7. 非日常と夢

 「あの、すみませんでした……。本当にごめんなさい、黒菱さん……」


 全てのケーキが俺の胃袋に入ってからしばらくした後。やったことに対する恥ずかしさからか真っ赤な顔を手で覆い隠していたお嬢様は、白色に戻った顔に気まずそうな表情を張り付けて謝罪を口にした。


 綺麗な姿勢で下げられた白銀に輝く頭部から香るふわっとした甘い匂いが、謎の不安に駆られていた俺の意識を急速に引き戻す。


 「……金剛ですよ、お嬢様。それに今回の件は自分のせいでもありますので、お気になさらないでください。きちんと断ればよかったのですが流されてしまいました……」


 「いえ、執事の立場にある金剛は悪くないです。主の私がおかしなことを考えたから悪いのです……。私、自分がこんな人間だって知りませんでした。他人を困らせて気分が高揚するような人間だなんて……」


 綺麗な青の瞳を伏せたお嬢様が発した声には、自分自身への失望や忌避感、嫌悪というようなマイナスの感情が確かに含まれていた。その振動をとらえた鼓膜がせわしく震え、同時に心がざわつくのを感じる。


 似たようなことを考えたことがあるからだと、その理由はすぐに分かった。だから俺はそのときに救いをくれた店長の言葉を少しだけ借りて、絶望の淵にでもいるかのような暗い表情を見せるお嬢様へと話しかける。このままにしておきたくない、僅かであっても笑っていて欲しい、そんなことを思いながら。


 「……別にいいと思いますよ、俺は。ここではどんな人間であっても。ここは非日常を楽しむ空間なのですから」


 「非日常、ですか……?」


 抽象的な言葉に対し疑問符を浮かべるお嬢様。俺も逆の立場なら「何言ってんだ、こいつ?」と思うかもしれないくらい伝わりにくい発言だった気がするから仕方ない。


 しかし、その青の双眸が先ほどより明るく輝いているように見えるのは何故だろう。感覚的に言いたいことをくみ取ってくれたのだろうか……?


 そんなことを思ったが、お嬢様がまだご自身を責めていることに変わりはない。だから俺は言葉を紡ぐ。


 おせっかいで、自己満足で、押し付けかもしれないと分かっていながらも、俺自身の意見を伝えるために。


 「はい。お嬢様もアルバイトの執事と二人で喫茶店の個室にいる状況など初めてでしょうし、しかもその前に心を乱すアクシデントもあったのですから、今日がいつもの日常であるはずがありません。このような非日常はいつもの“自分”とは違う“自分”を生み出すのだと思います。この執事姿だって普段の「俺」ではない自分ですし、ここは一種の夢みたいなものだと考えてください。夢の中は自由ですし、普段やらないことだってやってしまうものですよね。そして記憶に残っていても、夢だと分かっていればそれが現実の自分だと思うこともありません。だからお嬢様もこの「非日常」という「夢」を楽しむべきかと思います。こうやってお嬢様の執事として隣にいることを、自分は幸せな夢の時間だと思っていますから」


 「…………」


 いざ言葉にするとなると、最初に考えていたスマートさは消えていくものだ。言いたいことをただ言葉にすると、その直後であっても実際にどのように話したのか思い出せないときがある。


 呆然とした様子でこちらにサファイアの輝きを向けて沈黙してしまったお嬢様を前にして、何かおかしなことを言っただろうかと一気に不安が込み上げてきた。そんなときはとにかく謝っておくのが無難な選択である。


 「店長の受け売りだというのに偉そうなことを言って申し訳ございません。……あの、お嬢様? どうかされましたか?」


 「い、いえっ! 少し考え事をしていただけです……。そ、それよりもそろそろお会計をお願いしますっ!」


 改めて声をかけると、ハッとした感じになってから少し早口でそう伝えてきた。その声音からは微妙な焦りや動揺が感じ取れたため、俺の発言に何か思うところがあったのかもしれない。


 さっきほどではないが赤くなっているお嬢様の肌色が少し気にはなったものの、仕事中の俺は店長からの指示を仰ぐために従業員室へと向かうだけだ。


 「……承知致しました。確認して参りますので少々お待ちください」


 「お願いします」


 部屋を出る直前、背中に感じていた僅かな熱が気になって背後へチラッと視線を向けると、ちょうどお嬢様が逆方向に頭を向ける瞬間が見えた。


 一瞬だけ見えた彼女の耳が赤くなっているように見えたのは気のせいかもしれない。



 笑顔の店長がお嬢様のもとで会計を行っているところに同席した俺は、一年間バイトをしてきて見たことのなかった驚くべき金額と、それを現金でサラッと支払ったお嬢様に対して畏怖の念を覚えた。


 価値観が違うのか、財布をカバンにしまった後もいつもの無表情で迎えを呼んだ様子のお嬢様。その手元にあったのは、今時珍しいガラケーであった。


 「―――お嬢様、失礼ですがスマートフォンをお使いではないのですか?」


 「はい。インターネットは危険だから、と美桜がこちらを用意したのです。電話とメールができれば十分なので不便はありませんけど、どうかされましたか?」


 本心からそう思っていることが伝わる様子で首をちょこっと傾げて問われ、俺はメイドの過保護具合を改めて理解した。インターネットは確かに危険性もあるが、それは使い方次第だ。この時代にまったく使えないというのはいろいろ問題が生じる可能性もある。


 とはいえ、他人の俺が他所の家の教育方針に口を出すのもはばかられた。そのため口をついたのは特に意味もない問いだ。


 「ご友人との連絡は大丈夫なのかと庶民的な疑問が浮かびまして……」


 「……友人と呼べる方は二人だけですし、その二人も携帯電話を使っているので問題ありません」


 「失礼致しました。……それでは自分は仕事に戻りますので、こちらでお迎えの方が来られるのをお待ちください」


 相変わらず表情を隠しているため本心は読み取れないが、それでも愛らしい鈴の音のような声に若干の不協和音を感じた。バイトを始めて向上した気がする観察眼や察知能力からしてここは触れない方がいいと感じ、謝罪をしてから距離を取ることに決める。


 しかし、それは叶わなかった。


 「あ、あのっ! ……く、黒菱さんの連絡先、教えて頂けませんか?」


 何かを振り絞ったような、強い思いが込められていながらも不安げに揺れている愛らしい声。振り返ると、同様に強い光を放ちながら揺れるサファイアへと視線がくぎ付けにされた。


 ただ、目を奪われたからといってそのお願いを聞くことはできない。


 「すみませんが、執事がお嬢様と連絡先を交換することはお店の決まりで禁止されています。そして自分は金剛ですよ、お嬢様」


 「……私が聞いているのは危ないところを助けて頂いた黒菱さんであって、執事の金剛ではありません」


 何度かお客様から連絡先を聞かれたことのある俺はその手の対応にも慣れている。だがわずかにドヤ顔に見える表情でお嬢様が返した答えはこれまでにないものだった。


 執事じゃないときを知る相手への対処は初めてで、言われたことは事実である。そのために上手い対応が思いつかなった。その動揺によるものか、執事モードが解けた俺は金剛から黒菱に戻ってしまう。


 「……そうだとして、いったい何のために?」


 「もちろんお礼をするためというのが第一です」


 「第二、第三があるのか……?」


 「夢を見るため、またここに来たいのです。ですので、黒菱さんがいらっしゃる日時を知っておかなければなりません」


 強い意志を持った返答に少し怯んでしまった。そして夢という単語を使ってくれたことに、何故かこちらが救われた気分になる。


 その心情で眩しい青い瞳に射抜かれては、断ろうにも断れないと思わされてしまう。


 「……俺じゃなくても執事はたくさんいるけど……」


 「私は貴方でなければダメなのです。実際に触れ合ってみて信頼できると判断した方でなければ。そ、それに同じ夢の中で過ごした仲ですし、その……私の恥ずかしい一面を既に知られていますので……。責任、取って頂けますよね……? 黒菱さん?」


 無表情の下にある不安が透けて見える青の双眸に、意思の強さがはっきりと伝わる声の振動。胸の前にキュッと握られた両手が儚さを演出し、神秘的な美しさに現実味が薄れる。


 そしてトドメにこの殺し文句だ。


 (ああ、もう! 可愛いな、くそ! というかそれは反則だろ……。こんなん断れる男いなくね?)


 破壊力抜群のおねだりに処理が追い付かず、脳内がショートしかける。


 (告白されてるのかと思ったぞ、マジで……。それになんかもういろいろ俺が悪い気がしてくるというか、責任取らなきゃいけないというか……うん)


 意思の壁は豆腐よりも容易に崩れ去った……。


 「……分かったよ。連絡先は交換する……。でもその前に―――」


 「?」


 「てい!」

 「ひゃっ!?」


 再び弱めのチョップをお見舞いする。今度は涙を見なくても済んだことに少しだけホッとした。


 ただ、言わなければならないことはきちんと伝えねば!


 「言葉のチョイスが誤解を招きかねないからきちんと考えて発言することっ!」


 「ご、誤解とは? 先ほどのお願いでいったい何をどう誤解するというのですか?」


 「はぁ……」


 本気で分かっていない様子の箱入り令嬢にため息をつきながら、俺は無性に飴が食べたくなるのだった。


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