1−2

 私は、そもそも、誰とも結婚するつもりが、なかった。弟との約束もあったが、それ以前に、人間という生き物、が昔から、苦手だったからだ。いいえ、苦手というより、怖かった。恐ろしかった。

 私たちは、時に、残酷で、冷酷無残になり、何をするかわからない。平気で人を傷つけ、中には、誰かを故意に傷つけて、満足気に笑っている者さえ、存在する。

 そして、苦しめる側も、苦しめられる側も、誰しも――もちろん私も、同じ人間なのだ、という現実が、さらに私を苦しめた。

 決して「自分とは人種が違う」とは言い切れない。そんな気休めで、私は、安心できなかった。誰もが、いつ、どちらになるかわからない。それは皆、存在する限り、平等に、隣り合わせにある危険だった。

 私は、家庭でも、学校でも、誰かに、攻撃されることが、多かった。その上、味方作りやアピールが下手なので、いつも私が「加害者(悪い)」と周囲から認識された。

 誰も憎みたくなかった私は、空気を悪くすることに、関わっている周りに、申し訳なさを感じながら、自分を責め続けた。

 私が攻撃されるのは、どこに行っても同じなので、自分に原因があるということは、明らかだった。自己分析した結果、一緒に居ても面白くない存在――それが、私だった。だから、攻撃されるのだ。一緒に居て、価値のある人間に変わるのは、もはや難しいと判断した私は、せめて、「攻撃されない独り」になろうと思った。

 まず、私は、お人好しを、やめた。自分に嫌なことをされたときに、笑ってごまかすことも、頼まれたり、察したりして、誰かの望むままに動くのも、馬鹿正直なところも、やめた。私としては、本心で語らいたい欲があるが、自分をさらけ出すのもやめ、建前も覚えた。

 それらを意識して行動する度、心が痛んだが、我慢しなければ変われない、と自分に言い聞かせた。

 それまで、自分への戒めのために、耳を傾けていた、周りからの悪口や陰口には、耳を塞ぐことにした。

 あとは、最低限の自分がやるべきことを、きちんと熟し、目立たずに、それでいて堂々と生きていれば、「独りで居ること」をだんだんと許されるようになり、攻撃も減った。

 優しさ、きれいな心、それらを、持つことが許されるのは、魅力的な人間の特権なのだと私は、悟った。

 魅力のない私の場合、透明な心のままでは、ただ弱いだけであり、目障りで、標的にされる。

 結果、周りの空気をも、汚してしまう。周りを巻き込み、迷惑をかけることは、私にとっても苦痛で、避けたかった。その負の連鎖を止めるため――独りを許されるために、私は、いろいろな意味で、強くならなければ、ならなかった。


 *


 大学を卒業したのは五年前。そのまま入社した会社に、結婚した今も務めている。社員二十名ほどの小さなデザイン会社で、新入社員を募集するのは、毎年ではないとのことだったが、私の入社した年は、その会社では珍しく新入社員は二人で、私には同期が一人、居る。

 就活の面接の際、この会社は、社長自らが面接官だったのが、印象に残っている。

 社長をはじめ、先輩社員も皆、優しく、温かく、アットホームなこの会社の雰囲気に、それまで、殺伐とした空気しか築けなかった私は、最初、戸惑った。この会社の一員になったのだから、この空気を壊してはいけない。というプレッシャーに押しつぶされそうで、気弱になっていたとき、彼の「キャラクター」に出会った。


 *


 私が入社して、一ヶ月になろうとしていた、四月の末、木曜日の仕事後に、職場近くの居酒屋で新入社員の歓迎会が行われることになった。

 私の教育係を務めてくれている、女性の先輩社員の隣に私は、座っていた。飲み物がそれぞれに行き渡る。乾杯の音頭のあと、一口飲んだ社長は、「それじゃあ」と、続ける。

「せっかくだし、新入社員の二人に、挨拶を、してもらおうかな。まず、佐久間さくま君」

 一同が、にこやかに拍手をしてくれるなか、自分の名前を呼ばれた私は、急に挨拶をすることになり、緊張が走る。心拍数があがるなか席を立ち、私は、いざ、口を開く。

「あっ改めまして、佐久間 環と申します。絵を描くことが昔から大好きで、デザインに関わる仕事に、そして、このような暖かな雰囲気の会社に、務めることができまして、大変嬉しく思っています。まだまだ、慣れないことばかりですが、これから、もっと頑張りますので、よろしくお願いいたします」

 無難な挨拶を終え、皆の笑顔と拍手に包まれた私は、ほっとし、胸のところを両手で押さえながら、座った。

「佐久間君、ありがとう。では、続いて、春野はるの君」

 春野さん。私の唯一の同期だが、入社して一ヶ月、私は、彼と話したことがない。出社したときと、退社するときに他の社員同様、挨拶を交わすくらいだ。

 社長からのお達しで、五月に、市内の公民館で行われる、『敬語の正しい使い方』がテーマの講演会へ、仕事終わりに、春野さんと私の新人二人で、行くことになっているが、正直、気が重い。

 私は、その人の感情や、雰囲気を、なんとなく感じ取ってしまうところがある。近しければ近しいほど、ダイレクトに感情が伝わってくるので、弟の感情などは、どちらかがシャットダウンしない限り、おおよその気持ちも読み取れてしまう。就活の面接の際、ここの社長の雰囲気には、今まで感じたことのない温もりがあって、感動し、絶対に内定したいと、私は、切望した。

 初出勤した際の、この会社の雰囲気は、やはり、トップがそうだからだろうか、皆さんから優しさや、穏やかな感情が、伝わってきた。

 ここなら、昔の私で居ても、許されるのではないだろうか、とさえ思えた。

 しかし、彼――春野さんからは、何も感じ取れない。暖かさも、冷たさも、怒りも、喜びも、何もない。無、だ。人間として、そんなことは、ありえるのだろうか。今までに出会ったことのないタイプだった。

 彼の印象が、いまいち掴めない。彼は、私にとって、得体の知れない存在なのだ。なので、なんとなく怖くて、近づいたり、話しかけたり、できない。そんな彼と二人で、講演会に行かなくてはならないことに、私の気持ちは乗らなかった。しかし、逃げたくはない。

 私も、周りに合わせて拍手をしながら、社長に呼ばれ、立ち上がろうとしている春野さんのほうを、見やる。

 彼は、事務社員とのことだった。うちの会社には、事務専門の社員が、事務長含め、五人、居る。おかげで、他の社員はデザインに専念できるし、経理処理なども請け負ってくれていて、会社の運営には、欠かせない。

 立ち上がった春野さんは、彼の細い銀縁フレームの眼鏡の位置を整えながら、視線は下を向いていて、俯きがちに、言う。

「春野です。よろしくお願いします」

 言い終わると、拍手も待たずに、春野さんは、すぐに座ってしまった。

 私は、ぎょっとした。それは小声だけど、確かに全員に、聞こえはしたようだった。ただ、早口なうえ、内容も簡素で、無味乾燥なものだったせいか、拍手どころか、室内は水を打ったように、静まり返ってしまった。このような空気になることは、先ほどまでからは、予想だにしなかった。

「春野君、この会社での抱負とか、やりたいこととか、意気込みなどを、混ぜてくれてもいいのだよ」

 春野さんの隣に座っている事務長が、見兼ねたのか、この空気を、どうにかしようとしてくれたのか、フォローする。

「……申し訳ございません。どうしても……言えません」

 再び、立ち上がった春野さんは、先ほどまでとは違い、顔をゆっくり上げると、まっすぐに周りを見渡して、真剣に、そう言った。

 そして、春先に桜が開花するかの如く、ふんわりと笑顔になった彼は、ひと呼吸置いてから、皆に頭を下げた。

 その笑顔は、私と同期とは、思えない。若く——いいえ、幼ささえ見受けられる。見た目も、男性の割には華奢で、背丈も小柄、肌も白く、黒く細いさらさらのショートヘア。言い過ぎかもしれないが、全く擦れていない、まっさらな少年、のようなイメージを、この一瞬で受けた。これが、私が、初めて彼から受け取った印象になる。何故だろう、私には、彼が、眩しかった。

 彼の、その柔らかな笑みに、不思議と、その場が和んだのは、確かだった。社長から拍手が起こり、続いて皆も、拍手をしていることに気づき、私も、慌てて手を叩いた。

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