2 物を思はず

 村の集落を抜ければ、あとは深い森が広がるばかりだった。葉のところどころ色づいた木々の間を進むと、一歩踏み出すごとに乾いた音が響く。飛び立つ鳥の羽音。木漏れ日が、地面に積もった落ち葉の上にまだらの模様をつくっている。


 たどりついたのは、古い小さなほこら。石造りで、今は誰も参るものがいないこと以外は、いつからそこにあるのかも、なんの神様が祀られているのかもわからない。忘れられ打ち捨てられていたものを、依が見つけ、こっそりと手入れを続けていたのだ。

 祠の屋根に乗った枯葉を払って、前に座りこむ。


「……兄さんと、喧嘩しちゃった」


 乱れた髪をかきあげ、ぽつりとつぶやく。拍子に、挿してもらった山萩の花が地面へ落ちた。拾いあげて、ため息をつく。


「私……なんであんなこと……」


「アンナコト?」


 明るい声がごく近い距離で聞こえた。途端に、周りの音が一切に消える。ふわりと依を包みこむように風が起こり、巻き上げられた木の葉がひらひらと宙を舞う。それはまるで、鮮やかな葉を衣に縫い付けた秋の女神が風とたわむれているかのようだった。

 依は、どこか暖かさを感じるその風に驚きはしなかった。


「ヨリは、ケンカしたの? ケンカは、いけないこと?」


 ささやくようにひそやかな声。けれど、どこにも声の主の姿は見えない。辺りの様子はすでに風が吹く前の状態で、鳥の声と虫の声も戻ってくる。


「……そうね。いけないこと。悲しいこと、かな……」


 答える声音は、沈んでいた。


「ヨリは、かなしい?」


 無邪気に問いかけられ、すぐには答えることができなかった。

 悲しいのかと聞かれれば、確かに悲しいのかもしれない。今まで喧嘩など一度もしたことはなかったし、羽都彦の驚いた顔が目に焼きついて離れない。


「悲しいのと……少し、自分に腹もたってる」


 あんなことを言うつもりはなかったのに。

 ぎゅっと膝を抱えて、依は水面に映っていた自分の姿を思い出す。

 癖のない髪、肉のない薄い体。不器量ではないつもりだけれど、華やかな美人というわけでもない。ただ一つはっきりと言えるのは、羽都彦と似ていないということだけ。


「……当然なんだけどね」


「なにが、当然なんだい?」


 耳に届いたのは、先ほどまでの声とまったく違うもの。振り返ると、そこに羽都彦が立っていた。今まであった気配も消えている。


「まったく……いつの間にこんな場所を見つけていたんだか」


 辺りを見回し呆れたようにつぶやく兄の姿は、どこか昔にも見た覚えがあった。


「本当に、依は秘密の場所を見つける名人だね」


 そう言ってさしだされた手に、やっとどこで見たのかを思い出す。


――不思議なものの話は、全部俺が聞いてあげる。だから、誰にも言ってはいけないよ。


 幼いころから気配を感じてきた、人ではない者たち。彼らの話をすると、村の人々は決まって依を嘘つきと呼ぶか、畏怖の対象にした。自分たちに聞こえないものを依が聞こえると言うと、子どもたちは一緒に遊んでくれなくなった。

 そんなとき、森のなかで隠れて泣いていた依を見つけるのは、いつも羽都彦だった。


「兄さんは、父さんに似てるわ」


 差し出された手をとり立ち上がりながら、依は言葉をこぼす。


「自分の子どもでもない子を拾って育てた父さんと、自分の妹でもない子の面倒をみた兄さん。二人とも優しくて、似てると思う」


 けれど、自分はその二人に少しも似ていない。


(せめて、一つでも似ている部分があったなら……)


 そう思って、やっと胸のわだかまりの正体がわかった。


(悲しいのと、腹がたつのと……そして、寂しいの)


 手をとりあって野を駆けたころとは勝手が違うことくらい、すでにわかっているつもりだった。

 北の宮は、山深い場所にあるという。羽都彦の入る五人衆は、長老の年役から若い新役までの五人からなる。年役ほどの権限はなくとも、新役だって宮の神事を行ったり、神の声を聞く希人と民を繋いだりする大事な役目だ。宮へ行けば、次はいつ戻れるのかわからない。


「……落ちてしまったようだね」


 それまで黙っていた羽都彦の声に、我に返る。手元に向けた視線をたどると、山萩の花を握ったままだった。


「今度は、茜で染めた結い紐をお土産にしよう」


 顔を上げると、見慣れた羽都彦の笑顔にいきあたる。 


「それなら、少しは大人のあつかいに入るかい?」


 その言葉に、依は泣きそうになってくしゃりと顔を歪ませた。優しく頭をなでられる。


「そんな顔をしないで。歌垣もなにもかも、ゆっくりでいいんだ。中つ国一のくはに見初められたなら、きっとその男は、中つ国一の幸せ者になる」


 冗談交じりの言葉と違い、その笑顔はどこか寂しげにも見えた。その笑顔に、胸が詰まってたまらなくなった。


「……ごめんなさい」


 依の言葉に、兄はゆっくりと首を横に振った。


「謝らなくていい。こんな時がいつか来るだろうことは、ずっと前からわかっていたんだ。それこそ、叔父上が亡くなって、五人衆の座が一つ空いた時から」


 羽都彦の父、そして叔父が守ってきた五人衆の役目を、彼が引き継ぐのは当然の流れだった。十四か五のころの羽都彦自身にも、すぐに察することができるほどに。


「ずっとこのままに、なんてことは思っていないんだ。時の流れには逆らえない。けれど、約束してくれるかい? いつか依が選んだ幸せ者の名を、必ず俺にも教えてくれると」


 溢れる涙をぬぐって、依は頷いた。


「それじゃあ、村へ戻ろうか。祭りの準備に遅れたら、長たちにまた叱られる」


 苦々しいつぶやきに、依が怪訝そうに首を傾げる。気づいた羽都彦は、ため息をついて言った。


「早馬を使って宮を出てきたことを、叱られたばかりなんだ」


 その様子が、昔二人で悪戯をして叱られた後のばつがわるそうな姿そのままで、思わず依は笑っていた。

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