2 北の宮

 高天白大御神たかあめのしらのおおみかみは、亡くした愛しい妻を追って根の国へと下った。

 けれどそこで見たのは、すでにその地のものを口にして根の国の女神となった妻の姿。

 妻と決別した彼は、根の国へとつづく道を千力ちりきでやっと動くかという大きな岩でふさいだ。

 禊によって生まれた御子に、身に着けていた剣と勾玉から生んだ四人の供人を授け地上の統治を託すと、高天白大御神は姿をかくした。

 今は遙か空の上、天つ国で地上を見守っているのだという。


「以来、大御神の直系の一族が古来より存在する神々に代わり中つ国を治め、供人たちの率いる四つの一族もそれに従った。今の都の大王おおきみは、直系の血筋で……東西南北にある宮は、四つの一族がそれぞれ代々守っているそうだ」

「そっか……そんな話だったんだ」


 山道を歩きながら、依はうなずいた。


「……本当に聞いたことがなかったのか? この中つ国で暮らしていて?」


 信じられないとでも言いたそうな狭雲の声。


「言われてみたら、聞いた記憶も……薄っすらと」


 社の巫女様の怖さに、半分以上は頭から吹っ飛んでいたけれど。呆れたように狭雲が面の向こうでため息をつく。

 北の宮のある、水分山みくまりやまに入ってもうずいぶん経つ。宮に向かう者のために人や馬の足で踏み固められている道とはいえ、乗ったままでは危険だからと途中から馬を引いて歩いてきた。


 狭雲の態度は、昨夜以降まったく変わっていなかった。少し柔らかくなったような気もするけれど、それは本当に微妙な変化で、気のせいかもしれない。

 朝なんて、前夜のことを気にして気まずさに黙っていた依を、空腹なのだろうと勘違いして干し飯を勧められた。

 相手がそんな態度だと、気にするのが馬鹿らしくなってしまう。それで依も、普通に接することにした。聞きたいことも、山ほどあったのだ。

 一つは、これから向かう北の宮について。あまりにもこれまで知らないことが多すぎたのだと改めて思い知った。そして、ほかにも。


「そういえば、狭雲はどうやって私を見つけたの?」


 探していたと聞いてから、ずっと疑問に思っていたこと。まるで初めから場所を知っていたようだった出会いを思い出す。宮の人間など、それこそ新役になる羽都彦以外に村で見たことはない。


「それは……ああ、ちょうど戻ったか」


 かすかに耳に届いたのは、笛のような音。空を見上げた狭雲につられて空を仰ぐと、そこに見覚えのある姿があった。

 黒く、円を描いて飛ぶその姿。


「あれは……村で見た」

佐久耶さくやだ。あれに探させた」


 そう言って狭雲が面の下に輪っかを作るようにした指を挿しいれる。澄んだ指笛の音。すると、それまで遥か上空で飛んでいたそれがすっとこちらへ向かい滑空する。


「え? うそ」


 言葉をこぼした時には、すぐそこにそれは迫っていた。両手を広げたよりは一回り小さい、けれど鋭い爪を持った。


「いやああっ」


 頭上すれすれをすり抜け、再び上空へ去っていく姿は、間違いなく鳶だった。

 もう少し低く飛んでいたなら、そう考えてぞっとする。

 けれど、対照的に隣から聞こえたかすかな声に眉を寄せる。ちらりと見ると、狭雲が面を押さえて肩を震わせていた。

 表情はわからないけれど、はっきりと断言できる。笑っているのだと。


「佐久耶は、人は襲わない」

「……狭雲って、そんな子どもみたいなこともするんだ」


 思わず頬を膨らませる。面のせいもあって、狭雲の歳はわかりにくい。そもそも人ではないと言われても納得できそうだ。十も上だと言われても、二つ三つ下だと聞いてもうなずけるかもしれない。今までの言動のせいで年上なのだと勝手に思っていたのだが、今の悪戯で一気に近いような気がしてきた。


「一つ下なだけのあなたに、そう言われるとはな……」

「一つって……狭雲、十七なの? それより、なんで私の歳――」

「着いたぞ……あれが、北の宮だ」


 なにかに気づいて前を向いた狭雲に、言葉を遮られる。

 依が前を向くと、前方に映ったのは立派な門。見張りらしい兵が二人立っている。

 門の向こうには、建物の屋根が見えた。

 北の宮。

 四つの一族の一つ、水分の一族が守る場所。神と民を結ぶ、希人の住むところ。

 いざ来てみると、あまりにもこれまでと違い過ぎる世界に足がすくんだ。


「どうした」


 立ち止まった依を振り返り、狭雲が問う。


「村に戻りたくなったか」


 そうそっけなく訊ねられて、依は首を横に振った。不安がないとは言えない。心は馴染んだあの村へと帰りたがっている。だけど、ここまで来たから。来ようと決めたから。


「私が五依姫なんかじゃないって、わかってもらわないと。それからじゃないと、村には戻れない」


 村がもう無事だとわかった以上、狭雲とここまで一緒に来た理由はそれだけだった。

 森で別れた羽都彦を思い出す。

 多くは語らず、二人を見送った姿。大人しく従ったのは、北の宮の意向だから。それも、自分が五依姫じゃないとわかれば、きっと元に戻る。また、あの日常が戻ってくるはずだ。

 決意はしたのに、一歩が重い。


「五依姫」

「……だから、私は五依姫じゃ――」


 呼びかけられてそう反論しかけた言葉が途切れる。狭雲が片手を差し出していたからだ。手のひらを下にして拳を握ったその中には、なにかを握っているようだった。

 狭雲を見上げるけれど、やはり表情は読めない。仕方なく手を出すと、手のひらへ落ちてきたのは親指くらいの大きさの勾玉だった。紐が通され、まるで桔梗の花のような深い青色をしている。


「これは……?」

「昔貰ったお守りだ。身を守る、らしい」


 しげしげと勾玉を眺めた依は、狭雲へ首を傾げた。


「貸してくれるの?」


 狭雲は小さくうなずく。


「返さなくていい」


 ぶっきらぼうな言葉。それでも、その中の優しさを感じ取れるまでにはなった。彼なりに、心配してくれたのだろう。


「ううん、ちゃんと返す。ありがとう」


 ぎゅっと握ると、勾玉はほんのりと温かかった。これまで、彼の身を守ってきたものなのだろう。勇気をもらったような気がした。

 依は、真正面の門を見据えた。門の脇には、人の頭ほどの大きさをした石が二つ積んである。村の前などによくある、境目のしるし。

 ここから先は、違う場所なのだという証。

 狭雲がくぐもった声で告げた。


「行こう。北の宮へ」

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