一章

1 祭りの支度

――かわいそうに。


 だれかが言った。

 夢で深い森のなかに立ちつくすよりは、いつも小さな子どもの姿だった。めざす場所もなく、水で濡れそぼった体を抱きしめるようにして、ただそこにたたずんでいる。


 声の主は、もう一度同じ台詞を繰り返した。言葉を返したいのに、なぜだか、声がでない。それどころか、まるでこの世で一番の恐怖に出会ったあとのように歯の根があわず、膝が震えて立っているのさえやっとの状態だった。

 だれかの名前を呼ぼうとして、でもそれができなくて何度も何度もしゃくりあげる。

 やさしく頭をなでられて、堰を切ったように頬へ熱いものが流れ落ちていった。


――おいで。


   ***


「それでね。こう言ったそうよ。『この娘は命を落とす』って!」


「えー」


「やだー!」


 集まった娘たちのにぎやかな声に、依ははっと我にかえった。その拍子に持っていた器が傾ぐ。割れ米の粒がこぼれたのを見て、脱穀作業をしていた娘の眉が寄る。


「ちょっと、なにやってんのよ!」


「ご、ごめん……」


「これは大事なお酒の元なんだからね! ……ここはいいから、あんたはあっち手伝って」


 示されたほうを見ると、離れたところで数人の娘が染め上げた帯などを川の水にさらして洗っている。色とりどりの布は、集めた植物で染めたおかげでどれも優しい色をしている。肩を落としそちらへむかう依の耳に、娘たちのささやきが届いた。


「本当、あの子ったら最近ぼんやりしてばっかり」


「気もそぞろって感じよね。祭りの準備にまで影響されちゃたまんないわ」


「やけにやる気だけど、あんたのは歌垣うたがき目当てでしょ」


「あら、人のこと言える?」


「……言えないけど。でも、歌垣といえば羽都彦はつひこは参加しないみたいね」


 ふと聞こえた馴染みのある名前に、思わず足がとまる。娘たちが口々に落胆の声をあげるのが聞こえた。


「そうなの? まさか、父親のかわりに自分があの子の面倒をみないといけないから……なんて、思ってるんじゃないでしょうね」


 あの子、というのが自分のことだとすぐにわかった。立ちつくしていると、聞こえよがしなのか、先ほどよりやや声量を上げて隣の娘が笑う。


「羽都彦ならありそうよねぇ。せっかく宮の五人衆ごにんしゅう新役しんやくに決まったっていうのに。妻もめとらずにどうするのかしら」


「二人で一生暮らしたり?」


「そんなのダメよ。ってことで……あたし、今度の歌垣にあの子誘ったのよ」


「えーっそうなの? あ、でもそうか……あの子が誰かと一緒になってくれたら」


「あたしにも、羽都彦と妹背の仲になれる機会が――」


「なーに言ってんのよ。羽都彦があんたなんかに妻問つまどいの歌をくれるわけないでしょ?」


 どっとおこる笑い。かわされる会話に、ぐっと依は奥歯を噛みしめた。


(……そうだ。今は祭りの準備をしないといけない大事なときなんだから。しっかりしないと)


 作物の収穫を祝い、次の年の実りを願う祭り。遠い宮では、それだけでなくこの国に住まう人々の穢れを巫女姫が祓い、安寧を祈ってくれるのだそうだ。

 何より娘たちが気になっているのはその前にある歌垣だったが、今は準備に気を引き締めてのぞむべきだ。

 そう気合を入れなおして空を見上げる。

 澄んだ青い空は、立ち並ぶ高床の家やその奥の森、そびえる山々の向こう側までつづいている。雲一つない、いい天気だ。

 ふと、その空に小さな黒い影が弧を描いたように見えた。


「あれは……」


「夢見が悪かったからって、いつまでぼんやりしてんの! さっさと準備終わらせるわよ!」


 後ろからぽんと肩を叩かれ、依は飛び上がりそうになるのをなんとかこらえた。布を水にさらしていた娘の一人が、染め上げられたばかりの帯や領巾がうず高く積まれた山を指さす。


「ここから一枚とって。これだけ天気がよければ、昼すぎには乾くでしょ」


 せかされ、依が手にした領巾は、山吹の花の色をしていた。

 水際に屈みこむと、足元に小さな赤い犬蓼いぬたでがあるのに気づく。踏みつけないように脇へと避けて水の中へ手をさしいれた。冷たい秋の川の水は、心を落ち着けるのにちょうどいい。


「ねぇ、聞いた? 宮の珠津姫たまつひめ様の妻問いの話」


 ふいに、朱色の帯を水にさらす娘が口をひらく。すると、同じ作業にあきていたのかすぐに別の娘がうなずいた。


「聞いた聞いた。噂では、美しく成長されたおかげで近隣の国から妻問いの話が絶えないとか」


「あたしも知ってる! 都の夜稚王よわかのおおきみ様とか南の宮の耀彦かがひこ様とか」


「依も知ってるでしょ?」


 突然話をふられて、依は驚いて手をとめた。とたんに流されそうになる領巾を引き寄せ首を横に振る。


「う、ううん……。珠津姫様って、お若いかただって聞いたけど……もうそんな話がきてるの?」


 問いに、呆れたような息をついて、朱色の帯の娘が言う。


「なに言ってんのよ。珠津姫様だって、私たちとおなじくらいのお歳だって聞いたわよ」


「そうそう。だからあたしたちだって、次の歌垣にかけてるんじゃない!」


「はぁ……でも、耀彦様、あたしも少し期待してたのにな~……珠津姫様とじゃ勝ち目がないわ」


「あんた、そんな夢見てたの? 無理むり、耀彦様は都にも通う姫がいるらしいし、羽都彦より競争率が高いんだから。さっさとあきらめなさい」


「はあ……本当、雲の上の話よねぇ」


 色とりどりの布が、娘たちの口から漏れるため息に呼応するように水面に浮かんでは沈む。噂話に花をさかせながらも、娘たちの手は馴れた様子で衣を水にさらしていく。


「けど、それだけ噂になってるようなら……心配よね」


 それまで黙っていた浅葱の領巾を手にした娘が、ぽつりとつぶやく。


「ああ……」


大蛇おろちね」


 依以外の娘たちのなかで数人が、苦々しい表情でうなずく。けれど、依にはその話題になっているものがさっぱりわからなかった。


「大蛇って……?」


「それも知らないの? まったく……羽都彦は、外の情報を全然教えてないみたいね」


「ご、ごめん……」


 ため息まじりの言葉に、思わず謝ってしまう。そんな依の様子に、渋面を作っていた娘はくすりと笑った。


「いいわよ。羽都彦の過保護ぶりなんて、今にはじまったことじゃないんだから」


「そうそう。きっと次の歌垣に依がでることを知ったら、大反対するに決まってるし」


「よかったわよねー、ちょうど宮にでてる時で。このままじゃ一生夫を迎えられないわよ」


 散々な言われようだが、兄がわりの青年を思い浮かべた依には言い返すことができなかった。確かに、思い当たる節が多々あったからだ。


「それで、大蛇のことだけど……」


「ああ、そうだったわね。大蛇ってのは、昔からこの中つ国にいる盗賊の一団の名前よ。どこにでも現れて、金品や美しい娘をさらうらしいの」


 朱色の帯を手にした娘の言葉に、苦い表情を浮かべなかった数人の娘が夢を見るように宙を見上げた。


「噂では、大蛇の頭はすっごい美男子らしいのよねぇ」


 すぐに、隣の娘がきつく眉を寄せ肘で小突く。


「盗賊に憧れるなんて、悪趣味だわ」


「そうよ、玉津姫様が狙われでもしたら大変よ」


「そんなことあるわけないじゃない。大蛇は、豊かな者からしか盗らないんだから! 噂では金品は貧しい人たちに分け与えているっていうし」


「そうそう! それにさらわれたっていう娘たちだって、皆望まない妻問いの話がきてた娘だっていうし……大蛇は私たちの味方なの! 想像でくらい、白羽の矢を待ったっていいでしょう?」


「白羽の、矢……?」


 復唱すると、すねたように唇をとがらせていた娘が頷く。


「大蛇はね、自分たちがやった証拠に白羽の矢を残していくそうなの。だから、白羽の矢は大蛇の象徴になってるのよ」


「そうなんだ……全然知らなかった」


「宮に行くってのに、羽都彦は生活する方法以外本当に教えてないみたいねぇ。大蛇なら、先々代の村長の、そのまた前の代にもいたらしいのに」


「大蛇って、そんなに昔からいるの?」


 目を瞬かせる依に、裳の裾をたくしあげ布を踏み洗いしていた娘が足を止める。


「社の巫女様に、国を作った高天白大御神たかあめのしらのおおみかみ様の話は聞いたわよね?」


「う、うん……だいぶ昔だけど」


 頷きながらも、あやふやな部分が多かったことを思い出す。高天白大御神。それは、この中つ国をつくったと伝えられている神様の名前だ。熱のこもったまなざしで神々の活躍を語る巫女の姿は、鬼気迫るものさえ感じて恐ろしかったのを覚えている。


「その高天白大御神様が根の国から戻られたときに、みそぎで落とした穢れから成った神が大蛇の頭の祖霊だって噂よ」


「……へ、へぇ……」


「へぇ、じゃないわよ! へぇ、じゃ」


「依、あなたもしかして根の国の話聞いてなかったんじゃないでしょうね?」


 図星をさされ黙っていると、一番年かさの娘がこめかみに手をあてて息をついた。


「……呆れを通り越して尊敬するわ。あの巫女様の話を受け流せるなんて」


「まったくだね」


「!」


 ふいに混じった耳に馴染みのある低い声。驚いた拍子に湿った土に足がすべり、依は今度こそ領巾を流しそうになってしまった。聞こえたのが、ここにいるはずのない人物の声だったからだ。

 力強い手に腕をとられ、すんでのところで川に落ちるのを踏みとどまる。布を地面へと引き上げ、恐る恐る振り返れば、そこにあったのはやはり予想した通りの姿。


「兄さん……どうして」


「ただいま、依」


 下がった目じりと、優しげな笑顔。先ほど話題にのぼったばかりの羽都彦が、そこに立っていた。

 途端に、娘たちが色めき立つ。喪裾を持ち上げていた娘は岸へ上がって慌ててそれを正し、米を砕いていた娘たちも歩み寄ってくる。仕事は黙々とこなしながらも人当たりのいい羽都彦は、村の女たちから「妻にめとられる娘は村一番の幸せ者」と囁かれる存在だ。けれど、彼自身はそんな評価など気にもとめていない。


「ほら、帰りに咲いていたから摘んできたんだ。依に見せようと思って」


 羽都彦の差し出した手には、山萩の花が握られていた。紫がかった小さな薄紅の花は、蝶がとまって羽を休めている姿に似た形をしている。一本の茎についた花は数えるほどだが、それでも十分に目を引く。


「きれい……。これをわざわざ?」


「似合うだろうと思って。そのまま動かないで」


 言葉とともに、羽都彦の指が髪に触れる気配がした。思わず跳ねる鼓動を気にしないようにしながら、恥ずかしくなって依は地面に目をおとした。時折、羽都彦の冷たい指が頬をかすめる。その指と反対に、頬は熱を帯びていくような気がした。


「もうっ……私だって子どもじゃないんだから。昔と同じようなことしないで」


「俺にとってはまだ子どもだよ。うん、やっぱりよく似合う」


 満足そうに微笑む兄の様子に、抗議はまったく意味をなしていないようだった。川面に姿を映して確認する依の背後で、呆れたような娘の声がする。


「羽都彦、帰りはもっと先だと聞いていたんだけど。まさか、その土産のためだけに宮を抜け出してきたわけじゃないわよね?」


「まさか」


 答える羽都彦の声は、どこかそっけない。いつもは誰に対しても丁寧で物腰の柔らかな彼にしてはめずらしい。嫌な予感がして、依は彼のそばに戻る気になれなかった。


梛人なぎひとから知らせをもらってね。次の歌垣に依がでるらしいが、お前がよく許したな、って」


 旧知の友の名をだす羽都彦の顔は、微笑みを浮かべたままだ。だが、その笑顔にはどこか凍えるような冷たさを感じさせる迫力があった。


「そ、それは……」


「宮での本格的な引き継ぎはまだだし、今回は少しゆっくりして祭りの後に戻るつもりだったんだけど……そんな知らせをもらったら帰らないわけにはいかないだろう?」


「梛人の奴……っ」


 依を歌垣へ誘った張本人の娘が、苦々しくつぶやくのが聞こえた。ゆっくりとそちらを向く羽都彦の視線に射られ、びくりと肩を震わせる。その顔が夕日に照らされたように赤くなったのは一瞬。すぐに真っ青になってうつむく。気圧されながらも、隣にいた友人らしい娘が口を開く。


「で、でも、五人衆になったら、羽都彦は宮に移るんでしょう? だったら、一人で残されるより、今のうちに相手を見つけても――」


「それを、俺が君たちに頼んだかな?」


 きっぱりとした言葉に、娘たちは黙りこむ。常と違う青年の様子に、各々戸惑って顔を見合わせている。当然だ。だれも、羽都彦に今までこんな態度をとられたことはないのだろうから。

 たまらず、依は間に割って入った。


「もうやめて! 行きたいって言ったのは私なの!」


「依……」


――まさか、父親のかわりに自分があの子の面倒をみないといけないから……なんて、思ってるんじゃ……。


 娘たちがしていた会話を思い出す。

 自分が、羽都彦の自由を奪う原因になるなんてまっぴらだ。

 今までたまっていた思いが溢れるのを、依はこらえることができなかった。


「兄さんはいつもそうだわ……」


「依……?」


 驚いたような羽都彦の顔に、胸がざわつくのを感じてぐっと拳を握った。


「なんでも、私にはまだ早いって……歌垣のことだって大蛇のことだって、外の情報もほとんど教えてくれなかった!」


「それとこれとは別だろう。それに、お前は歌垣がどんなものか知らないから――」


「知ってる。知ってて、行きたいって言ったの」


「嘘だ」


「本当よ!」


 低い声に、精いっぱいの勇気で叫ぶ。


「子どもじゃないんだから、もう私のことは放っておいて!」


「依!」


 呼び止めようとする声も聞かず、駆けだす。一度も振り返りはしない。

 羽都彦の言葉に逆らうのは、これが生まれてはじめてのことだった。

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