1−9
そうして、私は悩んだ末に、返事をし、私と俊太さんは、表向きに夫婦になった。私が実家を出て、夫と一緒に住むようになって、二年が過ぎた。結婚式を挙げなかったことと、仕事を続けることに、私の両親――特に母は、納得していなかったが、私と共に、弟が、母を説得してくれた。会社でも、社長と事務長以外は知らないし、私は旧姓を名乗っている。
結婚の時、二人で交わした契約事項は
・夫である俊太は、妻である環に指一本触れません。
・妻である環は、夫である俊太に何も求めません。
・家事はそれぞれ行い、時に役割分担をする。
・困ったときは助け合う。
・互いのテリトリーに侵入しない。
・家賃、生活費は折半。
だったはず。
出来上がった、おかゆを持って、夫の部屋へ向かった。
ノックをしても、返事がないので「入ります」と言って、私は、戸を開ける。ベッドで横になっている、夫の横顔が見えた。今し方、部屋に戻ったばかりなのに、どうやら、もう眠っているようだ。熱もあるし、やはり、きつかったのだろう。
冷めてしまうが、おかゆを置いていこうか、迷っていると、夫が寝返りをうち、頭に乗せていたタオルが、枕横にぽとりと落ちた。中から保冷剤が、はみ出ている。先ほど、指を冷やすように、渡したもののようだ。
私は、静かに部屋に入り、ベッドのサイドテーブルに、おかゆと飲み物を乗せたお盆を置き、タオルと保冷剤を、拾った。
夫は寝ている。
ベッド脇に、しゃがみ込んだ私は、手を伸ばし、今は、また仰向けになった、夫のおでこに、保冷剤を包んだタオルを、そっと乗せる。
すると「ん……」という声と共に、夫が動いて、目をうっすらと開ける。
「俊太さん、大丈夫です?」
「……環さん」
寝ぼけているのか、いつになく、にこにこして私の名を呼ぶ彼に、私は自分の胸が弾むのを感じた。しかし、そんな彼は、一瞬だけで、次には
「って、環さ——っ? どうしたんですっ! ここ、ぼくの部屋ですよねっ!」
驚いたのか、彼は、目を見開いて、横になったまま、大声を出した。その大きな声に、私は、動揺し、慌てて説明をした。
「あ、勝手に、ごめんなさい。ノックしたのですけれど、返事がなくて、額からタオルが落ちるのが見えまして、つい」
「あ、そうでしたか。すみません、ありがとうございます」
柔らかく笑ってそう言う彼に、私は、ホッと胸をなでおろした。
「そうだ、おかゆ、できました。今ならまだ、温かいです。召し上がります?」
「ありがとうございます、いただきますっ」
その返事を聞いて、部屋の電気を、付けた私は、再び、ベッドサイドにしゃがむ。にこっと、笑顔を向けてくれる彼に、私は、心がうきうきしてしまっていた。
気を良くして、調子に乗った私は、半身起き上がる彼の横で、お盆上のスプーンで掬ったおかゆに、ふーふーっと息をふきかけ、彼の口元に運んだ。
「え……これは……」
「おかゆですけれど」
「いや、違いますっ自分で、食べられま——っくしゅん」
夫は言いながら、向こう側を向いて、くしゃみをひとつ。
「大丈夫です? 遠慮しないで下さい。ほら、お顔も、さっきより赤くなって——」
「そっそれはっあなたが恥ずかしい事するからです! 自分で食べられますから!」
「え」
でも、と続けようとしたら、先ほど驚かれた時よりも、もっと大きな声で、夫は叫んだ。
「っっ出て行って下さいっ!」
夫の怒鳴り声に、びくっと身を強ばらせる私。
「あ、すみません、あの、お互い干渉しないのが、僕たちの間柄でしょう。どうか、お願いします」
顔を片手で覆い隠し、そっぽを向いた夫は、今度は小声で困った様に言った。
「そう、でしたね、気分を害してしまって、ごめんなさい。……失礼しました」
スプーンを皿に乗せて、お盆ごと部屋に残し、私は、ぱたん、と戸を閉めた。
夫の部屋を、出た私は、散らかしたままの台所には、戻らず、自室へ向かった。部屋に入ると、電気も点けず、背中で閉めたドアに、そのまま寄り掛かる。薄暗い部屋の中で、マンションの前を横切る国道を通る、車の音が、頭に響く。窓に映る、遠くのマンションや街の光。そんなに明るさはないのに、私には、ひどく眩しく思えた。
私、何を勘違いしたのだろう。
『出て行って下さい!』
思い出しただけで、私は、肩に力が入り、口の前で両手の指が指にまばらに触れ、目をぎゅっとつむってしまう。
『お互い干渉しないのが僕らの間柄でしょう』
そうだ。わかっていたはずなのに、何か間違ってしまった?
何かを、期待していたわけでは、ない。ただ、私が、夫のために、何かしたかっただけ。けれど、それも、許される関係では、ない。
夫に、嫌な気持ちを与えてしまった。迷惑、かけてしまった。
私達には、何もないし、あってはならない。
私には、弟しかいない。弟以外に、居てはいけない。
それは、私自身が、望んだこと。
なのに、どうして? こんなに……、私……苦しいのだろう。
ずっと前に交わした約束を、弟は今も、守ってくれている。夫も、契約を守って、こんな私と、暮らしてくれている。今以上の幸せは、ない。これ以上を望んで良い筈が、ない。
最初は、弟が、心の中に現れてくれて、すごく嬉しかった。満足だった。なのに、それだけでは足りなくなって、怖くて、約束を求めて、交わした。それで本当に良かったのだろうか。そして、私は夫と出会い、結婚までして。
弟が、心をノックしてくれた頃に比べると、随分、欲張りになった私。
台所に戻って片付けよう。そう思い立ち、薄暗い部屋を出ると、窓の外よりも、さらに眩しい廊下の光に、私は消し去られるかと思った。泥の世界の住人に、光は毒のようだ。自分を照らしてくれる光に、あんなに感謝し、憧れていたのに。どうしても、私は、そちら側には行けないのだな、と痛感した。
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