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 目の前の春野さんは、俯きながら続ける。

「自分が、人に、何かしらの影響を与えることを、自覚したとたん、怖くなる。人に与える、自分の影響に。影響を与えるとは、必ずしも、良い影響ばかりとは、限らない。自分は、人を傷つける事も、殺める事も、簡単なのだと思ったら、怖いと思いませんか?」

「確かに……」と返す私の中に、彼への異論は、もうなかった。

「僕は、気づいた時から、人に与える、自分の影響、というものが、恐ろしくなりました。傷つけるのが、怖い。それで、職場では、仕事のこと以外、ほとんど話さず、できる限り、距離を保つようにしています。接するのを全く絶つには、社会から離れるしかありません。それは難しいですし、僕自身、それは寂しいので、そこまでは望んでいなくて。中途半端ですね、すみません」

「そうだったんですね……でも、それって本当に……なんというか、すごいです!」

 すごい、だけでは表現できない。精神的に大きなものを、私は感じた。山よりも、海よりも、空よりも、もっと、もっと大きくて偉大な。そう、お日様のような、温もり——そのような印象を私は、彼に、思い描いた。なのに、真逆な、影のように寒く、暗いものを、彼のどこかから、私は感じた。彼は、お日様ではない。どちらかと言うと、月に近い感覚だ。月のような眩しさは、確かにあった。僅かだが、彼からイメージが、今、私に、伝わってきていることに、気づき、はっとした。

 彼は、「無」では、なかった。今、彼は、心を開き、話してくれているのだ。だから、僅かだがイメージも、伝わってくる。普段はきっと閉ざされていて、それ故に「無」だった彼からの感情。今は僅かだが、感じることが出来ることに、私は、どこか安心し、嬉しくもあった。

「ただ、弱くて、情けないだけですよ。実は、過剰な自意識への、理由や言い訳を、考えているだけ、かもしれない。頭でっかちで……」

「そんな事ない! 春野さん……きっと春野さんは、すごく優しい方なのですよ」

「……弱い、だけなんです……。弱いから、自分が傷つくと、苦しいから、他人にも、同じ思いをさせたくない、他人が自分のように弱いかわからないのに……っ」

「でもっ! 強いと思って接して、誰かを傷つけるより、絶対良いです!」

 私は、何故か、大声を出してしまう。彼を肯定したい。何故だろう。

「ありがとうございます……。でも……、どうでしょうね。自信がないんです。この生き方で良いのか、と問われたら、間違っている気がする。他の人に、同じ生き方を、強制するのだとしたら、したくない。だって、生きにくいんです……おかしいですよね、苦しいんです……っ」

 春野さんの、その言葉を聞いて、私は、弟が私の心をノックしてくれた日のことを思い出した。『俺は息苦しさ、なんだろう、生きにくさを感じているんだ』そう言った弟の声が、私の心に、鮮明に蘇る。


「でも、それでも、他人を傷つけるくらいなら、僕は、この生き方を選ぼうと思っていました。それしかない、と。しかし、ただの自己満足だったんです……」

「自己満足だなんて、そんな……」としか、言えない私は、もっと気の利いた言葉を、言えたなら良いのに、自分の無力さを痛感した。

「僕は、たくさんの人から影響を受け、大人になりました。人は、周囲からの影響なしに、成長することは、難しいと思っています。なら、自分も周囲に、誰かに、影響を与えて恩返しをしなければいけないのではないのか……そこまで、わかっているのに、僕は自分を守るために、誰かを傷つけて自分が苦しむのが嫌で、逃げているだけなんです」

 そう言って、笑顔を作る彼の表情は、弱々しく、私は、胸が締め付けられた。

「信頼関係が築ければ、苦しさを感じない生き方も、あるんでしょう。わかっているんです。でも、踏み出すのが、怖い。自分の作り上げてきた細い道を、一歩でも踏み外すと、遙か彼方、落下してしまうのではないかと……今以上に……」

 ! 一緒、だ……。さっきまで、ズレていたパズルのピースが、パチっとはまる音が、心に響いた。

 先ほど感じた「似ている」だけでは、済まされない。春野さんも、同じような苦しみを抱えている。どうして。今まで、私は、彼から、確かに、光を感じ、眩しかった。それは、今も変わらない。

 彼は、生まれたままの透明の心を持ち、それを貫いている。私が昔、己の弱さ故に、意識的に遠ざけた「私のそうありたいと思っていた理想の人間像」と、彼は似ている。私には、無理だったことを、彼は貫いている。

 だから、眩しくて、気になるのだ。

 そして、肯定したいのだ。

 私と弟が、深い深い穴の中から、泥だらけで、光を見上げているように、彼も同じような場所に居て、きっと空を見上げているのではないか。「今以上に落下」という言葉が表している。形は違えど、この人は、私達と、一緒なのだ……!

 そう気づくのと同時に、彼を、どうにかしたくなった。

 彼に、手を、差し伸べたい。

 弟が、私にしてくれたように。

 ……。しかし、そこまで考えて、怖くなる。私が、手を差し伸べたところで、彼を、果たして、救えるのだろうか。

 弟は、私の心を、ノックしてくれた。そして、今、私達は……。結局、泥だらけで、空を見上げたままだった。あの時から、なにも、変わっていなかった。

 苦しみは? とれていない。

 生きやすくなった? なっていない。

 ただ、寂しさは軽減した。その代わり、罪悪感に埋め尽くされた——約束を交わした、あの日から。二人の約束は、お互いを、泥の穴の中に縛り付けたまま。結局、泥の中から、抜け出せないままでいる。

 そんな私が、彼に手を差し伸べたところで、同じ穴の中に、引きずり込んで、縛り付けてしまうだけ、なのではないだろうか。


「影響を与える事に、生きる意味があるのに、その影響自体が怖いなんて、僕は、なんで生きているんだろう——いつも、そこで考えが、もつれて、止まってしまうんです。影響を与えたくないのなら、生きている意味はないのか。そこから、先に……進めなくて……、ただ、今まで生きてきた苦しみや経験、喜びや感動は、尊いものだと思える。それを無駄にしないために――謂わば、僕は、自分の為に、生きているようなものです。究極の自己中心人間なんです」


 違う。彼は、すごい、とかじゃない。ものすごく、脆くて繊細で。色も識別できない程、細いピンッと張り詰めた、一本の糸のようなものだ。生きる意味を、見いだせた、のではなく、見つけないと生きていけない、のではないだろうか。

 彼の言う様に、彼は、弱いのかもしれない。弱いのに、彼は彼自身を、自分一人で支えている。それは、とてつもなく重く、果てしないに違いない。

 彼の中の、ギシギシに引っ張られて、悲鳴を上げている、一筋の糸が、パンっと切れてしまったとき、彼は、きっと壊れて消えてしまう。切れて飛び跳ねた糸が、当たる痛みを、感じる間すらなく。

 しかし、目の前に居る彼の、もう涙も出ないくらい枯れた心の声と、そのひからびた心の土を、どんななぐさめの雨でも潤す事は、できない気がして、私は黙り込んでしまった。

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