9. 老執事と求める令嬢

 ―――――――――


 白塗りのそれほど大きくない高級車、その内部。走行の揺れやエンジン音などが全く響かない、静寂に包まれた空間に老執事と令嬢はいた。執事は運転席でハンドルを握り、令嬢は窓から夕暮れ時の街中を眺めている。


 ミラー越しに後部座席へと腰かける主の様子を伺っていた執事は、どこか嬉しそうに沈黙を破った。


 「―――お嬢様、ご機嫌がよろしいように見えますが、初めてのお一人での外出は良いものとなったのでしょうか?」


 「……そんなに分かりやすく出ていますか?」


 突然声をかけられた令嬢は小さく首を傾げつつ、無表情だと自分で思っていた顔へと手をやってちょこちょこ触りながら尋ねる。主の問いに、老執事はいつもの柔和な笑みを崩さず本音で答えた。


 「いえ、いつもお嬢様を見ているものしか気づかない程度かと」


 「爺やには敵わないですね。ですけど、えっと、その通りです……。新しい世界に出たようでとても楽しかったです。少し危ないこともありましたけど、おかげで良い出会いに恵まれましたので」


 爺やと呼ばれた老人、桃瀬ももせという名字のこの執事の名前を知るものは少ない。ただ、桃瀬一族を長年使用人としてきた主家の令嬢は当然知っている。たとえ名前を呼んだことがなくとも。


 そんな老執事は令嬢にとってあまり得意な人物ではない。こちらの考えをすべて読んでいるような視線と、何を考えているのか分からない笑顔。執事として信用していても、あまり頼りたいと思えないのかもしれない。


 執事に対して今日の出来事を詳細に語らなかった令嬢は、顔に触れていた手を下ろして再び外へと視線を移している。遠くを見ながら、自分を救ってくれた人との出会いを思い出していた。


 「それは良かったです。ですが、その危なかったという部分は美桜に話さない方が宜しいかと。お嬢様がお一人で出かけることにもずっと反対しておりましたし、わが孫ながら何をするか分かりませんので」


 「……そう、なりますよね。くろ……金剛にも同じことを言われました。美桜のことは少し話しただけですけど、どういう人物か察しがついている様子で……」


 実際には、口止めされている本名をうっかり口に出しかけたその人へとそれなりに話してしまっているのだが、彼女からすれば少しなのだろう。その相手から受けた忠告を美桜の祖父である爺やからもされた令嬢は、教育係を務めるメイドを少しおかしいのかもしれないとようやく思い始めていた。


 少しだけ嬉しそうに金剛という人物について語った令嬢へ、老執事が再度問いを投げかける。


 「金剛、とは先ほどお見送りに出ていらっしゃった執事喫茶の方でしょうか?」


 「ええ、そうです」


 「……それはご本名なのでしょうか?」


 「え? えっと……分かりません。何か気になることでもあるのですか?」


 わずかな間をおいて聞かれた内容に困惑した令嬢。約束がある彼女は本当のことを答えられないため誤魔化すしかない。ただ、そのようなことを聞くのは彼に対して何か思うところがあったからだということは彼女にも分かる。うっかり話してしまうリスクよりも興味が勝った結果、令嬢は執事に質問した。


 それに対し、冷静な様子の執事は何も悟らせない声音で返答する。


 「いえ、そういうわけでは。……それよりも、その方は優れた観察眼と頭脳をお持ちのようですね。わずかな情報だけで同じ危険性に気づいたのですから」


 「金剛は本物の執事にもなれるくらいだと思いますよ。それにしても……危険性、ですか?」


 金剛を褒められて嬉しい気持ちと、実の祖父に危険だと思われている美桜への同情で令嬢の表情が複雑な色に染まった。


 老執事はその様子をミラー越しに捉えながらも、いつもとまったく変わりない表情と声で淡々と説明を始める。


 「今回は眠らせておとなしくさせていますが、あの子、美桜は盲目的なまでにお嬢様を大切にしていますので何をしでかすか……。同性同士の方が良いと思い教育係を任せきりにしてきたものの、今のままではお嬢様にとって良くないと思い今回協力させて頂いた次第なのです……。これを機に考えが変わると良いのですが……ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」


 「私のことを大切にしてくれているからこその行動だと分かっているので構いませんよ。……問題があれば、今度は私からも少し強く言ってみますので」


 令嬢の発言に、ようやく老執事の笑みが崩れた。わずかに驚きと嬉しさが混ざったような表情を浮かべている。その証拠というべきか、彼にしては抽象的な問いをしてしまった。


 「……お気を悪くされたら申し訳ないのですが、何かございましたか?」


 「ええ、そうですね……。今回いろいろな経験をして、私も今のままではダメだと理解させられました。ですので、少し見習ってみようかなと思ったのです」


 一人の人物を思い浮かべ、己の世界を広げてくれたこの数時間の出来事を脳裏に巡らせる令嬢。白く小さな両手を胸の前でキュッと握り、瞼を閉じてそう答えた彼女の口角はわずかに上がっている。


 車内にどことなく甘い空気が流れ、温度も少し上がった気がした老執事であったが、意識を集中すると甘ったるい匂いや温度の上昇は感じ取れない。そのため気にしないことにして、彼は素直に己の考えを述べた。


 「……そうでしたか。正直に申しますと今回の件については不安の方が大きかったのですが、結果として素晴らしいものになったようで何よりです」


 「すべてあの方、金剛のおかげです。ですから……あの、爺や。今後もあのお店に通っていいでしょうか?」


 頬をわずかに赤く染めて尋ねた令嬢自身も、執事に判断を委ねることではないと分かっている。それでも口に出した金剛という名の執事と触れ合う中で楽しさや喜びを感じていた彼女は、本物の執事に対してもこれまでと違う「何か」を無意識的に求めていた。


 しかし、その「何か」はここにない。


 「……お望みのままに。白宮守しろみやもり家に仕えるわたくしは雪華せっかお嬢様の決定に従います」


 「ありがとう、ございます……」


 (……爺やは悪くない。でも、そうじゃない……。黒菱さんみたいに、もっと――――)


 それから数分後に屋敷へと到着するまで、エンジン音も走行音もわずかにしか聞こえない車内はただひたすら静かであった。




 帰宅して自室へと戻った令嬢、雪華は、カバンの中に入れていた貰い物の飴を取り出してそっと握り、だらしないとは分かっていながら制服のままベッドにダイブ。メイドの美桜はまだ眠っていたため今は一人きりだ。スカートが翻っていようと、気にする必要もない。


 手を開いて握っている飴を見つめ、初めて知ったカラフルな世界を思い出す。それを作り出してくれた人の姿を思い浮かべ、小さく呟く雪華。


 「明日から春休み……。毎日通ったら流石に迷惑かな……? 私の世界を広げてくれるあの人のこと、もっと知りたいのに……」


 ポケットから体温で温かくなった携帯電話を取り出し、新しく登録された連絡先をボーっと眺める。


 「……予定は聞いておかないと」


 いまだに慣れない手つきでメールを作成し始めた彼女は、そこでふと思った。


 (……連絡先を聞いた時の私、少し強引すぎたのでは……? 黒菱さんはお店のルールでできないと断っていたのに、色々理由をこじつけて聞き出した形に見えなくもないような……。特別に教えてもらったことも嬉しくて今まで気づきませんでしたけど、優しさに甘えていただけなのかもしれません……。いえ、でもいいのです。この二人だけの秘密を守ればいいだけなのですから! 結局教えてくれたのは黒菱さんですし、私の方が年下なので甘えさせてもらいましょう。それに優しすぎるのが悪いのです! あ、でもきちんとダメなところを怒ってくれるところは評価しています。まあそれも優しさなのでしょうけど…………はぁ、ダメです。これ以上は―――――)


 思考の海に溺れかけた雪華は我に返り、手もとの画面に視線を戻す。そしてそれに気がついた。


 「……危ないところでした。無意識のうちに思っていることを入力していました……」


 入力した文字をすべて消し、丁寧で読みやすい簡素な内容にまとめる。


 「……これで大丈夫でしょうか? 変なところは……ないですね」


 よく確認をしてからメールを送信。携帯を閉じると室内は真っ暗であった。完全に日が沈み夜の闇が訪れている。


 いつもは怖い暗闇での孤独も、どういうわけか今はなんともない。携帯電話と飴玉が少女を少しだけ強くしているようだった。


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