天(そら)の階

木崎京

序章 希人(まれびと)

「どうあっても、中止することはできないのね……」


 少女はつぶやく。声には、隠せない落胆の色。

 日が落ちてきているせいか、部屋のなかは薄暗かった。

 光といえば、時折廊下を足早に行く従婢まかたちの持つ手燭てしゃくのほのかな明かりと、庭の篝火かがりびだけ。頼りないそれが、いっそう室内の暗さを際立たせる。

 けれど、部屋にいる二人のどちらも、明かりを入れようとは口にしなかった。


「……年役としやくの言葉は絶対です。あなたが、どんなに拒もうとも」


 低く、ささやく声。その声からは、なんの感情も感じとることができない。篝火にぼんやりと照らしだされるのは、表情のない端正な横顔。けれど、風にゆらぐほのかな明かりのせいか、頬に影が落ち、憂いをおびているように見えた。

 彼が丁寧な言葉で話しかける相手は、あきらかに十ほど年の若い少女。

 膝を抱え座りこんだ彼女は、顔をうつむけたままだ。華奢な身体が、縮こまることでなおさら小さく見える。花の花弁のように床の上に広がると、その上に波をうつ領巾ひれが、少女の領域を主張しているようだった。


 従婢たちが去り、辺りに残されたのは静寂のみ。二人とも、身じろぎひとつしない。

 ただ、庭の篝火の、火の粉が爆ぜる音だけがかすかに耳に届いた。

 いつもはうるさいほどの虫の声も、今日は一つとして聞こえない。部屋を形作る木の香に、湿気をふくんだ夜の匂いがまじっていく。


 主である彼女が自ら動くのを、男はただ待っているようだった。少女もそれを知っていながら、なにも言わない。

 静けさのなか、時はいたずらに過ぎていく。夜が明けてしまうのではないかと思えるほど長い沈黙。

 その沈黙を破ったのは、彼女だった。

 重たげに頭を持ち上げ、ゆっくりと唇を開く。


「――わかりました。祭りには、でます」


 感情を無理に押しこめた言葉。そして、ただしと続ける。


「どんな結果がでても、わたくしは責任をもてません。わたくしに、神を降ろす力なんてすでにないこと……露草つゆくさもわかっているでしょう?」


 責めるような口調に、露草とよばれた男は鼻白む。


「けれど、それは……」

「わたくしは、希人にふさわしい人間ではなかった」


 ぴしゃりと言い放たれ、彼は口をつぐむしかなかった。


「誤った希人が出た儀式がどうなるか……それは、わたくしが一番わかっています」


 ぽつりと少女のおとしたつぶやきにも、忠実な供人ともびとは答えられない。


「それでも、年役がわたくしを指名するのならば、その意向には従いましょう」


 淡々と紡ぐ言葉は、まるで別の誰かが彼女の口をかりて話しているかのようだった。


 男がそばへと膝を進めた気配に、少女は腕を伸ばした。指先に触れたころもを、ぎゅっと握る。

 彼は、それを引き離しも引き寄せもしなかった。

 いつもそうだった。見えない境界線が絶対だとでもいうように、衣の端にすら自ら触れることはない。たとえ、縋る主の指が震えているのに明らかに気づいていたとしても。


「私の使命は、あなたを生かすこと。変事があれば、必ず守ります」


 薄闇が辺りを覆って、お互いにぼんやりと輪郭がわかる程度の視界。けれど少女には、そう言った露草の表情だけはすぐに想像がついた。きっといつもの通り、にこりとも笑っていないのだと。考えただけで胸が痛むような気がして、冷静をよそおう。


「……無理よ」


 そう口にだして、少し戸惑う。この先の言葉を続けるには、恐怖が喉に絡みついて邪魔をする。ぎゅっと拳を握って、かすれた声を、それでも絞り出す。


「とめられるのは、希人のみ。だからこそ、もしもの時はなにを犠牲にしてもわたくしが中断させなければ。たとえ……」


 音にしてだせば、言霊が力を持ってしまう。わかっているからこそ、声が震えた。


「たとえ――その後、わたくしが命を落としても」


 感情をはっきりと表にだしたことのない彼だ。きっと態度が変わることはない。

 そんな彼女の淡い期待は、粉みじんに打ち砕かれた。

 彼が、言葉に詰まったために。

 顔を歪ませ、一瞬、まるで矢を射かけられでもしたかのような表情をしたために。


「……その顔は、卑怯だわ……」


 呆然とした少女の唇からこぼれるかすかな声が、男に届くことはなかった。



『祭りの日、あめ浮橋うきはしを出現させられなければこの娘は命を落とす』

 

 そんな不吉な託宣が、ほかでもない少女自身の口から人びとに告げられるのは、これより少し先の話である。

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