3−3
答えに詰まる夫を見て、私は、ずっと話したかったことを、切り出した。
「いつか、生きる意味について、私に、お話して下さったことが、ありましたよね? 影響、ですとか」
「? はい」と返事をする目の前の夫へ、私は、視線を移した。彼は、きょとんしている。
「……実は、俊太さんが、あの時、話して下さったことについて、私、あれから、考えていたんです」
「良いですよ、気を使われないでも。環さんも困ったでしょう、あんな事言われて。ただ、僕は、誰かに、話しておきたかったんでしょうね。その相手に、あなたを選んだ。それだけです」
ははは、と空笑いする夫。さきほどまで怖さで、声も震えていた私は、そんな夫の言葉に、はっきりと苛立ちを覚え、口を閉じ、歯を食いしばって、その気持ちを抑えた。私はあの日、夫が、話してくれた事を、困ったなんて考えたことは一度もない。一度、呼吸をし、私は、自分を落ち着かせる。
「何故、私に?」
「え……そ、れは、妻となる人には、言っておきたかった。それだけ——」
「では、何故、私を妻に?」
夫が言い終わる前に、私は、問いかける。
私は、真剣な話をしているのに、夫は今、本心を隠しているのが、私は、わかっていた。隠された、彼の本音の内容までは、シャットダウンされている今、私には、わからない。だから、その心の内を、見せてほしい。これは、私のエゴだ。私は、彼と、お互い真剣に、話をしたい。結果、私が傷つくぶんには、一向に構わない。傷つくことが、怖くないと言ったら、嘘になる。しかし、夫とは建前や上辺の関係に、私は、なりたくない。本音できちんと、話し合いたい自分が、居る。
「それ、は……」
夫は、言葉に詰まり、しばしの沈黙が流れる。その静かな時間に、耐えられなくなった私は、核心に触れることにした。深く深く息を吸い、小さくゆっくり吐き出した。私は、目の前に座る彼の目を、まっすぐに見つめ、真剣に言う。
「私達は……一緒。どこか、そう感じられたのではないですか?」
はっと息を飲んだ夫は、目をぱちぱちと言わせ、瞬きする。
「……はは、まさか、そこまで気を使って下さるなんて。確かに、僕は、最初そう思いました。でも、あなたには、迷惑だったでしょう」
違う。私が苛立っているのは、夫に対してではない。私自身に対して、だ。
困ったでしょう。
迷惑だったでしょう。
彼に、そう思わせているのは、私なのだ。
今までの私の言動なのだ。
答えられない私に、夫は、優しく語りかける。
「あなたにとっては、僕は違う。そう、今では自分でも、違うとわかっていますから。自分は、もっと下級の人間なんです。すみません……」
そう言い終えた夫の表情からは、卑屈さ、などではなく、諦め、に似たものが読み取れた。
私は、穴の中に居る。深い深い、光が僅かにしか届かなくなった、泥だらけの穴。
しかし、彼は、それよりも、もっと遥か下に居ると言うの?
誰が、そう思わせたのか。他ならぬ私ではないか。救いたい、と思いつつも、目を背けた。そう、私が背中を向けた結果、救えないどころか、彼を、もっと苦しめていた。
その事実に、私は、ただ、胸が痛み、息が詰まるのを感じた。
私の視界の中心に、目の前の彼が居るのに、どうしてか、焦点が合わない。
「何故、謝るんです……」
「何故……謝る……んです……」
湯飲みを握った手に力を込め、私は、声を絞り出し、同じ言葉を、繰り返した。
もう、こうなってしまった後では、どんな言葉も、彼に、届かない気がした。
「何故、泣いているんですか?」
私の視界で、ぼんやりとしか見えない夫に問いかけられ、私は、自分の頬に、湯飲みで暖まった指を当てると、確かに雫を、指先で感じた。そして、目に涙が溜まっていて、焦点が合わなかったことに、気づいた。
何と言えば、良いんだろう。何か、言わなくては。何を? 言いたい事が、たくさんありすぎる。その中でも、一番に、伝えなくては、いけない事。それは……。
私は、目に溜まった涙を拭って、夫をまっすぐに見つめる。自分の胸のところを、両手で強く押さえ、告げた。
「私、あなたが、好きです」
そう口に出した途端、先程まで、私を覆っていた、様々な暗い負の感情が、一気に浄化されていくのを感じた。そして、私の中で、張り詰めていたものが緩み、温かく、柔らかな感情が溢れる。自分の中にある「好き」という感情を、初めて、認め、口に出したからだろうか。
思った事をそのまま恐れず、口に出してみよう。それは、とても危険な事だ。けれど、目の前の、この人ならば、きっと、受け止めてくれる。
目の前の夫から、笑顔が消えた。夫の眉間には皺が寄っていて、口は力強く閉じられている。
私は、必死に訴えた。
「本当なんです。今となっては、信じてもらえないかもしれません。それは、私の自業自得なんです。一緒だ、と今の俊太さんは、感じてくれないかもしれない。けれど、私達、一緒なんです。きっと分かち合える。違うところも、あります。それを、許し合える、そう思います……」
彼の表情は硬いままだ。私の声は、彼の心に、届いているだろうか。私は、不安を感じながらも、続ける。
「この苦しみから、一緒に、抜け出したい。だから……っだから、もう一度だけ、私に、心を開いて下さい」
今度は、いいえ、今度こそ、その差し出された手を、引いてみせる——そう強く思い、私は、まっすぐに目の前の彼を、見つめる。
しかし、彼は、私から逃げる様に、視線を横に外した。
「……ごめんなさい、勝手ですよね、今更」
そう零す私の声だけが、寂しく響く。夫は黙ったまま、その視線は、いつの間にか伏せられている。
今更、伝えても、もう、遅かった。私は、悔やむしかなかった。
「あの、俊太さ——」
黙ったままの夫に、私は、実際に、手を差し伸べようと、テーブルに置かれた湯飲みを握っている彼の右手に、私の手を伸ばした。しかし、それに気づいた彼が、私の手を避けるように、彼の右手を、彼の膝の上に逃がす。
もう、駄目だ。私は、そう悟った。
その時、彼が、ふと口を開く。
「僕は、約束しました」
なんだろう、と「?」を浮かべる私に、俯いたままの彼は続ける。
「あなたに、指一本、触れない。と。それが、結婚する時、あなたと交わした約束だ」
そうだった。弟との約束は、なくなったけれど、彼との契約は、そのままだった。
私は、なんて勝手な女なのだろう。
「……ごめんなさい」
もう、私は、謝る事しかできない。
「それは、こちらの台詞です」
そう言うと、彼は顔を上げ、立ち上がる。そんな彼を目で追っていた私は、彼と目が合い、「え?」と聞き返した。彼の澄んだ、まっすぐな瞳に見つめられ、彼の桜笑顔を初めて見た時のことを、一瞬、何故か、思い出した。独特だった自己紹介。その時から、私は、彼に惹かれていた。
「先に謝っておきます。もう、我慢できそうにない」
そう言って、彼は、いつも掛けている眼鏡を外し、机に置くと、座っている私に、近づいてくる。
「……今、あなたに、触れたくて触れたくて、たまらない」
彼が何と言ったか、私の頭が理解するより先に、テーブルの上に置いていた私の右手に、熱が伝わるのを感じた。彼の右手が、重なったかと思うと、横から何か被さってきて、私の視界は、彼のカーキ色のカーディガンに奪われ、ぬくもりが上半身全体に伝わり、包まれた。
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