2 七車
――母さまはね、月のようだと言われていたの。きれいで、やさしくて……だからね、みんな言うの。珠津姫も、きっと月のような美しい姫になりますよって。
私は、珠津姫じゃないのにね。
その言葉は、心のなかだけでひっそりとつぶやいた。
*
「大丈夫なの……?」
問うと、狭雲は頷いた。簡単な手当てが済むと同時に彼は宮から出てねぐらである森のなかへ足を進めていた。止めるのも聞かなかった。辺りを気にするような視線に気づいて、初めて仮面をしていない彼をほかの人びとが奇異の目で見ていることに気づく。
妖、土蜘蛛という単語もどこからか聞こえた。彼にとっては、きっと居心地のいい場所とはいえなかったのだろう。
駆けつけた黒鳶は、自分が対峙できなかったことに残念そうにしていた。けれど、狭雲の性格を知っているからか彼を無理にとどめることはしなかった。だから、依も止めはせず、追いかけてきたのだ。
まだ夜は明けておらず、月は厚い雲に隠されている。暗い森のなかを、手探りで歩くような状態だった。しかし、狭雲は迷いなく歩を進めていく。前に森を抜けて村を見たときとは違う。一人で、前へ前へと進んでいく。
まるで、このままどこかに行ってしまいそうな。
そう感じるからこそ、追わずにはいられなかった。それに、謝りたくもあったのだ。
「……狭雲」
闇のなかで輪郭がほのかに見える程度の背へと声をかける。
「ごめん、なさい……」
なによりもまず、言うべきだった言葉。無力だった自分がはがゆくて、希人の血を持つ人間なら、なにかできるのではないかと思っていた自分が情けなくて。狭雲の言うとおりだった。依がいても、なにも変わらない。むしろ、悪くなったといってもいい。
「……助けてくれて、ありがとう」
小さく、そうこぼす。
かばってくれた背を見てほっとした。それは、事実だ。
先程まで聞こえなかった虫たちの声と、鳥の声。それらが、今この近くに恐ろしい存在がいないことを告げている。
けれど、彼の背はまだぴりぴりとした緊張感をともなっていた。全身を目にして、指の先までも神経を集中して、どんな些細な変化も見逃さないとするかのようだ。
しとめたわけじゃない、いつまた来るかもわからない。それは、依も理解している。だが、狭雲が宮のためにそこまでして動く理由がわからなかった。
狭雲が、依の思う彼なのだとしたら、なおさら。
「ねぇ、狭雲」
もう一度、呼びかける。
「呪いって、どういうこと……?」
宮のなかではくわしく訊ねることができなかったこと。彼の顔にある、赤いあざのようなものの理由。狭雲の背が、かすかに動いた。
彼が仮面を着け始めたのは、村から帰った後。だとするなら。
「狭雲は、呪われたの……? あの、村で……」
洪水に、呑まれた村で。
月を隠していた、雲が晴れる。木々の間から覗く丸い月の放つ光は、振り返る青年の顔をはっきりと照らし出す。
その顔に浮かんだ感情は、はっきりとはわからない。期待とも、怯えともとれる。
「……思い出したのか……?」
問われて、どう返答すればいいのかわからなかった。
思い出したこともある。けれど、思い出せないことのほうが多いような気がする。
依の沈黙を、返答と受け取ったのだろう。狭雲はあざのある左頬へと指を伸ばしながら言った。
「本当は……呪い、というのは正確じゃない……。俺のなかに、俺とは別のものの欠片が入っていて……それが命を喰らい続けている、と言ったほうが正しいのかもしれない」
「別のもの……?」
問いかけて、はっとした。一瞬、月の光に照らされた狭雲の瞳が、金色に見えたのだ。薄い唇が告げる。
「俺のなかには、於加美の欠片が入っている」
黒い竜と対峙していた彼の姿を思い出した。だから、宮の人間たちが異形を恐れていた時に狭雲は相手を守り神の於加美なのではないかと疑わなかったのか。彼のなかに、本当の於加美がいるから。
それを思うと、狭雲がほかの人びととちがう雰囲気を発していたこともわかる。
「砕かれた魂の一つ、といったらいいのか……。洪水に巻きこまれた後、気がつけばこの体の中にすでに在って……そして、そのときから俺の命を喰らい始めた」
常人であれば、欠片といえど神の器にはなりえない。中身と器が合わずにすぐに命を落とすところなのだという。彼だったからこそ、少しずつの侵食で済んだのだそうだ。希人の血筋であった、彼だからこそ。
赤いあざは侵食の証であり、彼にとっては呪いに近いのだ。
「これは、俺の罪に対する罰なんだろう。だから、怒りも恨みも持たない。ただ一つ、都へ戻って父から幽閉された後俺が願ったのは……」
真っ直ぐに、見つめられる。
「約束を守り、見つけだすこと」
――きっと、また会いましょう? そのときは、今とはちがう形で。
無邪気な少女の声は、今まで強固に拒み続けていた記憶を呼び覚ます。それこそ、濁流のように渦を巻き押し寄せる、手放したはずの記憶たちを。
――私は、なにになればいい?
もやのなかの少年が問う。彼は、少女の名前を知らない。少女は、自ら名乗ることもなかった。真の名は、伏せなければならなかったから。
――あなたが月なら、人の私の手は届かない。鳥では、あなたのそばを飛び続けられない。あなたを守るには、あなたと友人になるには私はなにになればいい。
――……守らなくていいの。ただ……。
答える少女は言いよどむ。月のようだと称されるようになるだろう妹を思い、そして、長くはないのかもしれない自らの命を思い。小さな声で言った。
――たった一人で泣くときに、身を隠す雲になってくれたらうれしい……いっしょにいてくれたら、それだけでいいの。ねぇ、小さな夜の王さま。
『私の代わりに、あの子の、大切な妹の力になってあげて』
呼びかけると、少年は目を見開き、やがて困ったように笑った。
――
頭が、痛む。割れそうだ。
視界がぶれた後、再び広がった視界は別の光景を捉えていた。ちらつくのは、無数の矢。赤い、手の平。ぬるりとした感触。その、温かさ。
――水分一族の一の姫。選ばれなかった娘よ。お前は、なにを望む。
問いかける声。ぐるぐると視界が回る。望み。私の、望むこと。
やがて、少女は口にする。絶望に溢れた声で。死への恐怖が滲む声で。
――滅びを。
「どうしたんだ……?」
押し黙ったままのこちらの様子がおかしいと感じたのだろう。狭雲がたずねる。
「……ねえ、狭雲」
依はぽつりとつぶやくように言う。あれほどまでに苛まれ続けていた頭の痛みは、もう軽くなっていた。すべてを、思い出したから。
「洪水を起こした原因の人間がいるなら……あなたは憎む?」
視線を揺らさず、問う。
記憶にあることが、事実なら。
あれが、実際に起こったことだとするのなら。
「あれは、偶然だ」
「もし、よ。もしもいるとすれば……どう?」
少し考えて、狭雲は言った。
「もしいるとするなら……許すことはできないだろうな」
その一言が、重く心に響いた。
雨のように降り注ぐ矢の記憶。死を覚悟したときに、姿なき声に自らが望んだこと。
悪夢のようなあの記憶が確かなら。
(洪水を起こしたのは、私だ……)
涙の粒が、一粒、頬を伝ってこぼれた。
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