3 うつせみの
――私は、なにになればいい。
だれかに、遠い昔問いかけられた。少し素っ気なく感じられるけれど、どこまでも真っ直ぐな口調で。泡のように唐突に浮かび上がった記憶の相手は、そのとき周りで思い当たるのが一人だけだったから、きっと兄なのだろうという結論に落ち着いた。確かに出会ったばかりの兄は、素っ気ない態度をとることが多かったから。
そのとき自分がなんと答えたのかは覚えていない。そして、その返答を受けて相手がどんな反応をしたのかも。ともすれば、会話自体が現実にあったことなのかすらわからなくなるのだ。
夢か、現か。
それは遠い遠い、もやの向こうの記憶。
*
――依、危険な目にあうようなことはすべて二人に任せなさい。決して、一人で外を歩いてはいけないよ。
そう言い残し、兄が宮へと戻ってどれくらい経っただろう。篝火の灯りに照らされ見上げた月は、暗闇のただなかで見るよりもずっと暖かそうに見えた。
森で狭雲たちと話したのは、ほとんど依たちが知っていることだった。不吉な託宣が事実で、それを元に不穏な噂が宮のあちこちで囁かれていること。年役が依の存在を知る者に口止めをしてまわっていること。昨夜の御館の周りで起こったこと。
昨夜のことを聞いた狭雲は、すぐに御館の周囲の見回りを行うと口にした。
――託宣のあった後からおかしなことは幾度かあったが、直接危害はなかった。だが、これからもそうだとは限らない。
そして、それに賛同した依も見回りに名乗りでたのだ。兄から反対されたのは、言うまでもない。
――言ったはずだ、危害を加えられる可能性もあると。
冷ややかな狭雲の言葉は、初めて出会った時を思い出させた。何もできない自分の無力さを思い知らされた、あの森を。
今度も、きっと自分はなにもできない。わかっていたけれど、あの珠津姫の姿を思い返すと何もせずにはいられなかった。
――それなら、なにかあったときはすぐに逃げる。そして、助けを呼ぶわ。言ったでしょう? 足には自信があるって。
頑として意見を変えなかった依に、ついには渋々ながら羽都彦も折れた。一人ではないこと、宮の敷地内であることがその理由かもしれない。そして、先の台詞を残して去っていったのだった。
こうして、三人で御館の外に張り付いて数刻。
――招かれざる者が珠津姫様のすぐそばまで来るのを止められなかったなんてのが広まったら、都の兵の名折れってもんだ。
そう息巻いていた黒鳶も、待ち始めて少し経つとそわそわとし始め、結局門の外を見てくると言っていなくなった。どうも、彼は気長に待つことや辛抱することがあまり得意ではないようだ。
予想もしなかった二人で残されるという状況に、依は言葉に迷っていた。元々狭雲は口数が多い方ではなく、またそれは依も同様だった。幼い頃からの仲である羽都彦相手とは違い、どうしても長い沈黙が生まれる。
そして一度黙ってしまうと、話し出す機会さえ見失ってしまった。訊きたいことはたくさんあったはずなのに、どれも上手く音に乗せられる気がしない。
「……思ったんだが」
ふと、狭雲が沈黙を破りそう口にした。
「新役殿は、依に関わることだけ態度があからさまだな」
ぼそりと、くぐもった声でつぶやく。
「しかも、どうやら彼は俺が気に食わないらしい」
依は苦い笑みしか浮かべることができなかった。返す言葉が見つからない。らしいではなく、間違いなく羽都彦は狭雲を目の敵にしている。なぜそこまで気にするのかはわからないものの、今二人きりでいるということを知ったら、無理やりにでも割り込んできかねないのは想像にかたくなかった。
「……ごめんね」
なぜか、本人でもないのに謝罪の言葉が口をついてでた。面の穴から覗く目が、ちらりとこちらに向けられる。
「腹を立てたわけじゃない。兄というのは、普通そういうものかと思っただけだ……」
「羽都彦兄さんのは、普通とは違う気がするけど……」
少し呆れ気味に言いながらも、ふと思い出す。そういえば、狭雲にも兄がいると黒鳶は言っていた。その兄に会ったときに狭雲とも会ったと言っていたのだから、一緒に住んでいたのだろうか。
「黒鳶さんに聞いたんだけど……狭雲のお兄さんって、どういう人なの?」
問うと、驚いたように間が空いた。ややして、仮面の奥でなにごとかつぶやくのが聞こえた。雰囲気から察すると、きっとこの場にいない海人の男を毒づいているのだろう。そして、そのまま押し黙る。どう答えればいいのか迷いあぐねているようだ。こんな狭雲は初めて見る。やっぱりその姿は年相応で、なんだか新鮮に映った。
辛抱強く待ったことで観念したのだろう。一つ息を吐き、うつむき加減に言う。
「……優しい。けれど少しだけ、弱い方だ……」
ただ一言。いくら待っても、彼からそれ以上の言葉はなかった。ざわざわと、影絵のような木々が風に葉を揺らす音が聞こえる。それにあわせて、篝火の炎も揺らいだ。
「……あのね」
今度は、依が沈黙を破る番だった。
「狭雲は、前に聞いたでしょう? なぜ自分を恐れないのかって。怖がるのが普通みたいに。私はそのとき、狭雲は自分を恐れてほしいんだろうなって思った。まるで人が近づく前に、自分から遠ざけようとしているように見えた」
感じたまま口にすると、自分より背の高い彼を見上げる。
「これは私の全くの想像だけれど……恐れさせたい理由と、太刀を抜けない理由は……一緒なんじゃない?」
青年の体が強張る。そして、また一言だけ勝手に情報を流した海人の男に悪態をついた。仮面を押さえ、長い長い溜息を吐く。また少しの沈黙。今度も、依は辛抱強く待った。本当に話せない理由があるのなら、狭雲ならそう言ってくれるだろう。そうしたら、もう二度と訊ねようとはしない。立ち入ってほしくない部分は、だれでも心のなかにあるのだから。
けれど、ほんの少しだけ、狭雲が謎に満ちた己のことを語ってくれるのを、期待していたのも事実だった。
いつの間にか、それほどまでに彼のことを知りたいと思ってしまっていた。
夜の空気は澄んで肌寒く、立ち止まったままの体はもうずいぶんと冷えていた。ふいに、くしゃみがこぼれる。
すると、それまで張りつめていた空気が僅かに緩んだ。
「やっぱり、なかにいたほうがいいんじゃないか」
「いいの」
幼子に言うかのような口調に、意地を張って言い返す。そのそばからまたくしゃみがでた。
すると、ふっと仮面の奥から忍びやかな笑い声が漏れ、青年の肩から幾分か力が抜けたのを感じた。安心する。彼が笑うと、ぐっと雰囲気が柔らかくなる気がした。
「……何年も、前のことだ」
落ち着いた後に、ぽつりと、狭雲は落とすように告げた。
「俺は、兄を殺そうとした」
「……え……?」
空気が、急速に凍りついたかのように思えた。真剣な彼の声音は、嘘を言っているようには聴こえない。だからと言って、そうなのかと事実のみを聞き流せる内容でもなかった。
「最初は……父の命に従っただけだったんだ」
狭雲の長い指が、腰に帯びた太刀の柄を撫でる。
「父の意に反した兄を説得しろと言われて向かったが……兄は頑なで、説得が難しいと考えた俺は躊躇なく太刀で斬りつけた」
今耳にしている言葉が信じられない。目の前の人物と、話のなかの『彼』があまりにもかけ離れているからだ。
「取り押さえられる俺を見る、兄の怯えた目は今でも忘れられない……」
それが、彼が初めて人に向けられた恐怖だったのだろう。
「父に、認めてもらうつもりだったんだ。初めて与えられた使命だったから。だが……結局、自らの起こしたことでその父にさえ恐れられることになってしまった」
用意された文章を読むように、淡々とつむがれる言葉。今、仮面の奥の彼の顔はどんな表情を浮かべているのだろう。
依は困惑した。やはり今の狭雲からは、彼の言う場面を想像することは難しい。言葉は少なくとも、優しさを態度の端々に感じさせていた彼だからなおさら。
それなのに、語られる内容が偽りじゃないこともわかる。依は、自分を恥ずかしく思った。彼の抱えるものは、軽々しく問いかけていいものではなかったのだ。
「最初は、なぜ父が自分を遠ざけようとするのかわからなかった。誰よりも父を敬い、誰よりも力を尽くしているはずなのに、と……。それなのに、太刀に手をかけるとあのときの兄の顔を思い出して……なぜだか抜けなくなるんだ」
「……狭雲……」
手のひらを見つめる狭雲の横顔は、やはり面で表情がつかめなかった。罪を罪と気づけなかった彼の気持ちは理解できない。彼がとったのは、明らかに間違ったものだ。それなのに、狭雲が父へと向けた感情は痛いほどわかる気がした。役に立ちたい。少しだけでも、ほんの一瞬でもこちらを向いて自分だけを見てくれたなら……。
そっと、狭雲は面に触れる。
「ある村で、様々な人と接してやっとわかった。俺は忌避されるべき存在だったのだと。情のない……妖よりもよほど冷徹な存在なんだと」
ひどく、諦観するかのような声だった。依は、つんと鼻の奥が熱くなるのを感じて拳を握った。まるで月が眩しすぎるとでもいうかのように、狭雲は地面へと目を落とす。感情を胸の内から溢れさせないようにとするかのようなその姿に、既視感を覚える。そんなはずは、ないというのに。
背へと伸ばしかけた手が、行き場に戸惑い結局下ろされた。
「……狭雲は、情のない人じゃないよ」
相手にだけ聞こえるような声で、依は小さくつぶやいた。
だって、自分のしたことを悔いている。
例えそれが自覚したものではないとしても、彼の体は太刀を抜かせないことで示しているのだ。己が踏みにじったものへの、罪悪感を。
それに、今ならよくわかる。彼の、とても人らしい部分を。
「恐れさせたいのは、相手を傷つけたくないから? 恐れさせて遠ざかってくれれば、相手が呵責を感じずにすむから?」
だけど、と依は震えそうになる声を振り絞る。
「優しいけど、それは、とても卑怯な考えだとも思う。だって、一番傷つきたくないのは……一番守りたいのは、自分……でしょう?」
遠ざかってくれれば、後から失望されずにすむ。裏切られずにすむ。守られるのだ。心は、ほんの引っかき傷がつく程度で。
言葉のない面の青年に、かすかに微笑む。
「やっぱり、狭雲は人だよ。妖の子でも、土蜘蛛でもない。優しくて不器用で、お父さんが好きで少しだけ子どもっぽいところもある……寂しさを抱えた、ただの人だよ」
つい昨日もらった言葉を思い出す。あれだけの力を、自分が彼に与えられるとは思わない。けれど、伝えたかった。諦めてしまえば、もう二度と光は仰げない。足元を照らされていることにさえ気づかない。それはきっと、とても不幸なことだから。
「依……」
「希人でも五依姫でもない、ただの依と同じ……ただの狭雲だよ」
今度こそ、依は狭雲の手をとった。彼は拒まない。ふと、そのときまた先ほど感じた既視感が甦る。
――私は、なにになればいい。
ふと浮かんだのは、もやの向こうの少年のこと。
どうして、こんなときにあの言葉を思い出すのかわからなかった。
狭雲の手から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じる。
「ずいぶん……はっきり言うんだな。俺のことを思い出してもいないのに……」
手を離すと耳に届いたのは、そんな恨み言。けれど、責めている語調ではなかった。
「……うん。ごめん」
眉を下げ笑うと、狭雲は首を横に振った。
「いや……それでよかった。思い出さないままのほうが、ずっとましだ……」
それはどういう意味かと問おうとしたが、彼はそれ以上その話を続ける気はないようだった。
「長話をしてしまったな……。黒鳶と交代しよう。桜のこともだが、大蛇のことも心配だ」
「そうね。都で頭が捕まっても、郎党はまだいるんだし……」
依がうなずくと、狭雲は不思議そうに首をかしげた。
「その話は、村で噂になっているのか……?」
問われ、違うと否定する。脳裏に浮かぶのは、狭雲と出会ったあの日、目撃した村の様子。胸の痛みを感じたが、なんとか頭の片隅へと追いやり答える。
「兄さんが教えてくれたの。宮で聞いたって言ってたから、五人衆の話にでたんだと思う」
「そうか」
そう、狭雲が相槌を打ったときだった。
語尾の音が、不自然に途切れた。彼は門の方向へ首をめぐらせ、凍りついたように動かなくなる。つられて向けた視界のなかで、一際大きく篝火の炎が揺れた。それなのに、風はまったく吹いていない。
感じたのは、耳が痛くなるような静寂。
依にもすぐにわかった。
招かれざるなにかが、きたのだと。
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