五章

1 砕かれたもの

 育ての父が、眠れない依へ語って聞かせてくれたことがある。

 それは、奇策によって自分より何十倍何百倍も巨大な妖を打ち倒した神様の話。

 けれど、そのときの依には神の賢さや勇ましさ、妖の恐ろしさよりも気になったことがあった。

 本当に、その妖は倒されるべきものだったのか。

 倒された妖も、元は同じ、大地に根ざした神だっただろうに。人に、必要とされてきた存在だっただろうに。そう思わずにはいられないのだ。

 ぎこちない言葉でなんとかその思いを伝えると、父は笑った。悲しそうな、笑顔だった。


――喧嘩をして仲直り、とはいかないことが……世の中には多くあるんだよ。


 そのときは、納得がいかないと憤るだけだった。けれど、今ならその言葉の意味が痛いほどわかる。

 大御神を頂く大王と、いにしえの神々の戦を知った。大蛇とそれを捕らえるものの争いも知った。そして、これから起こりえる戦いのことも。

 それらは、子どもの喧嘩とは全く違う。簡単に仲直りなどできるはずがない。何もかもを忘れ歩み寄ることなどできるわけがない。お互いに、その背には重すぎるほどに色々なものを背負っているのだから。

 そう、頭では理解していた。いたつもりだった。これまでは。


 全身が総毛立つような感覚と、耳元に響く激しい鼓動。狂ったように脈打つ心臓に、息苦しさを覚えて倒れないようしっかりと地を踏みしめた。まるで、体が自分の意思を離れて動いているようだ。


「あなたは、宮のなかへ」


 冷静な声。視界には、篝火の揺れた方向へと駆け出す狭雲の姿。追いかけようとするのに、足は震えていうことをきかない。よろよろと数歩進んで、立ち止まった。


「さく――」


 一人では危ないと呼びかけた名前の先が、喉奥に沈む。その視界に、飛び込んできたものがあった。ひらりと降ってきたそれを目にして、ぎくりとする。足元に落ちたのは、つい昨夜見たばかりのもの。


「嘘……」


 いつのまに。そう呟く言葉は声にならない。いまだ力の入らない足で御館の正面へ回り込む。広がっていたのは、見覚えのある光景。

 薄紅の花は朝に見た色褪せたものとは違う、まったく新しいものだった。強い風が吹いて今しがた地面へ落ちたとでもいうように、おびただしい数の花が不規則に並んでいる。けれど、それはやはり御館の前のみで、まるで、だれかのために手向けられたかのようだった。


 依の背に、震えが走った。やっぱり、意図的にだれかが行うことはできない。確信すると、ますます一人で向かった狭雲の身が心配になる。

 足が思うように動かない理由はわかっている。

 自分は、恐れているのだ。

 人ではないもの。託宣の後に現れるようになったという、珠津姫の命を狙う張本人かもしれないもの。


 それは、今まで身近に感じていた不思議な存在への、初めての恐怖のはずだった。それなのに、依はその背筋が凍りぎゅっと心臓を握られているような感覚に覚えがあった。できれば思い出したくない記憶。父と出会った、森のなかの夢。

 自分が誰かも思い出せない体に残っていたもの。この世の一番の恐怖と出会ったかのような絶望感。泣きたくなるような孤独感。そして。

 狭雲の姿は見えない。奥歯を噛み締める。足には自信があるなんて言っておきながら、ただ一人をとどめるために駆けることすらできないなんて。

 妖について教えてくれた兄の言葉が、耳に甦る。


――信仰を失い恐れだけで形作られている妖たちにはとって、人の恐怖こそが力の源になるんだ。


 怖気づいて目を閉じれば、相手の姿をより強固な虚像で隠してしまう。人の恐れを、力を、与えてはいけない。


(動け……!)


 己自身を叱咤するように念じる。右手を持ち上げると、ぐっと拳を握った。動かない膝へと、渾身の力をこめて振り下ろす。じんとした痺れるような感覚。それは膝と拳両方から伝わった。熱を帯びた痛みが、足の震えをつかの間忘れさせてくれる。倒れこむように、一歩を踏み出す。そのまま勢いに任せて二歩三歩と前に出し、いつしか走り出していた。


 大蛇のときですら、こんな感覚にはならなかった。それは、彼らが自分とおなじように生きた人間だとわかっていたからなのかもしれない。

 珠津姫は、こんな恐怖とずっと向かいあい続けていたのか。

 希人は、神と人を繋ぐもの。その身はただ民のため、宮のためにある。人びとが希人を祀り上げるのは、神と語ることができるからだけじゃない。いざというときには、その身をていして厄災から民を守る存在だから。

 ふいに思い出したのは、珠津姫とのやりとり。騒ぎのせいで、途切れてしまった会話の一片。


――わたくしの、命のあるうちに。


 そう言った彼女の表情。託宣が実際にあったと知って改めて思い返せば、それが少女の決意を物語っていたのかもしれない。

 あの覚悟が、希人であるためには必要なのだというのなら。於加美に守られ根の女神のもとへ渡ることを救いに、自分のことさえ心乱さず受け止めなければならないのなら。


(今の私は、きっと希人にはなれない……)


 色々なことを知って、色々な人と出会ってきた。それはきっと、宮の奥にいたらできない経験だ。昔よりも、生きることへ欲深くなったのかもしれない。

 と、突如狭雲の消えた前方から響く重い衝突音。

 まるで、心荒ぶるいかが降りたかのような轟音は、駆ける依の身を再びすくませた。心臓が早鐘を打ち、二の腕が粟立つ。

 けれど、今度は立ち止まらなかった。


 宮の前方へと庭を抜けて回れば、地へと座りこむ兵たちの姿が見える。彼らも、先程の音で駆けつけたのかもしれない。けれど、まるで魂を抜かれたかのように声すら出せずにいるようだった。

 やがて、眼前に現れたものを見ると、依も目を見開いた。

 狭雲と対峙していたもの、それは。

 宮を取り囲むようにある、木々の葉がざわめく。黒い大きな影が、踊るように揺れた。長い胴体が、魚の尾のように動くたび風が起こる。巻き上げられた砂や小石が頬に当たって裂傷を作った。けれど、そんなことは気にならない。

 鱗に覆われたその姿は、蛇に似ているけれどちがう。例えるなら、そう。あの宮の屏風で見た――。


「於加美……」


 殯の宮の番人、希人を守るもの。巨大な黒い竜がそこにいた。


『水分ノ……マレビト』


 持ち上げられた頭が、依へと向けられる。珠津姫と通じるものを感じたのか。金色の瞳は、なぜか濁りを帯びているように見えた。


『行コウ、根ノ国ヘ……。八雷やくさのいかづちノ守ル、安息ノ地ヘ……』


 まるで、うわごとのような言葉。語り掛けているようでいて、全く感情が感じられない。覚えた言葉をただ口にしているだけだという印象を受けた。すぐに思う。

 これは、ちがう。

 於加美のようだけれど、於加美じゃない。

 別のものが、黒い竜の皮をかぶっているだけ。姿を真似て、於加美の役目を悪用しているだけ。

 その途端、震えが止んだ。唇を強く噛み、気丈に相手を睨みつける。すると、於加美だと思っていたものの姿がかすかにぶれた。


『行コウ、行コウ……』


 耳障りな声がなおも告げる。

 振り上げられる尾。硬そうな鱗に覆われたそれは、当たれば肌を引き裂かれ、きっとひとたまりもない。

 暗いなかでも、相手の放つ殺気がその存在を際立たせていた。

 冷たい汗が背を伝う。

 が、広い背中が視界を遮った。


「どうした黒い竜。お前の相手は、俺だ」


 くぐもった声が告げる。

 その後姿は、すでにところどころ傷を負っているようで血が滲んでいた。やはり太刀を抜くことができなかったのだろう。鞘ごと目の前の存在へとかざしている。

 狭雲の背中ごしに、高く持ち上げられ振り下ろされる尾が見えた。狭雲は依を後方へ押し、地を蹴り跳躍する。

 地面を抉る尾に飛び乗り、自分よりも何倍もある大きさの背を駆ける。尻餅をついた依は、その光景を呆然と見ていた。

 それはまるで、父に語ってもらった神様の話のようだった。

 振り落とされそうになりながら、縋りついて頭へとたどりついた狭雲の太刀が、鞘に包まれたまま濁った金色の瞳に突き立てられる。

 少しの間の後、地響きのような咆哮。相手がその巨体をこわばらせる。浮かんでいることもできずに倒れふすと、鋭い爪で地をかきむしって、荒く息を吐く。生暖かい息が、依の頬をなでた。背筋が総毛だつ。

 腐臭が鼻をついた。襲ってくるのは強烈な吐き気。

 大きな体に比べると頼りない狭雲の体が、相手が激しく身をくねらせた拍子に宙へと投げ出される。


「狭雲!」


 壁へと叩きつけられた狭雲の体が、落ちてぴくりとも動かない。戒めを解かれて、於加美の姿をしたものは空へと飛翔した。

 片目を潰されたためか、やや揺らぎながらも夜闇の向こうへと姿を消す。

 その途端、明らかに空気が変わった。

 座りこんでいた兵たちは、動けることに気づいて皆一様に青ざめたまま立ち上がった。警備の確認に行くもの、仲間に声をかけるもの、泣き言をもらすもの。

 依は吐き気が治まるのも待たずに、動かない狭雲へと足早に歩み寄った。解かれた長い黒髪が彼を中心に広がり、まるで水のなかに倒れているようだった。

 先に狭雲へと近づいていた兵たちのかすかなざわめきに、眉を寄せる。

 そばへと立って、息を呑んだ。

 横たわった狭雲の仮面に、真ん中から分断するような大きなひびが入っていたのだ。衝突した時にぶつけたのか、かろうじて繋がっているという状態に見える。

 ふと彼の腕が、かすかに震える。指先が、動いた。


「狭雲」


 呼びかけると、瞼がゆっくりと持ち上げられる。澄んだ瞳と目があい、ほっとする。


「あいつは……」

「……逃げられたの」


 そう告げると、すぐに身を起こそうとした。追うつもりだ。気づいて肩を掴んで押しとどめる。


「待って! 怪我をしてるのに、無理したら――」

「必要ない。そんなことより、まずはあいつを……」


 その言葉にかっと怒りに顔が熱くなった。相手は怪我をしているとわかっているのに、気づけばまた手を上げていた。

 硬質な感触。けれど、今度はそれだけではなかった。からん、と仮面が砕けて、軽い音をたてて地へ落ちる。

 転がるそれから、ゆっくりと視線を上げればそこには。


「……」


 驚いたような表情を浮かべた、青年がいた。


「そんなことなんかじゃない。狭雲が怪我してしまうのは、死んでしまうかもしれないのは、私にとってはそんなことなんかじゃないよ」


 生きることに欲深くなったと同時に、人の生にまで欲深くなったような気がする。けれど、その欲深さは嫌いになれなかった。

 死を恐れることは、罪ではないのかもしれない。

 ふっと、その考えになにかを思い出しそうになった。


「……すまない」


 少年の面影を残したその顔が、かすかに曇ったのを見て我に帰る。遠巻きに見ていた兵たちのざわめきが耳に戻ってくる。改めて見て、依も彼の容姿に異様な存在感を示すものがあるのに気づいた。

 左頬と、額にも前髪の間から覗く赤い線。曲線を描いたそれが一定の間隔でいくつも重なり、まるで鱗のようだった。


「……刺青……なの……?」


 とっさに思い出したのは、海人の部族の男の姿。けれど、それとは色がちがうように見える。刺青が鮮やかな色だったのに対して、これは自然に浮き出たあざのようだ。

 欠けた面を見つめていた狭雲が、ゆっくりと首を横に振る。吐き出すように言葉を口にする。


「これは、呪いだ」


   ***


 記憶を失った体に、残っていたいくつかの感情。

 そのなかで、長く根をはり続けたもの。

 決して、自分を許してはいけないという罪悪感。


――小さな夜の王さま


 記憶のなかで少女が呼ぶ。黒く、くせのある髪の、少年を。

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