10. 稽古と執事の憂鬱

 春の夜空に浮かぶ綺麗な月と星々に照らされた薄暗い世界。窓の外に見えるそこそこ広い池の水面にくっきりと映る夜の明かりから、外が穏やかで静かな様子だということが分かる。


 明るい道場の天井を見上げ、冷たい床に倒れて肩で息をしている俺とは違って。


 「よっし、今日はこれで終わりだな。お疲れ、大也」


 「ハァ、ハァ……ありがとう、ございました」


 少しも乱れていない呼吸で稽古の終了を告げたのは友人の翔斗。俺の師でもあるこいつは有名な格闘家でもある。心技体を鍛えるために中学生の頃弟子入りし、今でも週に数回のペースで教えを乞うているのだが、まったく追いつける気がしない。


 今日も執事喫茶でのバイトを終えてから数時間の稽古をつけてもらったところで、我が肉体はいつものことながらボロボロである。まあそんな俺の目的は格闘技で上を目指すことではないし、翔斗に追いつく必要はないんだけど、やっぱり少し悔しいんだよな……。


 そんなことを考えながら倒れている弟子に対し、まったく疲れの見えない師匠が笑いかけてきた。


 「ちょっと休んで帰るか? 飲み物くらい出すぜ?」


 「……ああ、頼む」


 「おっけ、ちょっと待っててくれ」


 道場を出て隣の自宅へ颯爽と走っていった友人の背中を見送り、小さくため息を吐く。


 「……ふぅ。努力してるつもりだけどまったく敵わないな、翔斗には」


 それなりに実力は上がっているはずなのに、師匠が背中の見えない遥か高みにいるため成長が実感できないのだ。翔斗からは筋がいいと褒められ、大会でもけっこういいところまでいくのでは、という評価を貰っているが、それだとお前の強さはどうなるんだと言ってやりたい。最近はまったく大会に出場せず学校生活を楽しんでいるようなのではっきりとは言えないものの、おそらくワールドクラスだろうと、俺は思っている。


 (ホント、運がよかったよな。感謝を忘れないようにしないと……)


 こんなすごい人物に稽古をつけてもらっているのだから、いつまでも寝転がってはいられない。重たい身体に鞭を打って立ち上がり、稽古着を綺麗に直す。若干汗のにおいが気になったものの、ここから俺の家まではそれほど離れていないため気にしないことにした。


 待っている間にその場で軽くストレッチを始めたが、師匠兼友人は姿を見せない。


 (なかなか戻ってこないな……)


 頭の中にある柔軟運動を一通り終えた俺は、端の方に置いていた荷物の方へ近寄ってあまり頻繁には触らないスマホを確認した。連絡手段と軽い調べものにしか使われない可哀想な情報端末だが、古い機種の割には不具合もなく長い間お世話になっている無口な相棒。今はランプを点灯させて何かを通知してくれている。


 「ん? メールか。相手はたぶん……」


 普段連絡に使うのはメッセージアプリで、メールが送られてくることはほとんどない。そのため送り主はすぐに検討がついた。数時間前に連絡先を交換したご令嬢だと。


 「……けっこう前に送られてきてるし早めに返さないとな」


 内容は簡潔で文体や書式も整っている。その彼女らしいメールに少し笑ってしまいそうになりながらも、受信時刻を見て焦った俺は急いで返事を考えた。


 とはいっても、アルバイトのシフトを聞かれただけなのでそれほど迷う必要はない。事務的なやり取りではなくもっとパーソナルなやり取りであれば、相手が異性であるため色々と悩むことになったかもしれないけど……。


 連絡を取る女性が母親と店長くらいしかいない俺には当然そうやって悩んだ経験もないのだが、一般論としてはそのはずだ。たぶん……。


 「確かシフトはこんな感じだったはず……よし。送信、と」


 一応カレンダーアプリでシフトをチェックし、間違いがないことを確かめてから返信した。まあほとんどバイト尽くしの春休みだからいつ来ても大抵いるんだけど。


 一般的な高校生からすれば明るいとはいえない休みの予定だとしても、これは俺が決めたことありで不満は何もない。問題があるとすればそれは勉学の方である。


 (うちの学校、自称進学校で春休みも課題があるんだよなぁ……)


 やる時間がないわけではないが、正直いってやる気が起こらない。テストでそれなりの点数を取っている人は免除とかしてくれればいいのに。


 俺はいつも平均くらいだけど……。


 憂鬱な気持ちで成績優秀な友人を待ち続けていると、スマホが再びメールの受信を通知してきた。送り主はもちろんあの箱入り娘。どういうわけか内容を見る前から嫌な予感がしているのは気のせいだろうか。


 「……見るしかないよな」


 覚悟を決めて画面をタップし――――――――俺は頭を抱えた。



 『 金剛へ

  

  返信ありがとうございます。

  教えて頂いたスケジュールを参考に伺いますね。まずは美桜への対策を考えるところからですけど、何とかしてみます。


  ところで、一つだけ確認しなければならないことがあります。

  金剛にしか聞けないことなので教えてください。


  今日の間接キスで妊娠する可能性はありますか?


  美桜からは、異性とキスすると妊娠するから絶対にしてはいけないと教えられたのですが、間接的な場合は聞いてないのです。あのときは少しだけ動揺していて思い至らず、冷静になって気づきました。今更ですが、もし可能性があるのであれば考えなければならないこともありますので、よろしくお願いします。


  雪 』


 もうね、どうしていいか分かんねえよ……。


 というか、美桜というメイドもアレだけど、桜森女学院の教育もどうなってんの? 保健体育の授業とかないの? それに雪さん冷静過ぎない? 名家のお嬢様だよね? もしそうならいろいろ不味いことになるんじゃないの? そのときは俺の命もないんだろうけど……。いったいどんな心情でこの文章を打ったんだか……。表情も声のトーンも分からないから判断できん! 一つだけ分かったのは―――――


 箱入り娘とかもうそんなレベルじゃねえ、ってことだ。


 まあ家の人に聞く前に俺に聞いてくれたことだけが救いか。あとはメールを消すように言っとかないと、もし家の人にメールを見られたら俺の方が消されかねない……。見られたときのために名前は金剛にしてくれているけど、そんなことより内容がダメという……。


 「……はぁ。住む世界が違うと常識も違うんだなぁ」


 遠くを見ながら呟き、己の身を守るために返事を入力する。こんなアホみたいな勘違いで命の危険を感じるとは思ってもいなかった。うん、マジで。


 ただ、色々と呆れていても『少しだけ動揺していて』っていう部分を可愛いと思ってしまうのは、たぶん俺が単純ということなのだろう。


 我ながら馬鹿だなと思いつつ、急いで作成した返信メールを送信した。


 『 雪さんへ


  絶対に妊娠はしないので安心してください。


  詳しくは直接会って話しましょう。

  絶対にありえないので、家の方に聞くことはしないでください。

  疑問もあるかと思いますが、すべて直接お話ししますのでお待ちください。


  最後に、先ほどのメールもこのメールも見終わったら消してください。絶対に。


  金剛 』



  もうね、稽古よりもどっと疲れた気がしますよ……。




 「――――待たせてスマン! ちょっと彼女から電話かかってきて、話してたらいつの間にか時間が……って、どうしたんだ? さっきよりやつれた顔してるけど……」


 想定外の精神的疲労で座ったまま俯いていると、ようやく翔斗が戻ってきた。声のした方向を見上げた俺の顔を見て、親友が心配してくれる。しかし説明するのも億劫だった俺は相談しなかった。


 「……なんでもない」


 「そうか? ならいいけど。ホイ、これ、スポドリな。オレの飲みかけでわりいけど」


 「もらえるだけありがたいよ。サンキュー」


 いろいろと言わなくても察してくれたことに感謝しつつ、投げ渡された冷たいペットボトルの蓋を開けて中身を口に含む。


 ちょうどいいバランスの塩味と甘みを感じながら、メールのやり取りを思い出した。


 「……世の中にはさ、間接キスで妊娠すると思ってる人もいるらしいぞ?」


 「大也、ホントに大丈夫か……? というか、今それを言うんじゃない」


 男同士で絶賛間接キス中だからだろう。親友は心配してくれていたが、ドン引きを隠し切れない様子で俺を見ていた。


 「スマン、疲れてるみたいだ……」


 俺はただ謝ることしかできなかった。



 帰り際、ふと見上げた夜空は月と星の輝きに満ちていて、その美しさに驚かされる。それと同時にここまでずっと下を向いて歩いていたことに気づかされ、もったいないことをしたと思った。


 そして、一面に輝く数々の星たちそれぞれに違いがあるのと同じように、この世界にはたくさんの人がいるということを改めて実感する。


 己の世界を広げてくれる人に出会ったのだ。そう考え、上を向いて歩いていくことに決めた俺を、ひときわ明るく光る白い星が導いてくれているように思えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る