二章

1 狭雲

「もうすぐ、日が落ちる。今日はこの近くで夜を明かそう」


 背後から、低い声が告げた。金色の尾花おばなの繁る野辺を抜け、今は小高い丘にさしかかったところだ。二人で乗っていることもあって、馬の駆ける速度はゆっくりだった。それでも、集落からはすでに遠く離れ、来た道も覚えてはいない。


 依は言葉もなくうつむいたままだった。狭雲の言葉は耳に入っているものの、心はどこか別の場所をさまよっているかのようだ。

 狭雲は、無理に反応を引き出そうとはしなかった。沈黙が再び二人の間におりると、耳に届くのは蹄の音と、髪を揺らし頬をなぶる風の音だけになる。

 けれど、そんな周りの音も次第に薄れ、頭の中に甦るのは森のなかでのやりとりだった。


――待て。北の宮の者だと言うが、私はお前のことなど聞いたことがないぞ。


 予期せぬ相手へと真っ先に意見したのは、当然ながら羽都彦だった。

 相手も羽都彦の存在は知らなかったのか、窺うような視線を向けるだけでなにも言わない。


――俺は出水の須見彦すみひこの後を引き継ぎ、五人衆の新役を務める者だ。


 羽都彦の名乗りにも、相手は特に驚いた様子はない。もしも彼が口にした言葉に偽りがあったなら、狼狽えてもよさそうなものなのに。


――……なるほど。次の新役の話は聞いていたが……こんな場所で会うとはな。


 意味ありげな言葉に、依は思わず羽都彦を見た。羽都彦はずっと渋面をつくったままだ。その瞳には、ありありと相手への不審な感情が浮かんでいた。


――答えてもらおう。なぜ依を探していたのか。


 川辺で娘たちを怯えさせた時とは違う。今は笑顔すら浮かべていない。それなのに、青年は少しも臆した様子はない。


――あいにく、俺はお前たちのように直接北の宮に仕えているわけではない。知りたくば、珠津姫に訊ねることだ。


――なんだと……?


 羽都彦の眉間に刻まれた皺が、より深くなる。


――珠津姫様にまみえることができるのは、宮でも限られた者だけ。五人衆でも、年役しかお会いできない。なぜ五人衆でもないお前が……!


――全ては珠津姫の意向。俺は、その娘を見つけだし、宮へと導くためにここへ来た。


 それ以上の一切の問いを封じるような、淡々とした台詞。口を開きかける羽都彦を無視し、狭雲は状況が掴めず取り残されていた依へ視線を移す。


――もしも、村へ戻ろうというつもりなら、やめておけ。あなたが行っても、なににもならない。


 いまだ戻ることをあきらめてはいなかった依に、こともなげに彼はそう告げた。


――お前、村のことも知って……!


 瞠目する羽都彦へ、相手はうなずく。仮面で表情は一切わからないものの、その態度はどこまでも落ち着いていた。


――で、でも……っ私にも、きっと何か……。


――何か、できることがあるかもしれない……と?


 仮面の切れ長の穴から、ちらりと彼の瞳が見えた気がした。


――それは、驕りだ。


 底冷えのするような凍てつく瞳だった。一瞬なにを言われたのかわからず、理解した途端かっと頬が熱くなる。無駄だ、と言われたのだ。そして、戻ろうとするのはただの己の自己満足にすぎないと。次の瞬間、依は思わず手をあげていた。

 触れたのは、硬質な面の感触。

 我に返った時には、もう叩いた後だった。謝ろうと開いた唇が、戸惑い、閉じる。


――……仮面を叩いても、あなたの手が痛むだけだろう。


 わずかにずれた面を戻して、狭雲はそれだけ言った。仮面の奥の表情は、見えないまま。そこには、怒りも呆れもなにも見えなかった。


 いまだ不信感はぬぐえなかったものの、いつ賊たちに気づかれるかわからない今はそれが一番安全だと考えたのだろう。渋々といった様子の羽都彦にも促され、後ろ髪をひかれる思いをしながらも結局依は狭雲とともにその地を離れた。

 馬の背に揺られて、もう随分経つ。宮に行くのなら、やがて会えるから心配はいらないと笑った兄は、今どうしているだろう。


 ふと、そこで景色が変わらないことに気づく。いつの間にか馬は立ち止まっていた。丘を上りきったのだろう。見上げれば、木々の隙間からのぞく赤く色づいた空が近い気がする。

 先に下りた狭雲が、依へと手をさしのべる。後ろに長く伸びた影が、夕日をうけてほんのりと赤みがかっている。素直にその手をとれずにいると、それをどうとらえたのか、傍らに立たれ、ひょいと抱きあげられた。


「なっ……!」


 まったく予想もしていなかったことに、目を見開く。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。けれど、そんな依の様子に狭雲は気づいていないようだった。依を地面へと下ろすと、すぐに火を起こす準備にかかる。完全に、荷物と同じあつかいだ。


 文句が口をついてでそうになったとき、小枝を集める青年の腕が目に入った。しっかりとした大きな手には、古い傷跡がいくつも見える。武器を手に戦うことがあれば傷がつくことも納得できるが、それだけの傷なのだろうか。


「狭雲……さん、は……人を探すのが仕事なの……?」


 ふと、口から零れたのはそんな問い。


「違う。それに、俺にさんはいらない」


 返ってきたのは、短い言葉。こちらを見もしない。けれど、依にはその答えで十分だった。宮に仕えているわけでもなく、人探しを請け負っているわけでもない。

 これまでの日常にはいなかった、不思議な存在。

 きっと、彼は戦った経験があるのだろう。相手は人か、それ以外のなにかか。それは、彼にとっての大事なものを守るためのものだったのかもしれない。あの傷は、そうしてできたものなのかもしれない。それで、十分だ。

 手のひらに視線を落とす。そこには、まだ打ったときの感触が薄っすらと残っている。叩いた理由は、自分でも嫌というほどわかっていた。


「あのね……狭雲の言ったとおり、私は自分がなにもできないのをわかってる」


 ぽつりとつぶやく。狭雲は顔を上げない。


「力はないし、機転がきくわけじゃない。兄さんに迷惑かけてばかりだったし……だけど」


 視界が歪んで、狭雲の面をつけた横顔がにじむ。


「それでも、大切な人たちの役にたちたいって思うのは止められない……」


 たとえば、それが他の人にすれば無駄なことだったとしても。

 途方もなく、馬鹿な考えだとしても。


「それにね、これでも人より足には自信があるのよ? 運もあるし……悪運、だけど」


 笑って言うと、黙っていた狭雲がふいに立ち上がった。夕日に照らされ、仮面に影ができる。目のあたりに切れ長の穴があるだけだった面に、初めて表情があるように見えた。少しだけ、笑った気がしたのだ。

 なぜそう思ったのか、わからない。面の向こうの瞳が僅かに細められたように見えたからかもしれない。けれど、歩き出した狭雲が振り返ると、ついて来いと言われているように思った。


 先導されるままに木々の間を縫って歩く。闇が忍び寄っても、依は怖くはなかった。歩調を合わせてくれているらしい狭雲が、何度も振り返り、追いつくまで待っていてくれたからだ。

 やがて、視界が急に開けた。


「わ……」


 広がるのは、星を一か所に集めて振りまいたような空。遮るものはなに一つなく、まるで夜空の中に立っているかのようだった。美しい星々のきらめきは、見つめているとなぜだか依を無性に寂しくさせた。


「あの辺りが、あなたのいた村だ」


 狭雲の声がして、ほっとする。示された方向を見ると、遠くに小さな灯がいくつか寄り添いあうように集まって見えた。生活の明かりだ。略奪で家々が燃やされているようには見えない。


「……無事なの……? あの場所は、村は……なくなってないの……?」


 声が震えた。狭雲がうなずく。 


「言ったはずだ。あなたが行っても、なににもならないと。あの時にはすでに、宮の兵が向かっていたから」


「だったらどうして……そう言ってくれなかったの?」


 そうすれば、あんな風に口論することも、彼を叩くこともなかった。


「全てが無事で助かると、約束はできなかったから」


 変わらない口調。だけど、そこに彼なりの偽らない誠実さを感じた気がした。


「……さ、くも……」


 言葉が、変に途切れる。素直に謝罪できない。一言、叩いてごめんと言うだけなのに。


「叩いたところ、痛かった……?」


 口にだしたのは、違う言葉。


「痛かったのは、叩いたあなたの手だろう」


 そっけない言葉も、今までと受ける印象が違って聞こえる。

 確かに、叩いた手は痛かった。思いきり人を叩くなんて数えるほどもしたことがなかったからなおさらに。

 だけど、今は手よりも痛い場所がある。


「……ごめんなさい」


 小さく、つぶやいた。狭雲の耳に届いたのかどうかはわからない。


「大切な人の役にたちたい……と」


 ぽつりと、相手が零す。


「自分にはなにもできなくても、それでも守りたいんだと……昔、同じことを俺に言った人がいる」


 空を見上げ、独り言のように狭雲は言う。面越しの彼の目には、この星空はどんな風に映っているのだろう。


「その人は、今は……?」


 訊ねた後で、依は後悔した。

 星の散らばる空を背に、ゆっくりとこちらを見た狭雲は告げる。無理に感情を押し殺したような声で。


「死んだ。人の役にたとうとして……戦のなかで」

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