1−5

「影響、ですか?」

 私は、何の話だろう、と思い、彼の言葉を繰り返した。すると、春野さんは、少し暗い表情になりつつ、重たい口調で言う。

「よく言われることですが、影響を与えることに、人の生きる意味がある、と」

「私も、人に影響を与えているのかしら……」

 影響を与える、というフレーズを聞いて、素朴に出た疑問を、口に出した私。

 春野さんは、またコーヒーカップを、彼の口に近づけたので、私もアイスティーのストローを持ち、一口飲んだ。冷たい感覚が、喉を潤してくれる。再び、目の前の彼へ、視線を戻すと、春野さんも、私の目をまっすぐに見て、続ける。

「そうですね、どんな生き物でも、無生物でも、存在したら周りに、誰かに、少なからず、影響を与えているのだと、思うんです。むしろ、与えざるを得ない」

 私には、難しいテーマのように思えたが、言っていることが理解出来た私は、思ったままを、忌憚なく言った。

「もし、仮にそうだとして、それが生きる意味だとは、私には、納得できないというか、思えないというか」

 すると、私の意見に、彼は、嫌な顔ひとつせず、すぐに続けた。

「そう思うほうが、自然ですよ。少し、話が脇道にそれますが、僕たちは生まれてきて、生きてきた。最初は、生きる意味など、考えることは、なかったでしょう。でも、ふと考えるときが、きたとき、既に、生きる意味は、できているのでは、と思います。少なくとも、僕はそうでした」

「どういうことですか?」と言う私の相づちに、彼は続ける。

「今まで生きてきたことを、無駄にしないために生きている。それが、僕の生きる意味だったりします」

 私は、思わず、息を呑む。この人は、すごい。生きる意味を、もう見出しているんだ。私と弟が、散々悩んでも、見つけられないでいる生きる意味を、この人は、自分の中に、はっきりと、見つけている。同年代なのに。

「話を、戻します。影響に、ついてですが。存在を得た時点から、必ず影響を与えざるを得ない、と思うんです、って、先ほども、言いましたね」

「私は……、自分が、そんな影響力のある人間とは、思えません」

 私は、抗言ではなく、率直な感想を、口にした。彼の意見に対して、反発心はなかった。ただ、私のような、ちっぽけな存在に、どのような、影響力があるというのか、わからなかった。

「ありますよ。こうして、話を、させていただいてる間も、僕は、あなた——佐久間さんに、影響をいただいてます」

「そんな……。私、大した事、言っていないです」

「内容も、もちろん大事かもしれませんが、まず、コミュニケーションをとっているという事自体に、すでに意味がある、と僕は、考えています。そして、つまり僕も、佐久間さんに、影響を与えてしまっているんだと思います」

 しまっている。その表現が、少し気に掛かったが、私は、自分が彼に、影響を受けている、という言葉に、納得できず、なんと言えば良いかも、分からず、固まってしまう。

「例えば、その言動ひとつで、誰かを殺めてしまうことも、容易なのかもしれない」

 春野さんからの、思いも寄らない発言に、「えっ」としか言えない私に、被せる様に彼は続けた。

「そう思うと怖くなりませんか?」

「そんな簡単に、人は死なないし、殺せないですよっ」

 いつの間にか重たくなっていた空気を、吹き飛ばしたくて、空笑いをしながら、私は、そう言ってみたが、彼の表情は、真剣なままで、私の笑い声だけが浮いてしまう。

「急に、こんなこと言われたら、不気味でしたよね、すみません。さっきのは、ちょっと大げさでした。でも、佐久間さんは、誰かの言動で傷ついたこと、ないですか?」

 真っ先に、母親の顔が、浮かんだ。次に同級生、先生、いろいろ関わってきた人たちが、流れるように浮かび、思い出したくない過去で、脳内が一杯になるのを、振り払うように、私は、膝の上の拳を、ぎゅっと握った。

「あります。でも、きっと、どなたにも、あるのではないでしょうか」

 私が正直に答えると、春野さんの硬く張り詰めていた表情が、一瞬、和らいだように見えた。

「そうですね、あるでしょう。でも、それがエスカレートしたり、瞬発的に大きなものだったり、積み重なったりすることで、人は人を壊す事も、消すことも、容易いんですよ。だから、自覚した時、怖くなるんでしょうね」

 和らいだと思えたのは本当に一瞬だった。春野さんの表情は、話しながら次第に硬くなっていく。

 彼の言う事は、あながち間違っていないように、私には思えた。そして、私は、気がついた。そうだ。『私たちは時に、残酷で、いつどちら側に転ぶかわからない』私が恐れていること。その考えと、彼が今話してくれていることは、似ているかもしれない。最初は腑に落ちなかったが、少なくとも、私にとっては、彼の言うこと——影響の持つ恐ろしさ、は真実だった。

「傷つくことに?」

 自覚した時、怖くなる——と聞いて、私は真っ先に、そう思った。

「いえ、逆です。傷つけることに」

 ……! 彼の口から返ってきた、真逆の返事に、私は、思わず閉口してしまった。

 この人の考えは、どうなっているのだろう。私は、自分の事だけで手一杯で、傷つけることよりも、傷つくことのほうばかりを、気にしていた。もちろん、どちらに転ぶのも怖い。けれど、傷つくことより、傷つけることのほう「だけ」を恐れることが、私には、できるだろうか。

 私は、自分が、とてつもなく小さく思えた。

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