1−3

 敬語の講演会がある水曜日。私は、朝から、そわそわしていた。一ヶ月前の歓迎会の日に、春野さんの桜笑顔を見てから、私の中での、彼への印象は、明らかに違っていた。

 怖さがなくなり、私の中で、彼に、興味が、沸いている。

 私は社内で、気づくと、春野さんを目で追うようになっていた。事務員もデザイナーも皆、同じ部屋で、仕事をしている。考えてみると、二十人なので、私の、小学校時代の一クラスの人数より少ない。耳を澄ませば、話し声は聞こえるし、内容を聞き取ることも容易だった。ここ一ヶ月、観察した結果、私が違和感を感じたのは、彼が、世間話や談笑をしているところを、一切、見かけないことだ。

 仕事上、必要なことは、彼も話しているので、目立たないかもしれないが、誰かに仕事に関係ないことを話しかけられると、例の桜笑顔で躱して、彼は、誰とのコミュニケーションも、極力、避けているように見えた。

 彼の作られた笑顔――桜笑顔は、心からの笑顔じゃないことに、私は気づいていた。そして、その桜笑顔を繰り返す彼が、私は、どうしてか、気になって、仕方がなかった。


 *


「佐久間さん」

 後ろから、声をかけられ、はっとする。振り返ると、春野さんが立っていた。

「あっ、もう時間ですか」

 しまった。仕事に熱中していて、私は、時間を忘れていた。

「はい。そろそろ出ないと、遅れてしまいそうです」

 そう言って、にっこり笑顔を作る、春野さん。一見、優しく微笑んでいるようだが、温もりも、苛つきも、彼からの感情が、私に、やはり伝わってこない。

 私は、謝りながら、慌てて、デザイン途中のファイルを保存し、退社の準備を始めた。


 *


 講演会の行われる、市内の公民館は、職場から、徒歩十分で行ける範囲にある。

 道路脇の細い道を、私たちは縦に並び、春野さんが先に行く形で、今、一緒に会場に向かっている。春野さんは、仕事以外の会話を好まないみたいだ、と私の勝手な推測だが、そう思われるだけに、話をかけるのは躊躇われた。横に並ばなくて良い分、道が細いことに感謝しつつ、公民館が見えてきた。

「着きましたね」

 公民館の敷地内に入ると、そう言って、私の横に並ぶ春野さんに、私は、笑顔を返す。こうしてみると、彼と私の、視線の高さが同じで、小柄だとは思っていたが、背丈は、一六〇センチある私と、あまり変わらないのだと、実感した。三センチあるヒールの靴を今、私は履いているから、その分、彼の方が若干高いのだろう。

「一階でしたよね」

 私が、そう確認すると、春野さんは背広のポケットから、何か取り出し、広げる。今回の講演会の案内の紙のようだった。

「そうですね。敬語講演会は、一階の第一ホールですね」

 取り出した紙を再び、畳んでポケットに戻した彼に、私は、お礼を言って、一緒に館内へ入った。


 *


「午後七時からの講演会『敬語の正しい使い方』にご参加のかたは、まず受付を済ませて、資料を受け取ってください。受付は混み合いますので、会社の代表者のかたのみでお願いします」

 会場に入ると、第一ホールの入り口前にある、一階のエントランスで、そのような声が、響いていた。思ったより、参加者が多いことに驚く。

「僕、受付、行ってきますね」

 そう言って、受付に向かう春野さんに「あっありがとうございます! ホールの入り口に居ます!」と私が、お礼を告げると、振り返って笑顔をくれたが、すぐ人混みで彼の姿は、見えなくなった。

 第一ホールの入り口に、私は移動したが、ここも、人が多かった。見つけ辛いだろうな、と思った私は、ホールの入り口、後方にある、幅の広い階段を登った。この踊り場からだと、ホールの入り口に居る人たちがよく見える。

春野さんが受付から、来たら、すぐ見つけられるだろう。そうこうしていると、受付のほうから春野さんが、ホール入り口に向かっているのが見えた。

「春野さん! こっちです」

 私は、がやがやとしている会場の中で、春野さんに聞こえるように、手を上げながら少し大きめの声を出して、彼に向かい、階段を降り始めた。

「佐久間さん」

 私の声に気づいた彼が、こちらを向き、笑顔で、彼も近づいてくる。

 その時だった。

 私は、視界ががくっと揺れ、自分の足がもつれたと理解したのも束の間、階段から、前方に落ちる――!

「危ない!」春野さんの声が響く。


 どどん! と、勢いよく階段から落ちた私だったが、痛くない。駆け寄った春野さんが、受け止めてくれていた。お陰で私は、打ち身一つもなく、無事だった。ほっとするのと同時に、支えてくれている春野さんに、お礼を言った。

「すみません! ありがとうございますっ。春野さんはお怪我ないですか――」

 言ってる途中で、春野さんの顔がすぐ近くにあることに気づき、私は飛び跳ねて離れた。その時、何か、「ぺきっ」と踏んだ感触が足にあった。

「あっ」と春野さんが、私の足下を見ている。「え?」私はそう言って、足を上げると、眼鏡が変形して、レンズにはヒビが入っていた。「眼鏡……?」

 目の前の春野さんを見ると、彼の顔に、いつも掛けている眼鏡が、ない!

 落ちてきた私を支えた反動で、落ちたのだろう。その床に落ちていた彼の眼鏡を、私が今、踏んでしまったと理解すると、私は、申し訳なさでいっぱいになった。

「すみません! 眼鏡が! これじゃ、資料が……っ」

 見えないですよね、と私は、続けようとしたが、

「大丈夫です。この眼鏡は、伊達なので」

 彼は、変形し、ヒビの入った眼鏡を拾いながら、さらっと、言った。

「えっ? 伊達、なんですか?」

「僕にとって、眼鏡は、心の鎧なんです」

 そう言って、彼は、拾った眼鏡を胸ポケットに入れ、桜のような笑顔を、私に、向ける。簡単に、そんなことを言ってのける彼が、私には、ただ、眩しかった。

「心の鎧なら、なおさら、大切ではないですか。明日からの仕事にも……」

 私が、申し訳なさで押しつぶされそうになりながら言うと、

「家に帰れば、予備の伊達眼鏡もありますから、明日からの仕事にも、支障はないです」

 そう言って、彼はまた微笑んだ。


 *


 講演会を無事に終え、出口へ流れる人たちの波に乗って、私と春野さんも公民館を後にした。外に出て空を仰ぐと、雲一つない夜空に、満月が浮かんでいた。

「月が眩しい……」

 何も考えず、いつもの口癖が出てしまう。家族以外の前で、言ったことのなかった言葉。何故、今、口から出てしまったのだろう。確かに月は輝いている。しかし、この月を見て、眩しいと思う人が、他に、どのくらい居るだろうか。私には、ずっと前から、月が眩しく見える。それくらい、人生に疲れて、心が衰弱していた。ただ、今夜の月は満月だけれど、いつもより、霞んで見える。何故なら、すぐ隣に、眩しい人が居るから。

「あっ何でもないです! 私、おかしなこと言っちゃいましたよね。すみません!」

「月が、眩しい、ですか」

 しっかり聞こえていたようで、春野さんは私の言葉を、繰り返した。あまり深入りされても、説明に困る私は、恥ずかしさをかき消すように、自分の胸の前で、両手をぶんぶん左右に振りながら、講演会中、考えていたことを、お願いする。

「あのっ、やっぱり、お詫びに新しい眼鏡を、弁償させてください!」

 きょとんとしていた彼は、笑顔になると、私の申し出を受け入れる提案をくれた。

「では、今度の日曜日、眼鏡屋さんに付き合ってください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る