなにやけ顔が自動生成されてしまう、いつもは無表情な美少女。彼女にとってそれは少し悔しく、けれどこれまで経験のなかった未知の感覚は心地よいものだった。ふわふわとした謎の浮遊感に包まれ、顔が熱くなっていくこともまた、どこか幸福なものに思えてきて、雪華は自分の顔が今どんなことになっているのかまったく分からない。


 「ふふっ、もう午前中のことを思い出せないですね……」


 柔らかくもしっかりした枕に制御できない顔をうずめてみても、あの出会いの瞬間から過ごした密度の濃い時間ばかりが思い出され、学院での終業式の記憶は欠片も残っていない。まるで世界が新しくなったのではないかという錯覚すら覚えている雪華は、その手にある飴の存在を感じながら、印象に強く残っている久しぶりに叱られた瞬間を思い出す。


 幸せな光に包まれていた心に、小さな影が生まれた。


 「……初対面の私のことを思って過ちを正してくれた。周りの人みんなが気を遣って、為すことすべてが肯定される。そんなどうしようもない私のことを怒ってくれた。それはとても嬉しい。……だけど、だからこそ――――」


 家名を、本名を、彼に知られるのが恐ろしい。


 どこかの令嬢だということには気づいているだろう。しかし、白宮守という家名だとは思っていないはずだと、彼女は考えている。


 この家名は、その珍しさ故に取り上げられるとどうしても目立つ。日本でも有数の大企業の経営者、ニュースで名前を見るくらいの政治家、専門家としてテレビ出演する大学教授。それら以外にもどこかしらで見かける、白宮守という家名。


 分家筋を含め、世界的に偉大な功績を挙げる人材を輩出し続けている一族。それが白宮守家だ。雪華はその本家の末っ子であり、まだ公の場には出ていないものの上流階級の中ではよく知られた存在である。


 そして、そういった位置にある一族に、悪い噂がないということはまずありえない。現在の情報社会ではデマも含めて様々なニュースに「白宮守」という文字を見かけるほどだ。肯定的なものもあれば否定的なものある。いや、むしろ否定的なものが多かったりする。だからその家名をおそらく彼も知っているはずで、それが決して良い印象ではないだろうということは、彼女も容易に想像できた。


 「学校のみんなと同じあの目をあの人に向けられたら私は……きっと耐えられない」


 細い腕で自らの身体を抱きしめ、震えを止めようとする。


 どれだけの時間そうしていただろう。恐怖に怯えていた彼女の手の中で、ようやく携帯電話が震えた。


 「……返信でしょうか? 金剛からの」


 悪い想像をして沈んだ今の心情で内容を見るかどうか迷ったご令嬢。しかし、自分から連絡先を聞いてシフトを教えて欲しいとメールしたのに、身勝手な理由でその返信に対して感謝を述べないというのは不穏当だと、真面目な彼女は思った。


 夜の闇に包まれた部屋の中心に人工的な光が灯り、暗い表情をしていた雪華は眩しさでわずかに目をしかめる。


 そして小さな笑みがこぼれ、青の双眸に輝きが戻った。


 「ふふっ、金剛らしいですね、本当に」


 あまりに事務的な文章で、AI が作成したのではないかと思うほど人間味がないように感じたお嬢様であったが、徹底してスタイルを崩さないバイト執事からのメールにむしろ救われた気分になる。


 「……そうです。私は主で、彼は執事。それはあの空間では変わらないことですよね。私がどんな立場の人間であっても、金剛は変わらず接してくれるはずです。黒菱さんの方は……優しいですし、きちんと私自身のことを見てくれている気がするので大丈夫……なはずです。ダメなら押しに弱そうなので間接キスとかお姫様抱っこの責任を取らせる形で……って、あれ? キス……?」


 ポジティブな思考になったことで少々暴走し始めたお嬢様の思考回路。しかし、落ち着いた状態でキスという単語を口にしたことによりメイドの言葉を思い出した彼女の頭は急速に冷却されていった。


 『異性とのキスは妊娠してしまうので、ぜ――ったいにしてはいけませんからねっ、お嬢様! 同性同士なら問題ないので、アタシにはいつでもウェルカムですけどっ!』


 後半はともかく、前半の部分の重要性に今更気が付いた箱入り令嬢様。今日一日でメイドへの信頼度はかなり下がっていたが、嘘だという確証がない段階で可能性を潰すことはできない。


 毒見という概念が最優先事項としてあり、間接キスという発想を持っていなかった彼女にとって、冷静になって気づいたこの事実は軽いパニックを起こし得るものだった。


 「……あれ? もしかして私、妊娠してしまうのでしょうか……? 黒菱さんとの子どもを……? そ、それはまだ早いですっ! わ、わた、わたし、まだ十三歳ですよっ!? 確かにもうそういう身体にはなっていますけど、会ったばかりでいきなりすぎるというか、とにかくダメですっ! もしそうなら責任を取ってもらわないと……って、私の方からキスしにいったではないですか!? 無知だったとはいえ、私はとんでもないことを……。あっ、で、ですけど今回は間接ですし……あれ、どうなんでしょうか? 美桜の説明にはそういうのなかったですけど、実際に私は彼の体液を口にしているわけで……それは直接でも間接でも同じなのでは? ど、どうしましょう……。美桜や爺やには聞けませんし……あ、そうです! 黒菱さんに聞きましょう!」


 ベッドの上でバタバタしながら一人アタフタしているこの箱入り令嬢。顔は耳まで真っ赤になり、不安よりも羞恥心の方が勝っているように見える。


 彼女は身体の成長についてその生物学的理由は教えられているものの、一番大切な原理の部分が抜けていた。より正しく言うなら、意図的に教えられていなかった。そしてまた、女子高に通っていることからまだ先の話だと考え、関心を持っていなかったことも大きな原因だったりする。


 ただ、インターネット環境も与えられていない彼女は誰かに聞くしか情報を得る手段がない。しかし家の者は話が大きくなりそうなので不可。そうなるとこの状況で頼れるのは実際に間接キスをした相手だけだ。


 「お礼を忘れずに入れて……あとは何でもないように、ただの確認という感じで、あまり重たい文章にならないように……」


 慎重に言葉を選びつつ、しかし早く答えを知りたいという思いから素早くボタンを押す箱入り令嬢。自分の行動のせいでパニックに陥っていることを悟られないように、努めて冷静で落ち着いた文章に仕上げる。


 「よし、これでいいでしょう……」


 出来上がったメールを確認し、満足そうに一息ついてからそれを送信。


 このように当然? の帰結として、件のメールが大也に送られた。受け取った彼が思わず頭を抱えてしまうほど常識の欠如したメールが……。



 一抹の不安と非日常に対する謎の高揚感。それらを感じながら返答を待つ雪華は、ありえない想像がもしありえた場合にどうなってしまうのかを理解していない。自分の立場が彼の人生を危うくするものだということを、理解していないのだ。




 「……はぁ、よかったです。恋愛は自由にしていいとお父様とお母様に言われていますけど、流石に許してくれなさそうなことですし……」


 すぐに返ってきたメールの内容を確認して安堵のため息をついた箱入り令嬢。そしてバイト執事の指示通りにメールを削除しようとして、彼女は少しだけ躊躇した。けれど迷惑をかけたくないと思いなおして実行する。


 「……直接お話すればいいだけです。彼とのメールを取っておきたいなどという私の個人的なワガママで迷惑はかけられません」


 人工的な光に照らし出されていた彼女の複雑な表情が、再び夜の闇に隠された。


 今日という日が夢ではないことを願いながら、雪華は特別な熱を感じる飴玉を握りしめる。また世界を広げてくれる明日を期待して、彼女は静かな夜を過ごしたのだった。


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