2 問い

「ねえ、露草」


 外から光の差し込む部屋のなか、とばりで隔てられた向こう側の相手へと少女は声をかけた。返ってきたのは素っ気ない返事。だが、それは彼女にとってはいつものことだった。だから、供人の反応に一つ一つ腹をたてたり悲しんだりはしない。態度のことを除けば、彼が自分にとって十二分に頼りになることを知っているからだ。

 乳母に連れられて露草が宮にやって来て数年が経った。初めはよき友であり兄のようだった彼の態度が変わったきっかけは、なんだっただろう。そう考えて、すぐに珠津姫は思いいたった。三年前、初めて式の話が説明されたときからだ。


 そこでされた話では、宮の希人は、成人の証にその身に神を下ろして己の清浄な心と、希人としてふさわしい力を示すらしい。といっても、実際に神が正邪を判断していたのはずいぶん昔のことで、最近では素質を問うのは形ばかりなのだという。認められれば、それから後は宮と、民のために尽くすことになるだろう。

 希人の血を残すことはとても大切なことであるため、婚姻も同じ一族同士、もしくは違う希人の一族とすることになる。そこに本人の意思はない。

 そんな話をされた後から、彼は距離をとりはじめたように思える。


「覚えている? 式へでるとわたくしが決めた日のこと。異変があれば、命を賭しても中断させると言ったわたくしに、あなたがかけてくれた言葉」


 問うと、薄絹の向こうの影が、僅かに頭を持ち上げるように動いた。


「……忘れられるはずがありません。あんなことを言っておきながら、私はなにもできなかったのですから」


 元よりかすれ気味な低音に、自身を責めるような苦い色が含まれている。

 主である少女が儀式の最中に倒れて以降、彼はますます頑なになった。己を律し、なにかに耐えているかのように見えるのだ。


「仕方のないことよ。だれも、あんな託宣をうけるとは思っていなかったのだから。まるで、希人を試すような……。宮の者たちの不安もわかるわ。わたくしですら思ってしまうもの。あれは本当に神だったのか……って」

「珠津姫」


 咎めるような声。少女は大人しく口を噤む。けれど考えずにはいられない。呼び声に応えなくなって久しい神が、なぜ今頃になってあのような託宣をしたのか、と。


「私の使命は、あなたを生かすこと。その思いに変わりはありません」


 淡々と告げられる台詞に、珠津姫は息をつく。


「無理よ、露草。これはあなたでも解決できることではない。天の浮橋のことなんて、なにもわからなかったでしょう……? 調べても、高天白大御神様が天へ上るときに使われたもの、としか知ることができなかった」

「それでも、私は同じことを言います。もし言葉を違えてあなたの骸がもがりの宮へ行くときは、私がすでに根の国に渡ったときだ」


 それは、はっきりとした迷いのない言葉だった。気圧され、少女は聞こえるか聞こえないかの声でもう一度だけ無理よ、とつぶやいた。生きるほうがもっと長く苦しい道になることを知った。一度目の式を拒んだように、それを拒むことはもうできない。できないと理解できてしまうほど、自分が大人になってしまったことも知った。

 そして、やっとわかった。彼の変化の理由も。


「たとえ生き延びたとしても……わたくしの心は死ぬわ」


 ぽつりと、言葉をこぼす。露草は答えない。


「ねえ、露草。式の後のことは覚えている? 倒れたわたくしが目を覚ました朝のこと」


 露草は、黙ったままだ。けれど、少女は構わず続ける。


「あの朝、とても珍しいものを見たの。最近ではもう笑ってもくれなくなったあなたが、わたくしが目を開けた途端に涙をこぼして……。あれは、夢だったのかしら?」


 問いかけに、供人はすぐには答えなかった。ややして、感情の読めない声音で言う。


「きっと、夢だったのでしょう」

「……そう」


 どちらも、それ以上そのことについては口にしなかった。

 昨夜御館の周りに起こったことを報告し、部屋を去る彼の影を帳越しに見送って、そっと腕を伸ばす。さらりとした薄絹の感触。たった一枚のそれを通して目の前にいた人を思い、珠津姫は瞼を伏せた。


――どうして、泣いているの?


 一度も見たことのなかった光景に訊ねると、露草は言った。切れ長の目に、涙をためて。


――恐ろしさを、知ってしまったからです。


 整った顔が人らしい表情を浮かべるのを、久しぶりに見た。間近で見るのすら、何年ぶりだろう。瞬くと、彼の長い睫毛を濡らし、一粒、透明な雫がこぼれる。


――あなたを失う恐ろしさを、知ってしまったから。


 耳に心地のいい声が、そう言ったのを確かに聞いた。あの言葉は、彼の真実なのだと信じている。


「…………あなたは嘘つきね……」


 小さな声は、日が入り影の落ちる部屋の隅へと沈んで消えた。


――水分一族の二の姫よ。於加美おかみを従えることのできない娘よ。これは、誓約うけいだ。お前が真に希人にふさわしい者ならば、祭りの日、天の浮橋が現れるだろう。


 公の式は形ばかりでいいはずだった。神に呼びかけ、応えたように見せるだけでいいと。それなのに、年役たちの予想を裏切り、それは本当に珠津姫の声に答えたのだ。託宣の主は言った。


――だが、もし天の浮橋が現れなかった場合は……私がお前を喰らう。


 約束の祭りの日は、もうすぐそこまで迫っている。


   ***


「於加美?」


 昨日来たばかりの森へ分け入りながら、依は首を傾げた。

 菅実すがのみの密集した赤い実が、緑の葉に囲まれ木漏れ日を弾いて輝いている。まだこの季節では渋みと酸味しか感じられないが、もう少し寒くなれば実も甘くなり食べ頃になるだろう。果実に遅れて色づく葉は、やさしい風合いをだす染色の材料にもなる。

 装飾の少ない従婢の衣装を借りてきたこともあり、森のなかを行くのに前ほどの不便さは感じない。けれど、藤蔓の繊維で織られた半靴は裸足の感触と違ってやはり慣れなかった。


「ああ。宮のなかで見なかったか? 大きな黒い竜の屏風。あれが於加美と呼ばれるこの宮の守り神だ。水を操り、希人と、殯の宮を守っている」


 黒鳶の言葉に思い出す。珠津姫に引き合わされる前、通された部屋で露草の背後にあった屏風を。羽都彦が眉を寄せる。


「希人を守るものというのは聞いたことがありましたが……。殯の宮とは、亡くなった希人の体を一定期間安置するため建てる場所でしょう? なぜそんなところを守って……」

「一説には、於加美が希人の魂を根の国へ守り導く役だからというのがあるらしい。っつっても、死後のことだから実際どうなのかはわからねぇんだがな。俺も聞いた話だし」


 彼の言い分ももっともだった。根の国のことはだれも確かめることなどできない。できたとしても、現世に戻ってくることができないだろう。大御神の妻がそうであったように、死の穢れにその身を染めれば神であっても甦るのは容易ではないのだから。


「ずいぶん宮について詳しいんですね。新役の俺よりよほど情報を得ているようだ」


 羽都彦の声は硬く、やや不満を抱いているようだった。それもそうかもしれない。黒鳶は都から要請を受けて宮に来た兵にすぎないのだから。


「いやなに、俺の知ってることってのはほとんど話に聞いたもんばっかりだ。一番重要な大蛇についてはさっぱりだし、なにより俺がいなくなった途端今まで尻尾も掴めなかったやつらが都で三人も捕まっちまったらしいしな」


 その一人が、頭だったのだろう。今の口ぶりから、知ったときの彼の悔しがりようは容易に想像できる気がした。


「ま、口伝えも馬鹿にはできねぇってことだ。五人衆を引き継ぐための資料の竹簡には、とうてい書いてねぇだろうな」


 それが揶揄を含んでいる言葉ではないことは、刺青の男の表情を見れば明らかだった。けれど、兄が唇を噛むのを見て依はひっそりと息をついた。彼を落ち着いていて優しいと評していた村の娘たちが、宮での様子を見たならどう思うだろう。いや、彼女たちなら、案外今までより親しみがもてたと喜ぶのかもしれない。


「ところで、あの男のことですが……」

「狭雲のことか。ずいぶん、新役殿はあいつのことにこだわるな?」


 話を先のものへ戻そうとした羽都彦に、黒鳶は口端を持ち上げた。


「得体の知れないものがこの宮にいること自体、気にしないわけにはいかないでしょう。罪人でないのなら、あの男は何者だというんです」


 堂々巡りになる会話に、男はやれやれと肩を竦める。こと狭雲に関して、羽都彦はなぜか厳しい。出会った状況が起因するのかもしれないが、それだけでもないのかもしれない。


「俺に訊くなって。俺はただ北の宮に行くって言うあいつと一緒にここまで来ただけの仲だ」

「それだけじゃないでしょう。あなたの先程の口ぶりは、まるでそれ以前から知っていたかのようだった」


 すかさず飛んだ鋭い声音の指摘に、すっと黒鳶の目がすがめられる。依は慌てた。羽都彦に密かに教えてもらった話では、海人の部族は気性が荒く、火のように苛烈な性格の者が多いらしい。その烈しさは、肌を裂き染料を塗りこめた刺青を見てもあきらかだ。

 けれど、黒鳶は声を荒げたりはしなかった。


「確かに、それ以前にも都で会ってるさ。あいつの兄貴と親しかったんでな。といっても、まだあいつが仮面もしていない頃だし、俺とあいつは話したこともなかったが」


 仮面をしていなかった。その言葉に依は目を見開いた。


「それなら、あの面は生来のものではないのですね」


 羽都彦も、まったく同じことに驚いているようだ。海人の男は頷く。


「ああ。ある村から都へ戻ってきた後かららしいが……なぜあんなもんをしないといけなくなったのかは、俺も知らねぇ」


 ある村。そこへ行った後から、狭雲は顔を隠すようになった。そこに、なにか依たちでは想像もつかない秘密があるのかもしれない。


「その村は、どこなんですか?」


 思わず問いかけると、依が積極的に話しかけたのが意外だったのか黒鳶は目を瞬かせた。しかし、すぐに淡い苦笑を浮かべる。


「もしも調べるつもりなら、残念だったな。もうその村は存在してねぇんだ」

「え……?」


 はっと、なにかに気づいたような羽都彦の顔。すぐに、それが沈痛なものに変わる。けれど、依にはわからなかった。噛んで含めるように、男はゆっくりとした口調で言う。


「ないんだよ、村自体が。川が氾濫して、洪水にのまれてなくなった」


 とっさに思い出されたのは、狭雲の言葉。


――死んだ。人の役にたつために……洪水に巻きこまれて。


 大切な人を失ったというその洪水が、彼のなにかを変えてしまった。

 すべては、その洪水のために。


「確か、位置的には新役殿の村のずっと上流辺りにあったはずだぞ。それこそ聞いた話だから詳しいことはわからねぇが」


 ふと、足を進めながら黒鳶が何気ない調子で続ける。


「村が巻き込まれた洪水についてなら、珠津姫に聞いてみればいいんじゃないか?」

「どう、して……?」


 訊ねつつ、依は鼓動が早くなっていくのを感じた。これは、感じたことのある感覚だ。そう、珠津姫と話したときに、ある言葉で感じた……。


「大王に反乱した者たちを鎮圧するため、その村にいったのは、珠津姫だからな」


 強く、鼓膜に響くほど心臓が脈打った。


――あなたが珠津姫となり、あの方を守るのです。


 再び、あの声がする。地を揺らし響くような。さっと全身から血の気が引いていった。


――決して、真の名を口にしてはいけません。あなたが根の国へ渡るまで、このことは隠し通さなければならない。


 やはりくる、頭蓋の内側から叩かれているような痛み。血のさかまくような感覚。けれど、今度はそれだけではなかった。

 眼裏に映る、無数の矢。横たわる女。その体は赤く染まっていて。


「狭雲!」


 黒鳶が呼ぶ声に、はっとした。片手を振ってみせる広い背中の向こうから現れたのは、長い癖のある黒髪を一つにまとめた青年の姿。彼が、振り返る。その顔は、表情のない面に覆われている。


「……それは、どういうことだ」


 くぐもった声が、それと示したのは依と羽都彦。案の定、兄は不快そうに眉間に皺を刻んでいる。


「細かいことは気にすんな。色々報告したいことと確認したいことがあったから、姫様と新役殿も呼んだだけだ」

「お前は……」


 呆れたように狭雲は息をついた。だが、なにを言っても無駄だと感じたのだろう。そんな狭雲の考えを知ってか知らずか、黒鳶も歯を見せて笑う。そんな様子は、確かに二人が知り合いであることを裏付けている。けれど、そんな狭雲の姿を見ながらも依の頭は別のことでいっぱいだった。


――少なくとも狭雲は、姉さまを知っているようだったけれど。


 昨夜、珠津姫はそう言っていた。

 思い出せたことは少ない。けれど、ここに来て知りえたことがいくつもある。

 狭雲は依と過去に知り合っていて、けれど名前を知らなかった。そして、彼はある村が消えた洪水に、巻きこまれたことがある。その村の鎮圧に行ったのは、珠津姫。

 様々な事柄が頭のなかに浮かんで消える。ばらばらだと思っていたそれらが一つに繋がる事実を、依は知っていた。それは思い出したというよりも、浮かんできた欠片を繋ぎあわせたら、信じたくない事実しか示されなかったといったほうが正しい。

 だからこそ、確かめるために狭雲に問いたかった。


(あなたは、私とどこで出会ったの……?)

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