3 真澄の鏡

 北の宮にたどりついてからは、すべてがめまぐるしく過ぎていった。


「なんです、その汚らしい娘は」


 まず、到着早々年かさの従婢まかたちにそう顔をしかめられた。

 門を抜け、宮へ用事のある人びとが立ち入ることのできる庭を進んで、宮の者以外が足を踏み入れることはできない場所まで及んだときだ。

 見るかぎり依よりも幾分も年上だろう彼女は、勾玉の首飾りを身につけ、髷を結ってそこに櫛を挿していた。きちんと整えたその姿は、村の娘たちとは全く違う。

 汚らしい、という言葉に眉間を歪めた依は、自分の格好を見下ろした。麻の衣は新しいものじゃないとはいえ、ちゃんと着るたび丁寧に洗っている。村の女たちにムクロジの表皮をつぶして使えばきれいになると教えてもらってからは、それを使うときもある。もちろん、体も汚れてはいないつもりだ。


「宮を穢すつもりですか。まあまあ、そんな垢にまみれた足で」


 従婢は、まるで悪臭をこらえるかのように衣の袖を口元に当てる。大仰に眉をひそめられ、依はぐっと唇を噛んだ。言い返したくなるのを我慢して、大きく深呼吸する。

 大丈夫。このくらいのことは慣れている。

 羽都彦に言い寄ってくる、年若い娘たちや適齢期を過ぎてしまった女たち。そのなかには、やっかみで冷たい態度をとる者もいた。それにくらべれば、これくらいなんでもない。


 磨きぬかれた檜の床へ置いた足に、目を落とす。裳からのぞく、痩せた甲。視界に入った手指は、洗い物をするせいで荒れている。値踏みするような視線を向けてくる従婢は、年は重ねているものの、宮に仕えているという自信にあふれて見えた。いっぽう、自分はどうだろう。

 ここまで来る間も、すれ違う者たちにはどう映っていたのだろう。

 わかっていたはずなのに、自分がひどく場違いだと改めて感じる。肌に突き刺さる視線にも、首元から頬へかけて熱がせりあがっていくのを感じた。


 やっぱり、なにかの間違いだ。自分が、ここの住人であるはずがない。だって、一つとしてふさわしいと思えるようなところが見つけられない。

 依は、逃げだしてしまいたくなっていた。消えいってしまえるなら、どんなに楽だろう。

 と、広い背中が視界をふさいだ。狭雲だ。それまで黙っていた彼が動くと、女の顔が明らかにこわばった。


「な、なんです! 姫様がお許しになったからと言って……この真智まちは、お前が宮に入ること自体認めたつもりはありませんよ!」


 面の青年を恐れているのか、彼が一歩近寄ると相手は逆に半歩退いた。けれど、狭雲は意に介した様子はない。無遠慮に距離を縮め、表情を硬くしたままの真智になにごとか囁く。声が小さすぎて、内容は聞き取れなかった。だが、話している間中ちらちらと二人がこちらを見るため、自分の話をしているのだということはわかった。女の視線に含まれているのは、明らかな疑念と興味だ。

 居心地の悪い思いをしていると、真智が顔をあげる。どうやら話がついたらしい。


「……話はわかりました。お前の言葉は信じられませんが……姫様の指示であるなら、仕方ありませんね」


 息をついて、奥へと手を打ち鳴らす。


「ちょっと、誰か! 湯の支度を!」

「え?」


 呼ぶが早いか、数人の従婢が集まってくる。皆真智より若い娘だ。依は困惑した。まったく状況についていけない。どういうことなのかと狭雲を見るが、面の青年はなにも言わない。そのあいだにも、あれよあれよという間に腕をとられ引きずられる。あらがえないほどの力に首をめぐらせ後方を見ると、ここへ連れてきた張本人は先ほどと同じ場所に立ったまま依を見送っていた。まるで、自分の役目は終わったとでも言わんばかりに。


(そんな……)


 ずっと、狭雲もついて来るものだとばかり思っていた。急に心細くなる依を容赦なく現実に引き戻したのは、真智の声だった。


「まずは身なりを整えて。露草様にはその間にご報告を」


 てきぱきとほかの従婢へ指示をだす。それから依を一瞥して、なにかに気づいたように言葉を途切れさせた。まじまじと依の顔を見てなにかを考えていたようだが、すぐに何事もなかったかのように正面へ向き直る。


「あのあやかしの子の言葉を鵜呑みにするつもりはありませんが……あなたが真の五依姫であるかどうかは、私の決めることではないわ」


 苦々しいつぶやきに、目を瞬かせた。真の五依姫という言葉も気になったが、それよりも。


(妖の子……?)


 もう一度振り返ると、そこにはいまだ変わらずにこちらを見ている仮面の青年の姿。けれど依には、それが先ほどとは違って見えたような気がした。


   ***


「生きていると聞いた時は、夢を錯覚したのではと思ったが――」


 そこで一度言葉を途切れさせ、目の前の男はほんのかすかに眉を上げた。


「――なるほど。こうして見ると珠津姫様とよく似ている」


 低い声音が告げる。感情の読み取れないその声は、少しかすれて耳に心地いい。切れ長の目に通った鼻梁、薄い唇。獣の皮をなめしたものを敷いた床へ腰を下ろし、脇息に肘をつく姿はとても絵になる。背後に立つ屏風には、黒い竜が天へと上る様子が墨で描かれていた。まるで、彼がここの主人であるかのような風格を漂わせている。

 整った顔立ちのその人は、露草という名らしい。案内した従婢が、そう呼びかけていた。

 夏に咲く、鮮やかな青い花。月草とも呼ばれ、その鮮烈な青を染物に使うこともあるが、それと同時に咲いている時間自体が短いために儚さの象徴として詠われる植物。その花と同じ名前を持つ男の瞳には、見るものを凍えさせるような冷たさがあった。


「久しぶりに、磨きがいのある娘でしたわ」


 自信深げに真智が言う。自分の仕事に満足している顔だ。

 依は、胸を張る彼女を疲労感いっぱいに横目で睨むことしかできなかった。湯浴みでそこらじゅう擦られ、髪も嫌というほど梳かれた。痛みから、数本は抜けたにちがいない。

 まだ体のいたるところがひりひりと痛み、晴れやかな顔をしている真智が憎らしく見える。

 けれど、「ほら、あなたも見てごらんなさい」と鏡を向けられれば、そんな痛みも一瞬で吹き飛んでしまった。

 差し出されたのは、村では見たことのない美しい青銅の鏡。裏側には緻密な細工がほどこされている。


 そしてその鏡のなかには、着飾った娘が映っていた。夜闇のような瞳に、健康的で滑らかな肌。頬のあたりはほんのりと染まり、小さな唇も紅を差したようだ。頭の上で艶のある黒髪が二つの輪に結われ、残りは背に流されている。胸元には、管玉と勾玉が交互に通された首飾り。白い衣に身をつつみ、朱の領巾をまとっている。

 依が思わず口を開くと、鏡のなかの少女も口を開く。言葉に困って唇を引き結ぶと、鏡のなかの少女もそれにならった。


「……私?」

「ほかに、誰がいると言うんだ?」


 冷静な声は、露草のものだった。


「だ、だって……こんな」


 こんな風に、着飾ることなどなかった。憧れはあっても、食べるため生きるために働く生活には上等な衣も美しい装飾品もいらなかったから。ただ、歌垣にでる娘たちは髪に花を飾って、いつもと違う帯を締めた。歌をかわして甘やかな時間を過ごすのに、一番いい自分でいたいから。村の娘が着飾るのは、一生のうちにそんなときくらいだ。過保護すぎる兄がこの姿を見たら、きっと家から一歩も出してもらえなくなるだろう。

 と、衣擦れの音がして鏡から顔を上げる。すぐそこに、露草が立っていた。


「あなたが正しく五依姫であるかは、姫様が見ればすぐに知れることだ」


 見下ろすその目を見て、気づく。彼は、依のことなど見ていない。目線は確かにこちらを見ているが、依を通して別のなにかを見ているように感じられた。

 露草は、依の脇に控えていた真智へさがるように命じる。年かさの従婢は依から鏡を受け取り、音もさせず部屋を後にした。狭雲が相手のときとは、別人のようだった。


 真智の姿が見えなくなるのを確認して、露草が立ち上がった。数歩歩いて、肩越しに振り返る。その目が、ついてくるよう告げていた。

 依ははっとした。完全に、自分は五依姫ではないと言う機会を失った。あまりの変貌に、自分の姿のことにばかり気をとられてしまっていたのだ。

 慌てて立ち上がる。その拍子に裳裾を踏んで盛大に転んだ。

 恥ずかしさに真っ赤になった顔を上げると、露草と目があった。端正な顔は、にこりとも笑っていなかった。

 その顔を見て、意気込みが急速にしぼんでいくような気がした。


 こんな状態で、五依姫ではないといくら言ってもだめなのかもしれない。この人は、こちらの話をはなから聞く気がないのだから。

 誰も、依を見てはいない。ここにいるのは、五依姫であるはずの娘だ。それが真実か偽りか。決めるのは依ではなく、宮の人間なのだ。

 真智すらもついてこないことに不安はあった。それはきっと、露草の存在が大きいからだろう。何を考えているのか、まったくわからない。面をしていた狭雲のほうが、まだ感情が豊かだったと思えるほどに。思い出すのと同時に、無意識に袂へと入れた彼のお守りへ触れていた。冷たい石の感触。けれど、そこには勇気が宿っている。

 依はついて行くことにした。露草とともに行く間に、万に一でも誤解をとくことができるかもしれない。


 円柱が脇に並ぶ渡り廊を歩み導かれたのは、宮の一番奥にあたるだろう一室。それまで忙しそうに行きかっていた従婢の姿が、そこにはほとんどなかった。どうやら、人払いをされているらしい。

 それもそのはず。中央に帳の下ろされた天蓋があるところを見ると、ここは主の寝所のようだ。薄絹の帳の向こうで、だれかが起き上がる気配がする。


「……だぁれ……?」


 柔らかな声がした。

 途端に、依の心臓が強く跳ねた。

 四隅にある燭台に明かりを入れていないせいか、部屋のなかは薄暗い。露草に背を押されて、よろけるように帳の前へ進みでる。

 白い手が、ゆっくりと薄絹を割って出るのが見えた。帳をかきわける。

 早くなっていく鼓動を抑えようとする依の脳裏に、狭雲との会話が思い出された。


――そもそも、私を五依姫だと思う理由があるの?


 宮にたどりつく前に、訊ねたこと。あのとき、狭雲は答えあぐねているようだった。簡単な答えを知っているけれど、それを言うのはためらわれる。そんな感じだった。結局、だいぶ悩んだ後に彼はこう言ったのだ。


――見ればわかる。


 そのときは、嘘だと思った。見てわかるわけがない。

 だけどそれと同時に、そんなあいまいな根拠なら、簡単に勘違いだと証明できると思った。

 そう、ここに来るまでは思っていた。

 だけど。

 薄絹の向こうから現れた少女を前にして、依は凍りついたまま動けなかった。

 先ほど見たばかりの鏡から抜け出したかのような、その姿。自分と同じ顔をした少女が、そこにいた。

 無意識に後ずさる依の肩を、露草が掴む。


「姫様、お連れしました」


 告げる声に感情はない。けれど、うやうやしく呼びかけるその口調は、依やほかの人間に対してとは明らかに違う。

 少女の夢を見ているような瞳が、依を中心に焦点を結ぶ。と、その顔が泣きそうに歪む。鼓動が早くなっていく。息をすることさえ、難しい。

 小さな唇が開く。


「姉さま」

「……っ」


 伸ばされた細い手。その姿がなにかと重なる。

 幼い少女。姉さまと呼ぶ声。大切な。

 思わず依は露草を振り切って逃げていた。彼も今度は止めなかった。

 部屋を駆けだす。絡げることなく、裳裾を蹴飛ばすようにして走る。どこへ向かっているのかわからない。どうしたいのかもわからない。

 わからないけど、あの場にはいられなかった。


「珠津姫様?」

「姫様、どちらへ」


 出口へ向かう依を、ぎょっとした従婢たちが腕を伸ばして止めようとする。彼女たちが口にしたのは、聞きたくない名前。髪が乱れるのも気にせず頭を振る。


「違う!」


 否定する声が悲鳴のようだった。両側から腕をとられる。


「どこへ行くおつもりです」


 凛とした真智の声。けれど、その言葉遣いは今までと違う丁寧なものだった。それはきっと、彼が依を認めたから。けれど、その声はやけに冷ややかに聞こえた。


「五依姫様」

「違う」


 首を横に振る。今度の否定は声が震えた。


「私はただの依よ、五依姫なんかじゃない!」

「いいえ。あなたは水分一族の姫、五依姫様です」


 冷静に答える真智の態度に、唇を噛む。

 腕を振り上げると、びくりと従婢が身をすくめた。その隙をついて手から逃れる。真智の叫びが聞こえる。けれど止まらない。

 駆けて駆けて駆けて。

 頭のなかを、いくつもの情景と言葉が過ぎていく。


――おいで。


 孤独と絶望のなか、優しく手を差し伸べてくれた父。


――俺は父さんから、なにがあっても依を守るように言われたんだ。


 そんな父から、志を継いだ兄。

 温かかったけれど、どうしても溝を感じずにはいられなかった家族たち。

 帰りたい。戻りたい。

 どこへ、と心の内で自分が問いかける。

 視界が歪む。

 慣れない衣装で足がもつれた。床へ倒れこむ。

 痛みでますます涙がにじんだ。それでも、気持ちは晴れずに握った拳を思い切り床板に打ち付けた。板は硬く、たわむこともない。一方叩いた手はじんじんと痛む。

 なにが本当なのかわからない。

 どうすればいいのかもわからない。

 だけど、一番わからないのは。


「なにをやっているんだ」


 くぐもった声が落ちてきた。目の前の床に影ができる。

 見上げると、そこには表情のない仮面。

 その姿を見た途端、あふれる感情をおさえきれなくなっていた。

 あえぐように言う。


「私は……誰……?」


 涙が、頬を流れる。

 なにもかもがわからない。

 けれど一つだけわかるのは、これまでの日常にはもう戻れないだろうということ。

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