3−6
「先程の話ですが……」と前置きをして、夫が、私を抱きしめたまま、温かく、語りかける。
「たとえ、環さんが、颯君を利用していたのだとしましょう。それでも、二人とも約束を守っていました。それにより、環さんが癒やされた寂しさや孤独感。颯君も、どこか心が癒やされていたのではないでしょうか。僕は、そんな気がします。颯君も、その関係を望んでいたから、約束は続いたのだと、僕は思います」
「そんな、どうでしょう……でも、そうだったら、よいですね。私も、嬉しいし、少し、救われます。ありがとうございます」
確かに、先程のマンションを出る前の弟から、大きな感謝の気持ちが伝わってきたことを、私は思い出す。
「環さんは、眩しいですから」
「えっキラキラしているのは、俊太さんのほうですよ」
そこで、お互いクスクスと、笑った。
「颯君は大丈夫です。彼も輝いている。そして、環さんだけじゃなく、彼自身も未来を向く為に、彼は、約束を終わりにしたのだと思います……」
「ありがとうございます」
夫の気持ちにお礼を伝え、夫の言葉から、弟のことを、私は、思い描いた。
弟との約束も、終わったけれど、私たちが、姉弟でなくなった訳ではない。今までの弟への感謝を、私が、表現する機会も絶たれていない。それは有り難く幸いなことだと思った。
「きっと、何かを表現することで、光を放ち、結果、誰かを照らすことに繋がり、お互いに照らし合っているのでしょうね……。言葉に限らず、行動も。映像、音楽、絵画、食べ物、何か、を創り出すことも。僕も、苦しみだけじゃなく、何らかの形で、何かを表現できたら、よいな、と今は、思えます」
夫が望むなら、彼が何か表現できるとよいな、と願いながら、私は耳を傾ける。
「僕が、あなたに惹かれたのも、あなたの一言がきっかけでした」
「えっ何ですか?」と聞き返す私に、夫はにっこりと笑顔になって言う。
「月が、眩しい。です」
嬉しくなった私は、舞い上がって、自分も彼に惹かれた時のことを、話そうとした。
「わっ私もっ俊太さんの……」
歓迎会での桜笑顔。言っている途中で、彼が私に惹かれるよりも遙か前に、私は彼に惹かれていたことに気づき、私は慌てて口を噤む。
「やっぱり言いません」
私は、なんだか癪だったので、教えるのをやめた。
「えっずるい」
夫はそう零して、声をあげ笑うので、私も破顔した。
ふと、横に視線を移すと、ダイニングテーブルの上にある、プリントされた布が、何かを訴えているように思えた私は、彼に提案する。
「俊太さん、お裁縫、得意でしたよね」
前にジャケットから外れたボタンを縫い付けて貰ったことがあるのを、私は、思い出しながら言う。
「はい。得意というか、好きですね」
素直に返事をする夫。私は、ずっと取っておいた約束を、勿体ないかもしれないが、今、使いたくなった。
「以前した約束、覚えてますか? 私は、作品を作って、俊太さんに見せたし、カフェで、販売させて貰っています」
以前、初めて一緒にお茶をした日に、夫とやりとりした約束だ。
「? はい」
「その時、私からも、お願い事があれば、交換条件としましょう。みたいなこと言ってましたよね」
「よく覚えてますね」
少し笑いを零す俊太さん、その笑みは、本物だ。抱きしめられている今は、表情が見えないけれど、笑い声だけでわかる。表情を見ても、本物か桜笑顔か、見分けがつかないでいた、出会った頃とは、もう違う。
「それで、その約束、まだ有効ですか?」
「そうですね、はい」
私がデザインした絵をプリントした布と、夫の裁縫力。
二人で、一緒に何かを、表現できる未来があるなら最高だ、と夫の腕の中で、私はそっと、期待に胸を膨らませた。
*
一緒だと思えたのが、きっかけだった。しかし、果たして本当に一緒かどうかなんて、わからない。見えないものだから。でも抜け出せる。少しずつ、この泥だらけの苦しみから。
同じ苦しみの人間としか、分かち合えない訳じゃない。支え合える関係は、恋人だけとは限らない。きっかけは、いくらでも、いろんな形であるのだと思う。人それぞれに。
苦しみを経験したことのない人は、居ないのだと、思うから。
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