1−7

「すみません、重い空気になっちゃいましたね」

 先程までとは違い、顔を、ぱっと明るくした春野さんが謝ってきて、私も笑顔で「いえ、そんな」と、両手を胸の前で、左右にぶんぶん振った。

「僕の眼鏡が、伊達だということも、心の鎧のことも、何故か、あなたには、自然に話せた。そのことに、僕が一番、驚いています」

 春野さんは、私に向かい、語り始める。彼の表情に硬さはなく、にこやかとした笑顔だった。

「あの時、すごく心地よさを感じたんです。絶え間なく感じていた、息苦しさから、あなたと話している間だけは、抜け出せた」

 笑顔で話す彼の話の中に、私が、居る。その事に気づき、私の鼓動は早まり、胸が弾む。同時に、自分の中で、警報が鳴り響く。

「あの日、月が眩しいと言った――月を眩しく感じる、あなたには、伝わるのではないか、と勝手に期待して、今日、機会があったので、話してしまいました」

 月が眩しい。それは、いつかの私の、短いSOSだった。それを流さずに、受け取ってくれた弟のお陰で、今の私が居る。

 この人にも、伝わっているのだとすれば……。そう思うと、私は、ざわざわと、自分の気持ちが、かき乱されているのを、感じた。心の中で、警報が鳴り止まない。この人にこれ以上踏み込むのは、危険だ。しかし、感情は、自分でも、どうしようもできないのか、警報音だけが、虚しく響く。

「僕の話を聞いてくれて、ありがとうございました」

「とんでもないです。こちらこそ、話してくれて、ありがとうございます」

 座ったまま、コーヒーカップを避けて、頭を下げる春野さんに、私も、座ったままお辞儀し、お礼を伝えた。


「佐久間さん、こんなこと、お聞きして良いのかわかりませんが……」

 顔を上げて、もぞもぞとそう言う春野さんに、私は、深く考えずに「大丈夫ですよ」と答えた。彼を、信頼しているわけではないが、彼から、悪意のある質問は来ない、という確信が、何故か、ある。

「不躾な質問だと承知して、お聞きします。佐久間さんは、今、お慕いしているかたはいらっしゃるのですか」

 お慕い……それを聞いて、真っ先に、目の前の人——春野さんを、見てしまった。警報音はまだ鳴り響いている。私には、弟しか居ない。弟とは、もちろん恋愛関係ではない。お互いを好き合って一緒に居る訳ではない。ただ、

「私には、生涯一人だけ、心に決めた人が居ます」

 そう。弟と約束を交わした。お互いが、唯一無二の存在だ、と。

 目の前の春野さんをまっすぐに見つめ、そう告げると、私の中の警報音は、やっと鳴り止んだ。

「……そうですか。佐久間さんも、いずれ結婚されるのですね」

 そう言って、笑顔を向けてくれる春野さん。適当に流すこともできたが、笑顔なのに弱々しい表情の彼が、心に刺さった私は、正直に答えることにした。

「いえ、その人とは、結婚できないんです。でも、仕事も始めたばかりなのに、母は二十五までに結婚しなさいと、うるさくって、実は、お見合いの話も、いくつか持ちかけられていて、私は結婚するつもりがないので、これが続くかと思うと、どうしたものか、と困っています……」

「そうですか、うむ……。結婚しませんか、僕たち」

 あまりにも軽く言われ、私は思わず、目を見開き、「はっ?」と聞き返す。

「僕には、恋愛感情のある関係を築くのは、無理だと思っています。愛情ほど、人に影響を大きく与えるものは、ありません。誰かに与える、その影響力に、僕は耐えられないでしょう」

 つまり、春野さんは、愛情のない結婚をしたい。その相手に私を、と。

 なんて、失礼な人なのだろう!

 そう思うと同時に、昔の自分を思い出す。

恋愛も結婚もするつもりがなかった私。人が怖くて、一定以上の距離を保ち、極力、近づかなかった。けれど、寂しくないわけではなく、苦しさに押しつぶされそうだった。そんなとき、弟が現れてくれた。私には、弟が居るけれど、春野さんは……。

「今回、こんなに自分のことを話せて、そんな相手は佐久間さんが、初めてなんです。心地よくて、この先、そのようなかたには、もう出会えないでしょう」

 その言葉に私は思わず、胸のところを押さえた。心が締め付けられる。まるで、告白ではないか。しかし、彼は、私に恋心を抱いているわけではない、と私は、自分が勘違いしないように、心に言い聞かせる。好きでもない相手に、こんな恋文のような言葉を、振りかけるなんて、春野さんは、ずるい。

「すごく自己中心的な、自分勝手なことを、言っている、そう自分でも、わかっています。しかし、どうか、言わせて下さい。もしよろしければ、僕と、一緒に、暮らしてくれませんか」

 ずるいけれど、春野さんは、独りで戦っている。そのことがわかるだけに、その手助けが出来るのなら、と思ってしまう自分が居る。

「僕は、あなたに指一本触れません。約束します」

 彼は、真剣だ。失礼、ではない。私が、彼と結婚したら、しつこく結婚しなさいと言われることもなくなり、両親も安心させられる上に、彼の言うように愛のない結婚かつ彼が私に触れることもないのであれば、弟との約束も守ることができる。ただ、それで本当に良いのだろうか。決断できない自分が居る。

「あ、えっと……私は……」

「あ、その顔は信じてませんね? なら、こうしましょう。決まり事、約束、なんというか、結婚する際に交わす、契約のようなものを定めませんか? なんだったら、今でも良いですよ。お互いが希望する条件を出して、破ったらば即離婚。もちろん、慰謝料も発生します。どうです?」

「なんだか、ゲームみたいですね」

 あまりに、真剣に、そして、熱心に語りかける彼に、私は、少し、笑みを零した。

「そうやもしれません。しかし、ぼくは真剣です」

 正直で、まっすぐな彼の言葉に、私も、真剣にそして、まっすぐに答えなければと思い、返事をする。

「……わかりました。そのお気持ちは充分に。……次回、またお茶でもした時に、お返事致します」

「また外で会って下さるんですねっ。お返事、期待して待ってますね」

 目の前で、にこにこ笑う彼の笑顔が、自信や期待から来るものではなく、彼自身を守る為の盾のようなものに思えた。きっと、彼も一つの術しか知らないのだろうか。

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