3 我(あ)が待つ君
一頭の馬が、木々の間を駆け抜けていく。黒みがかった毛並みの、美しい馬だ。
背に乗る人物は、過ぎ去る周りの景色になど一切関心がないようだった。木の葉を蹴散らし、倒れた木を軽やかに飛びこえ走り抜けていく。一つにまとめた長い髪が、振動に合わせて大きく跳ねた。
ふいに、視界を遮るものがなくなった。開けた場所にでたのだ。小高い丘らしいそこからは、周辺の景色が一望できる。鬱蒼と広がる森のなかに、ぽつりぽつりと集落が見える。その一つから、黒い煙があがっていた。
馬を止め、なだめるとその人は空を見上げる。青く澄んだそこに、円を描く目当ての姿を見つけてぐっと手綱を握る手に力がこもる。
「見つけたか……」
くぐもった声が、そうつぶやいた。
***
「なに……あれ……」
依は、目の前の光景に呆然とつぶやいた。すぐに羽都彦が人差し指を唇に当てる。
「しっ……依、姿勢を低くして」
言われるままに、繁みのなかに身を隠す。
「兄さん、あの人たちはいったい……」
村のなかを忙しなく歩き回る、粗野な格好の男たち。ある家は黒い煙をあげ、ある家では男に捕まえられた娘が泣いている。収穫を終えたばかりの米が運ばれていき、倒れている者の姿も見える。
一通りその様子を見て顔を歪めた羽都彦が、苦々しげに言葉をこぼす。
「たぶん、大蛇だ」
「えっ……!」
「宮で聞いたんだ、つい先日、大蛇の頭が都で捕えられたって。そのせいで、各地の郎党の統制がとれなくなっているらしい」
泣きわめく子どもを抱きしめ、なんとか大人しくさせようとする母親の姿。苛立たしげに、男たちの一人が母親を怒鳴る。娘を連れて行かれそうになって、抗った父親が蹴り倒される。
「そうでもないと、ここまでひどくなることはない……」
依には信じられなかった。村の娘から聞いた大蛇の話と今の目の前の光景は、どうやっても結びつかない。
大蛇にあこがれているという娘の話には、こんな一方的な強奪のことはなかった。これが、彼女の言っていた大蛇とは考えたくない。
けれど、そんな思いと反対に視界の隅に入ったのは、地へと突き立てられた白羽の矢。
まだなにかを探しているらしい様子に、音をたてないように注意をはらいながら羽都彦が森を示す。
「とりあえず、今は逃げよう」
「でも……っ」
「ここで俺たちが出て行っても、捕まるだけだろう?」
羽都彦の淡々とした言葉に、依はなにも言えずにうつむいた。確かに、その通りだからだ。
「大蛇の話はほかの五人衆の方たちも知っていて、警戒している。あの煙にも宮の人間が気づいているかもしれない。もしそうなら、助かる可能性は高い」
依を安心させようとするかのような言葉。確証はない。けれど、それを今は信じるしかないのかもしれない。
「……俺は父さんから、なにがあっても依を守るように言われたんだ。だから、力づくでもここから連れ出すよ」
口調は優しいのに、有無を言わさない言葉だった。村の様子をもう一度振り返り、唇を噛んだ依はやっと小さく頷いた。
「こっちだ」
羽都彦の声に導かれ、手をとりあって森のなかを駆ける。
盗賊たちは何人いるのかわからない。けれど、声が聞こえただけでも五人以上はいるはずだ。その全員が、今にも痕跡を見つけて自分たちを探しているかもしれない。そう考えただけで恐ろしくなった。
どこまで逃げれば助かるのかもわからない。森はどこまでも深く、果てがないようにも見える。
奥までわけいると、自分が今どこを走っているのかすらわからなくなってくる。周りに見えるのは木と緑ばかり。それが、今この場には羽都彦と依の二人しかいないことを余計にはっきりと意識させた。
走っている最中、依の脳裏に浮かぶのは、村人たちの姿だった。
歌垣にでることを夢見ていた娘。羽都彦の妻になりたがっていた娘。厳しいけれど、まっすぐで誠実な長。皆、祭りを楽しみにしていた。歌垣を楽しみにしていた。
考えたとたん、走る速度が落ちた。羽都彦が心配そうな顔を向ける。
「依?」
「やっぱりだめ……。私、逃げるなんてできない」
「なにを言って……っ」
眉を上げる兄へ、依は握っていた手を離した。
「兄さんは逃げて、助けを呼んで。私は村に――」
「だめだ」
ぴしゃりとはねつけられ、奥歯を噛みしめる。こうしている間にも、誰かが傷つけられているかもしれない。なににもならなくても、誰かが傷つけられるのをほんの少しでも止められるかもしれない。だけど、そんな考えを口にしたら反対されるに決まっている。
じれたように羽都彦が強引に手首をとった、そのときだった。
なにかが、急速に近づいてくるのを感じた。
落ち葉を踏みしめる蹄の音と、木々のざわめき。
いななきとともに、一頭の黒鹿毛の馬が飛び出してきた。木漏れ日の光に、きらきらと馬の黒みがかった毛がきらめく。思わず呆けた依は、馬の背に誰かが乗っているのに気づいて身を硬くした。険しい表情を浮かべた羽都彦が叫ぶ。
「何者だ! ここを
手綱を引いて、たたらを踏む馬を落ち着かせた相手は、馬上から冷静な口調で答える。
「出水の
「なにっ」
羽都彦の表情がますます険しくなる。北の宮は、まさしく兄が五人衆を務める場所。そんな彼でも知らない相手だったようだ。
さっと馬の背から降りたのは、青年だった。いや、正しく青年かどうかはわからない。服は衣と袴で、脛のあたりを紐で絞った足結の形になっているが、艶やかな黒髪は
その人は、顔全体を覆うように面をつけていた。
「やっと、見つけた」
依へと手をさしのべ、面によって僅かにくぐもった声で狭雲は言う。
「あなたを探していた。俺とともに来てもらおう……
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