第1章 仮面夫婦とSOS

「ごめん、今日は帰るね。俊太しゅんたさんからメールが来て、熱が、出たって」

 慣れた手つきで、卵を割る目の前の弟へ、カウンター越しに、私は、伝えた。今日、職場から早退した夫。その際の、笑顔を作りつつも、ふらふらした彼の足取りを思い浮かべ、私は、自分の心が、そわそわしているのを、感じていた。私は、夫を、心配しているのだろうか。

「そっか。俊兄しゅんにいに、お大事にって伝えておいて」

 お菓子作りの際、いつもマスクをしいている弟。その顔が半分隠れた弟が、手を止めて、こちらを優しく見つめて、言う。その目から、弟が夫を心配してくれていることが感じられ、私は、ほっとし、微笑んで答えた。

「ええ。ありがとう」

 弟は、私を、ずっと許してくれている。それはもう、長い間。その事実を、私は、最初から、気づかないように、見えないふりをしていた。


 金曜日の私は、他の平日より、少しだけ荷物が多い。仕事を終えてから、まっすぐ、ある場所に向かうためだ。

 カフェ兼ギャラリーもある、馴染みの喫茶店。そこでは、お店の一角――入り口のレジ横に、いろいろな作家さんの作品を、展示するスペースが設けられていて、販売することも可能だ。作家側が、一ヶ月に五百円を、お店に支払うことで、作品を置いたり、販売をしてもらえたりする。

 アクセサリーからファッション小物、イラストのグッズ、絵のパネル、スイーツまで、様々な作品が並んでいる。

 このお店で、販売させてもらうようになって一年が過ぎた私。自分で描いたオリジナルイラストの自作グッズの納品を、私は、毎週金曜日の夜に行っている。

 季節の花や、フルーツ、動物、鳥をモチーフにしたリアル寄りのカラフルな絵柄が多い私だが、小さな子供のイラストを描くのも楽しい。いくつかの童話をテーマにしたイラストのポストカードは、反響が良くて、今も、定期的にデザインを変えて描いては、納品に持って来ている。

 最近は、私が描いたデザインを、A四サイズの布に印刷して、これで何か小物を作ることが出来たら、と、新しいことにもチャレンジしたいと思っている。ただ、私は、裁縫が苦手なので、布に印刷してみたは良いものの、今は、布のまま、マンションのダイニングテーブルでランチョンマット化している。

 自分の作品が、定期的に売れるわけではないが、毎週、少数でも必ず納品したり、置かせてもらっている作品を見直すようにしている。

 弟も、毎週金曜日、仕事を終えたあと、喫茶店に来ている。弟は、焼き菓子を作って、お店に置かせてもらっているのだが、販売する焼き菓子は、自宅で作ることができないため、お店の閉店する午後六時以降に、調理場を借りて、毎週、お菓子を作っている。

 私も、弟も、仕事などで都合がつかない時以外は、毎週金曜日、喫茶店に顔を出している。そして、私は、納品のあと、弟のお菓子作りの、雑用を手伝い、終わった後は、一緒に片付けて帰る。そのまま、実家で一泊または二泊するのが、私の習慣だ。市内に実家があるのは、心強い。

 実家なので、パジャマや、下着、部屋着等、衣類の心配はない。シャンプーリンス、洗面具も実家に置いてあるので、持って行かなくて良い。幸いなことに、実家の私の部屋は、今のところ、私も暮らしていた頃のままだ。必要なものは大体揃っている。

 その気軽さも、私の、この週末外泊が、定着した所以だろう。もちろん、夫が、不満等を言わないでいてくれる、というのも前提だ。

 今日の分の納品を済ませて、弟の手伝いをするため、調理場へ入る前に、私は、下ろしていたセミロングの黒髪をきゅっとゴムで一つに結んでいた。そこで、スマホの画面が点灯し、通知が入る。夫からのメールだった。


 弟に手を振って、調理場を抜け、裏からお店を出ると、お店とオーナー家族の自宅を結ぶ通路が続いている。オーナー宅の戸を、通路からノックした。出てきたオーナーに、帰ることを伝え、挨拶した。戸を閉めた私は、踵を返し、通路真ん中にある、外へと繋がる裏口から、喫茶店を、あとにした。


 *


 マンションに帰宅し、玄関を開けた瞬間、何か温かい匂いが、ふわっと、私を襲った。嫌な予感を受けながら、廊下を進む。突き当たりのダイニングキッチンに出ると、驚いた様子の夫が、迎えてくれた。

「あれ? たまきさんっ? おかえりなさい。どうしたんですか? 今週末は、帰って来ないほうが良い、とメールを……。あ! もしかして、月曜日の服ですか? 今日と同じ服では、嫌ですよね……。すみません、気が回らなくて」

 ははは、と申し訳なさそうに笑い、鼻水をすすっている夫は、私が、仕事用に服を取りに来た、と勘違いしているようだ。

 そんな夫の笑顔を確認し、少しは元気そうで、私は、ほっとした。そんな自分に、気づき、私は、慌てて、脳内で否定する。

 いいえ、違う。別に、心配していたのでは、ない。違う。いや、百歩譲って、心配はしていたかもしれないが、別に、特別な感情は、決して、ない。

「俊太さん……何しているんです?」

「え? 見ての通りですけど……」

 先ほどの嫌な予感は、的中していた。熱で、寝込んでいる筈の、私の夫——俊太さん、が起きて、台所で、何か作っている。熱で辛いだろうに。パジャマ姿で、鼻水をすすりつつ。彼が、台所に立っている光景に、私は、大きな溜め息をつかずには、いられなかった。

「あっ卵! 買って来てくれたんですか! もしかして僕のために! ありがとうございます! ちょうど良かった。おかゆに何か入れようと、先ほど、冷蔵庫を漁っていて、卵がないな、と残念に、思っていたところでした」

 私は、卵4個パックを片手に下げていた。私が持った、スーパーの袋と、その形からだろうか、中身に気づき、目を輝かせ、鼻水をすすりながら言う、夫。私の溜め息、絶対、聞こえているはずなのに、夫の、このキラキラした感じに、いつも、私の心は揺さぶられる。

 最初は、こんなにキラキラした人だと気づかなかった。それは、夫の本質を見ていなかっただけで、私が、夫を直視したときから確かに彼は、眩しかった。私は日陰に居るから余計に、そう見えた。

「もう……。無理するから、いけないんです。あとは、私がしますから。俊太さんは、寝ていて下さい」

「いえ、僕は、あなたに迷惑をかける訳にいきませ——うわあちっ」

「ああっもう、大丈夫ですか? お水で冷やして、……そう。あ、念のため、タオルで巻いた保冷剤で冷やしつつ、あとは横になっていて下さい」

 火にかけた鍋の淵に、誤って触れてしまった夫に、反射的に私は駆け寄る。そして、夫に、彼の指を、蛇口の水で冷やすよう促し、私は助言した。

 納得できていないのだろう、彼が、「しかし」と反論してきたのを、私は、遮ってピシャリと言う。

「正直、そんな状態で、台所に、菌を巻き散らかされても、困るんです。それに、迷惑なら、今まで、枚挙に遑がないくらいに、かけられています。今更です」 

「う、はい、すみません」

「おかゆなら、私が作りますから」

「いえ、そんな!」

「早く治してもらわないと、私も、迷惑だからですよ。良いかしら?」

「……はい、すみません」

「それに、風邪をこじらせて、入院なんて事になったら、もっと大変でしょう」

「はい……。環さんの、迷惑にならないよう、早く治します!」

 それまで、しゅんとしていた彼だが、最後は、にっこりと、柔らかく笑って、観念してくれた。

 そんな夫が、再び輝いて見えた私は、自分の心の中の目が、細くなるのを、感じた。眩しすぎて、目を開けていられない感覚だった。「わ、わかったら、早く、ベッドに、横になっていて下さる?」

「はい、ありがとうございます」

 笑顔のまま、ゆっくりと言った彼は、ゆるりと、自室へ向かった。


 *


 私達は、普通の夫婦と、違う。

 一緒に住んではいるが、寝室は別々、ご飯は適宜。だいたい、お互いが、自由に自分の時間を、過ごしている。全く話さないわけでもないし、時には、一緒に、ご飯を食べる事もある。困った時は、助け合う。冠婚葬祭、お正月や、お盆のときに、それぞれの実家に、顔を出すなどの、最低限の親戚付き合いもしている。

 しかし、私達は、互いの利益の為に、結婚し、一緒に暮らす仲だ。表面的には夫婦だが、私達の間に、愛情はない。

 私は、夫から、来たメール——「熱が、出てしまいました。もし、可能でしたら、僕の熱が下がるまで、環さんは、ご実家のほうから、出勤したほうが、よいかもしれません。風邪が、移ったら大変です。出来る限り週末で治します! 頑張りますっ」を見て、慌てて帰って来た。卵が、切れていた気がして、スーパーに寄ったのは、正解だった。急いで帰って来たのも、おかゆを作るのも、「困った時は助け合う」と、【契約】の中に入っているから。そう、それ以外に、意味があってはいけない。

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