3−5

 信じられない。私、今、俊太さんに抱きしめられている。

 座っている私に、覆い被さるように、触れて、抱きしめている彼の重なった右手と、私の背中に回された彼の左腕が、少し震えているのを、私は感じた。それすらも、私にとっては、とてつもなく、彼を愛おしくさせた。


「ただ、あなたに、こうして触れているだけで、僕は幸せです……。なのに、あなたは、それだけじゃない。僕の心に、寄り添おうとしてくれている。どうしてこんな嬉しい気持ちにばかり、させてくれるのか。僕には、あなたが、わからない」

 頭の上から、彼の温かい声で優しい言葉が、降ってくる。もうそれだけで、私は、どうにかなりそうだった。心臓が激しく脈打っている。恥ずかしいから、この鼓動が、彼に伝わらないことを、私は祈った。


「先ほどの話、聞かせてくれますか? 影響ですとか、生きている意味ですとかについて、考えてくれていたとか……」

 そのままの体勢で、聞いてくる夫に、私は、ゆっくり話し始めた。

「昔、影響を与えることから逃げている自分は生きている意味はないのか、と俊太さんは、言ってましたよね。しかし、全く影響を絶つことも生きている限り、難しい、と」

 あの日の、彼の苦しそうな声を、目の前で聞いて、私は何もできなかった。それを悔やむ気持ちを含めて、私は続ける。

「影響を与えることは、素敵なことだと、私も思います。しかし、言いたくないのなら、自分の内面や、すべてを、無理に、さらけ出さなくてよい、と、私は思うんです。それでも、俊太さんが前に言ったとおり、少なからず、存在する以上、影響を与えている。それだけで、もう、充分だと思うんです。それと、自分のために生きている、俊太さんはそう言っていました。それは悪いことだとは、私は思えません」

 私は、夫に伝わるように、丁寧に話そうと心がけた。

「いろいろな人が居て、いろいろな生き方があって、好きなように生きて、よいのではないでしょうか。ただ、俊太さんは、苦しいと言っていました。それならば、あの時、話して下さったみたいに、表現して下さい。私にだけでも良いし、私にじゃなくても良いです。SOSを下さい」

 夫は、静かに聞いてくれている。

「SOSを出すことで、何かが、必ず好転するかどうかは、私にもわかりません。SOSを受け取ってくれる人は、あなたが望んだ人かどうかも、わかりません」

 無責任な事を言っているかもしれない。しかし、私は、夫のSOSを、聞き逃したくなかった。その為には、彼自身にSOSを何らかの形で、表現してもらうことも、必要だった。

「ただ、どこかに、誰かに、必ず、共鳴します。SOSを出すことは、SOSを出した本人だけじゃなく、周りの助けにも繋がると思うんです。苦しみを表現することで、同じように苦しんでいる人と、分かち合い、違う苦しみを抱えている人と、支え合うことが、出来るのだと、私は信じています」

 現に、弟が胸の内を、苦しみを、初めて話してくれた時、私だけじゃないのだ、と孤独から救われた。夫が、内面を話してくれた時に、夫を助けたい、という気持ちが沸いて、その私の気持ちは、私自身をも照らしてくれた。

 背負っている重荷を、完全になくすことは無理かもしれない。けれど、重さを分け合うことはできる。

「ただ、SOSや苦しさを表現することは、危険です。何かを表現するということは、否定される危険に晒されるのと同じだから。中でも、苦しみを否定されることほど、辛くて痛いものはないのだと、私は、思っています……」

 ナイフが刺さっていて痛い、と訴えても、そのナイフが誰にも見えないものだったら。その血が誰にも見えなかったら。ナイフが刺さっている痛みよりも、誰にも、理解してもらえない痛みのほうが、何百倍と辛く苦しいことを、私は、知っている。

 そんな大きな危険があるのに、表現を諦めないでいられるのは、一人でも良い、きっと誰か一人にでも、伝わると信じている自分が居るから。

「表現するとは、そのリスクを抱えている。なのに、あの日、喫茶店で、俊太さんは、その内面を、私に見せてくれた。誰かが、心の内を話してくれること、それは、とても貴重で、有り難いことです。しかし、あの日、私は本心をさらけ出すこともせず、何も応えられなかった。俊太さんが打ち明けてくれた悩みに、ずっと、何かを、私は、お返ししたかったんです」

 そう言った私は、夫に包まれたまま立ち上がると、私から少し離れた彼と、手を取り合い、向き合う。ヒールのない私より、三センチほど高い彼の視界に私は充分入っているのを確認し、まっすぐに目を見て、微笑み告げた。

「きっと、明確な答えなんてないです。なので、今の私の気持ちを、お話しました。その気持ちが正しいかなんてわからないし、私の話した意見が、この先、変わることもあるかもしれません。このことは、考え続けていきたいので。俊太さんと一緒に、考えて、思いを話し合って、探していくことができたなら、素敵だと思っています」


「環さん……」

 夫は、私の腕を引くと、先程より力強く、私を、抱きしめた。

 そして、私の耳元で言う彼の「ありがとう……ございます……」と、絞り出した声が、ふんわりと私の耳に届き、響いた。

 良かった、伝わった。分かってくれた。自信はなかったが、きっと、彼になら伝わる、とどこかで、信じていた私が居る。

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