第202話 脳みそ(1)
「ソルトお兄ちゃん!」
エンドランド側のポートに着いた途端、俺は大きな黒い何かを押し倒された。あまりの勢いにそのまま俺は後頭部を地面に打ち付けて目の前を光が飛んだ。
そんなこと御構い無しに黒い大きな動物は俺の顔を舐め回す。
——下水の匂いがする
激しい獣臭に吐き気をもよおして俺はそいつを押しのけると服の裾でデロデロになった顔を拭いた。
「ナディアやめろ……死ぬ」
「えーん、だってお嫁さんに行っちゃうって〜」
お嫁さんじゃなくてお婿さんな……。ってかなんで俺みたいなやつがエルフの国で結婚するとかいうわけのわからん理由で騙されるかな……。
「いかないよ」
「ほんとにほんと?」
「あぁ」
「ナディアのせいじゃない?」
「え? 何が」
「ううん、なんでもない」
「お前、どうしたんだよ? それ」
人型に戻ったナディアの頰についた赤い痣。誰かに平手打ちでもされたのだろうか?
「ううん、なんでもない」
絶対に何かを隠しているナディアの顔。分かり易すぎるだろ。
「リア、どこ行ってたのよ。医師部に来てって行ったでしょう」
ゾーイがちょっと怒っているような顔でリアの手をとると俺に何も言わないまま連れて行ってしまった。あのふたり、何か約束でもしていたんだろうか。
「あっ、そうだ。あのね、あのね! クシナダお姉ちゃんが研究部で待ってるって」
それを言いにお前は来たわけだな。
うーん、もう夜も遅いし、正直めんどくさいが仕方ない。
「じゃあ、みんなにちゃんと帰って来たってつたえてくれるか?」
「あいあいさー!」
わけのわからん返事をしたナディアは駆けて行った。
***
夜間のギルドは静かだ。眠そうな研究部の受付をスルーして俺はヴァネッサの執務室だった場所へ向かう。
まさか、クシナダは怒って俺を丸呑みにするとか……じゃないよな。
「シュー」
「大丈夫にゃ、クシナダくらいシューがぶっ飛ばすにゃ」
シューとは心が通じているような気がする。
執務室の中はランタンで仄暗い。なんとも不気味で、俺はこの部屋が大っ嫌いだと思った。
いつもヴァネッサが座っているところに真っ白な髪がぼんやりと見える。
クシナダだ。
「クシナダ?」
「あっ、ソルトさん。あの……ごめんなさい」
クシナダは真っ赤な瞳を潤ませている。少しは冷静になれたようだった。
「いや、その俺の方こそすまない。それから……助けてくれてありがとう」
クシナダが来なかったら俺もエスメラルダに殺されていただろうし、エスメラルダを捕まえることもできなかっただろう。
「ヴァネッサさんから聞きました。ずっと、ヴァネッサさんを庇ってくれていたって。ソルトさんが駆けつけなかったらヴァネッサさんはもっと……残虐に殺されていただろうって」
「あぁ……」
わかってくれたようでなにより……。
じゃなくて、なんでそれを知っているんだよ!
「クシナダ? なんでそれを知ってるんだ?」
「ヴァネッサさんから聞いたんですよ」
「いつ……?」
「さっきです。この部屋で」
あー、まずいぞ。
それはまずい展開になって来た。
——クシナダがおかしくなった
「クシナダ、悲しいのはわかる。俺も悲しい。だから、もっと冷静に……」
「来てください」
俺はクシナダに案内されて執務室の奥、ヴァネッサの研究室へと足を踏み入れた。執務室よりもおどろおどろしいその部屋の奥に、元どおりになった真紅の魔石が輝いている。
「これです」
「久しぶりだな! ソルト! といっても死んだぶりか、あはははは〜」
ヴァネッサの声が研究室に響いた。俺は驚いて腰を抜かす。
「あのエルフに見つかる前にこれが仕込めてよかったよ。魔石の中をよぉく覗いてごらん」
ヴァネッサの声に導かれるように俺は置いてあったランタンを手にとって真紅の魔石の中を照らす。
美しい宝石の中に浮かんでいたのは……あるまじきものだった。
「脳みそ……?」
「私のだ」
「どういうことっすか……」
いや、そもそもなんでこの魔石からヴァネッサの声がするのかというのも問題だが、なぜ人魚が入っていたはずの魔石の中にヴァネッサの脳みそが……っていうかヴァネッサの脳みそはいつ?
「私はな、自分の脳みその一部を切り取って育てるのが趣味でな」
「なんだよ、変態かよ」
「すごいだろう。人間ってのは脳が一部なくても十分に生きていけるんだよ。それに……再生魔法をかけ続けて切り取った脳は復元することだってできた。問題は……再生した脳をどうやって使うか……だ」
もうヴァネッサの言っている意味がわからなくなってきたぞ。つまりこいつは生きている段階で自分の脳みそを一部取り出してそれを自分の手で育てていたってことか……?
「そう、私は思ったんだ。この魔石の中で人魚が生きていたんだ。となれば……私の脳みそを入れてみようって」
ああ……ほんとわけわからん。こいつは。
「そうしたら、私の本体が死んだ後もこっちの私は生きていたんだ」
「目も耳も声帯もないのにどうやって喋ってるんだよ」
「それは、この魔石の力だな。研究しないとわからない」
ヴァネッサ……でいいのかはわからないがヴァネッサはあらかた喋り終えて満足したのかブツブツと独り言をつぶやいている。
「と、いうことなの」
クシナダはまるでうまくまとめたかのように言ったが、何もまとまってないぞ?
それに……
「あぁ、それから。君にこの魔石を返す話はなしだ。これがなければ私の脳みそは意思疎通を取ることができなくなってしまうからね。まぁ、私の本体を守れなかった代償ってことでいいね。それに、あぁそれは内緒にしないといけないんだった」
「ヴァネッサさん、ダメですよ言ったら」
「おいおい、なんのことだよ!」
クシナダがヴァネッサ魔石の方を見てニヤリと笑う。こいつらはまだ何か俺に隠しているらしい。
「その脳みそを死んだ本体に埋め込んでもらえよ」
俺の提案は即時却下だ。
「それは無理だな。冷凍保存している本体に戻るのはいやだ」
「なんで嫌なんだよ」
「人間の体はもう十分知り尽くしているしな。飽きた」
なんだよ、そのクッソわがままな理由は。
「新鮮なエルフの死体があればいいんだがなぁ……。クシナダに聞いたら例の犯人のエルフは首を落とされたと聞いてな。それじゃ、彼女の死体を使うのも難しいだろう? そうだ、ロームの女王に頼んでいい死体を探してもらえないか?」
完全にイかれてやがる。
だから、本当にヴァネッサらしいと思った。よく考えれば変な話だ。あの時ヴァネッサはずっと余裕綽々の笑顔だったし、「死んでみたい」なんて言ったのだ。
まさかこんな種明かしをされるとは……。
「じゃあ、帰っていいぞ。ご苦労だったなクシナダ」
なんか勝手に話まとまってますけど?
シューは不思議そうに魔石を眺めている。
「ヴァネッサ、シューのお部屋分くらいは削ってもいいかにゃ?」
「うーん、そうだなぁ。この脳を埋め込めるできれば男の死体を探してくれれば、そうだな死体を動かすための魔石分以外は君にくれてやるよ」
シューが俺の方を振り返って目を輝かせる。
「ソルト! 今すぐロームに戻ってグレースに頼むにゃ。そうしないとシューのコレクションルームが作れないにゃ」
「私が体を持って研究を続ける方がいいだろう? 頼むよ」
ヴァネッサ魔石が甘えたような声を出す。
どんな顔でグレースに「新鮮な若い男のエルフの死体はありませんか」なんて聞けばいいんだよ……。
「クシナダ、ちゃんとソルトに謝ったか。彼は何もできなくなんかない、彼がいなければ救えない命がたくさんあった。クシナダ、自分の力を傲るな。次は、私をお前が守ってくれ」
「はい」
泣き出したクシナダを放置して、俺は一旦、家に帰ることにした。
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