2−2

 希望を捨てた者同士で、一見、姉と俺は、似た者同士だった。

 ただ、俺は、つまらない人間だ。不器用で、要領も悪い。諦めた人生を、俺は生きている。

 しかし、姉は、どうだ。諦めずに、努力している。人間が苦手な姉だが、職場でうまくやっていると聞くし、喫茶店に納品する作品も、納得いくまで、ブラッシュアップされた、力作ばかりで、評判がよい。姉は、何にでも、一生懸命で、全力だった。それは、俺には出来ない芸当だった。

 そんな姉は、いつの間にか、光を放っていた。

 約束と共に、泥の穴の中に、姉を縛り付け、その光を、いつしか、俺は独り占めしていた。光の温かさを、一度、知ってしまったら、また暗く、冷たい、泥だらけの穴に、独り、取り残されるのが、怖かった。


 俺は、いつからか、心に纏わり付く孤独感に、苦しめられてきた。誰にも、本心を、さらけ出すことは、しなかった。誰も、信用できないし、自分も信頼されているとは思えなかった。

 いつも周りが、皆が、キラキラと輝いて見えて、自分だけ、遙か遠く、地に這いつくばっている感覚だった。

 俺は、この、どうしようもない独りの感覚と戦っていた。

 そんな時、心の中に現れた戦友、それが姉だった。こんなに近くに、俺と似たような場所に居て、戦っている人が居ることを知った時、俺は感動した。

 きっかけは、姉の一言だった。家族で外食に出た帰り道だったと思う。姉も俺も高校生の時だ。近場のレストランだったので、徒歩で、家に帰る途中だった。

「月が、眩しい」

 そう呟いた姉につられて、見上げた空の月は、俺にも、確かに、眩しく感じられた。

「月が眩しいわけないでしょう」

 そう言って、笑い飛ばす両親たちを見て、皆が、月を眩しく感じるわけでは、ないのだと悟った。そして、姉も、俺と同じ感覚を味わっているのかもしれないと、思った。

 俺は、その日の寝る前に、姉の部屋を訪ね、恐る恐る、しかし、希望を求めるように、姉の心に手を伸ばした――初めて他人に、俺の心の中を打ち明けた。それを、姉が受け止めてくれたこと、姉に伝わったということが感じられた時、俺は救われた気がした。

 それから、口癖のように、姉は月を見ると「眩しい」と呟いていた。その言葉を聞く度に、俺の、衰弱した心が、不思議と、癒やされ、感じていた苦しみが、軽くなるのを感じた。

 しかし、その後、交わした約束により、泥の穴の中で、俺たちは幕に包まれる。

 俺と姉、十年近く、二人を包み、のしかかっている、この分厚く重い幕。

 身動きするにも、幕が重く、うまくいかない。今まで、散々、もがいてきたけど、この幕の終わりは見えなかった。どこまでも、どこまでも、続く。この幕の中から、抜け出すには、ハサミでも、なんでも良い、幕に切り込みを入れるしかない。一部破れたら、あとは、幕自身の重みで、破れが、広がっていくだろう。

 姉は、もう充分、俺を照らしてくれた。長い間、明るさをくれた。幕の中で、暗闇に怯えずに済んだのは姉のおかげだ。しかし、俺のほうは、果たして姉を照らせていたのだろうか。

 俺に、最後に出来ること――幕にハサミを入れ、約束を終わりにすることで、姉に、光を与えることが出来るのなら、俺は、俺が再び独りになることを、厭わない。

 もう、姉を解放しよう。

 俺たちを包んでいたどっしりと重い幕が、俺が切り込みを入れたところから、ビリビリと音を立てて、破れていく。そうして、見えた世界は、こんなにも眩しかった。

 放心状態の姉に、俺は、告げる。

「姉さん、あの日、交わした二人の約束は、たった今、終わりだ。今まで、本当に……」

 俺は、救われていたんだ。姉の存在に。たとえ約束が終わっても、その事実は、揺るがない。そして、今まで姉から貰った、たくさんの灯りと温かい気持ちは、この先の、俺の道を照らしてくれると信じている。

「ありがとう」

 俺は、温かさを込めた笑顔で、そう言い残し、二人を信じて、玄関戸をそっと閉めた。 そして、マンションの道路脇に駐めている車へ向かった。


 *


 姉との約束は終わった。俺は、また独りに、逆戻りだ。しかし、後悔はしていない。約束をしたことも、約束を破らずに守っていたことも、約束を終わりにしたことも。


 俺は、姉と、口づけを交わしたことはない。先ほどの無理矢理のキスは「賭け」だった。俊兄が止めてくれると信じて、俺は、行動に出た。俊兄が止めてくれず、俺が、姉の唇を奪っていたら、姉を傷つけていたし、姉にとっても、俺にとっても、最悪のファーストキスになっていただろう。


 姉の口から、初めて俊兄の話題が出たのは、姉の職場の歓迎会があった日だった。桜のような笑顔をする人。「一見、温かいけど、その笑顔は本物ではない、と私は思ってる」俊兄のことを、そう言っていた。

 その時、俺は直感した。姉は、その人のことが気になっているのでは、と。

 その一ヶ月後に、二人で眼鏡屋さんに、行くことになった、と姉は、知らせてくれた。そのときの姉は困ったようでいて、どこかわくわくしているのも、俺は、感じ取れた。

 そして、いきなり、二人の結婚話が出た。

 俺は、「結婚しないで」と言わなかったし、思わなかった。姉が、俊兄との結婚を望み、幸せになるなら、それで良かった。しかし、姉は、これは政略結婚であり、お互いの利益のために結婚する、愛のない結婚だ、と二人の間で取り交わされた契約の内容を俺に、説明してくれた。愛のある結婚ではない、と聞き、俺との約束のせいで、姉は一生幸せになれないのでは、と、俺は怖くなった。なのに、臆病な俺は、その時、「約束を終わりにしよう」とも言えなかった。

 二人が結婚したあと、俊兄とちょくちょく顔を合わせるようになった。姉からの説明通り、必要なこと以外は、殆ど話さない人で、最初は、いまいち掴めなかったが、姉と二人のときは俊兄も普通に話すということを姉から、聞いていたし、何より姉に対する俊兄の優しい目や表情を見て、姉のことを大切にしてくれているのがわかった。本当に「契約ありきの愛のない結婚」なのだろうか、と思うほど、端から見ると、姉夫婦の間には、穏やかな時間と愛情が溢れていた。

 俺は、気づいていた。二人の気持ちに。しかし、見て見ぬふりをして、姉を縛り付けていた。それは、俺の我が儘だ、と自覚していたから、俺にとっても、苦しいことだった。だから、良かったんだ。今日、終わりにすることが出来て。

 車の前に着くと、乗り込む前に、空を仰ぐ。眩しい月の光は、滲んで見えた。けれど、俺は、どこか涼しい気持ちになっていた。

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