8. 約束と思い
紅茶の芳醇な香りが未だに漂っている執事喫茶の個室。
初めての個室対応も終わりに差し掛かり、少し気を抜いてしまっていた俺は気を引き締めなおした。そしてなんやかんやあって連絡先を交換してしまった少女へと視線を移す。隣から香る正体の分からない良い匂いにはまだ慣れられないが、彼女自身については少しだけ人間性が分かった気がする。
どういう分類に入るか自分でも分からない感情で見つめていると、鈴の音とも思える声が鼓膜を揺らした。
「―――それでは執事が迎えに来たようなので失礼しますね」
人形のように精巧で美しい顔立ちをしたお嬢様が、メールを受信したであろう携帯を確認した後こちらに視線を向け、僅かに微笑みながらそう言ったのだ。向けられた青の双眸は何度見ても綺麗で、宝石のように輝いている。また、まだ幼さを残しながらもしっかりとした芯を持つ彼女の声が若干弾んでいるように聞こえた。
それらと纏う雰囲気から、目の前で携帯を大切そうに握りしめているお嬢様はご機嫌なのだろうと察せられる。相変わらず表情の変化は乏しいけど……。とはいえ、執事喫茶の従業員としてはお嬢様に喜んで頂けたようで満足だ。だから最後まできっちり応対しようと思う。さっき「金剛」じゃなくて「黒菱」として接してしまったが、あれは仕方ないと割りきることにした。
「はい。いってらっしゃいませ、お嬢様」
「次もお願いしますね、金剛?」
「お嬢様のお望みであれば喜んで」
よく見なければ分からない程度だが、お嬢様のこの微笑みは反則だ。俺じゃなくても男なら断ることはできないだろうと思う。首をちょこっと傾げる仕草も可愛いし、まるでこちらがサービスを受けたかのような錯覚に陥るほどだ。
そんな俺の気など知らないお嬢様は無自覚の追撃を仕掛けてくる。
「それではまた。あ、それと……連絡したときはきちんと返すように。その、返事がないと泣きますからね、私……」
はい、可愛い。もうね、反則ですよ。こんなの。
不安そうに揺れる青の瞳と美しい声。視覚と聴覚へのダブルパンチをくらいながらお願いされたら、泣かせるような真似をするなど出来ようはずがない。
それに、あざとく感じてもおかしくないはずなのに俺がそれを一切感じなかったのは彼女という人間を多少なりとも知っているからだろうか。おそらく本心で言っていると思ってしまうのだ。
そのあまりの破壊力に動揺した俺だが、ただ頷くだけでは駄目だと判断できるくらいには冷静さを保っていた。
「もちろんお返事は致しますが……そういう発言を外ではしないでくださいね。連絡先を教えたのは特別なことなのですから」
「は、はい。もちろんです。約束は守ります。連絡先の件も、もう一つの件も」
わずかに上ずった声で返事が始まったのは気のせいか? 表情に変化もないし……。まあそれはともかく、真面目な彼女のことだ。うっかりさえ発動しなければきちんと約束は守ってくれるだろう。連絡先交換についても、あの件についても。
「宜しくお願い致します」
「それではまた」
「はい。いってらっしゃいませ、お嬢様」
入室時には使っていない個室利用者専用の出入り口でお嬢様を見送り、長いようで短かった初めての個室対応が終わりを迎えた。お辞儀した状態から顔を上げると、本物の執事と思われる老人男性が開いたドアから車に乗り込む雪さんの姿。最後にこちらを見て手を振ってくれたが、執事さんの前で振り返すわけにもいかず会釈するにとどめる。
可愛いしぐさにドキッとしたが、本物の執事の姿を見て意識を引き戻された。
(なんというか、やっぱ本物は雰囲気あるし、俺なんかとは違うよな……)
姿勢を正した状態でそんなことを考えつつ車の発進を待っていると、ドアをそっと閉めた執事の男性がこちらに綺麗なお辞儀をするのが見えた。流麗なその動作に感動を覚える。小さくお辞儀を返し、顔を上げると視線を合わせたそのご老人がわずかに目を見開いていた。
(……いや、俺の気のせいか?)
しかしそう感じたのは一瞬だけで、優しい笑みを浮かべたその執事さんは運転席に戻っていった。そして小さな汚れ一つないように見える白塗りの高級車(たぶん)が走り出す。黒の方が高級車のイメージとして強いが、車には詳しくないので確かなことは分からない。そして彼女の本名もまた、分からない。
「結局本当の名前は教えてもらえなかったな……。いったいどこの家の令嬢なんだか……」
スマホを取り出し「雪お嬢様」と表示された連絡先を見つめながら、そんな疑問が口をついた。ちなみにあちらの登録名は一応「金剛」にしてもらっている。赤外線機能とか使えば本名を知れたのかもしれないが、隠していることをそうやって明らかにするのは気が引けた。赤外線での連絡先交換を知らない様子だったからなおさらだ。
「まあ口で教え合うなんていう古典的なやり取りも楽しく感じるんだから、ホントどっちがサービスを受けてたのか分かんねえよな……」
執事じゃないときの自分を知っている人だったからなのか、それとも初めての個室対応だったからなのか、はたまた別の理由なのか。今の俺にはそれをはっきりさせることはできない。けれどこれまでにない特別な感情をこの胸に抱いたことは確かだ。
「……まだここから忙しくなる時間帯だし、とにかく頑張るしかないか」
沈み始めているオレンジ色の太陽を見つめながら頭の中を切り替えた俺は、ポケットに入れていた飴へと手を伸ばして……掴むことはしなかった。
「この部屋を片づけて休憩に入ってからだな……」
仕事中にも欲しくなるとは禁断症状みたいだな、と自嘲しながら手を動かす。
お嬢様の使っていた食器類を片付けていると、自分がいかに執事として相応しくない行動をしていたのか気づかされたが、時間を巻き戻すことなど誰にもできない。問題は次、いかに雪さんのペースに流されず対応できるかだ。
部屋に残った香りに鼻腔をくすぐられながら今後の対応を考えていると片付けはあっという間に終了した。職員専用のドアから従業員室に戻って休憩に入り、ようやく飴を口に入れることが叶う。
「いやー、すごいね、あの子! 中学生であれだけ現金持たされてるとか羨ましいよ。そんなお客様がまた来店してくれるらしいし、流石大也くんね。次も頼んだわよ」
「……頑張ります」
部屋に入ってすぐ、仕事が溜まっているはずなのに暇そうな店長に絡まれたが、適当に返事をしながら身体と精神を休めることにした。
口に入れた飴はミルク味で、優しい甘みが舌を幸せにしてくれる。やっぱりこの時間が一番落ち着くなぁと思いながら、俺は同じ味の飴をリクエストしたお嬢様のことを思い浮かべてしまうのだった。
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