page60:不要不急の恋人

「姉ちゃん、なんかぽけーっとしてない?」

 皿を並べていたら譲治に言われて、思わず頬に手をあてた。

「なんで? なにが?」

「最近いっつも口の端がニヤついてるし。自覚ない?」

 自覚はあった。だから困るのだ。

「わかってるよね、今日の主役は俺たちなんだからさ」

「はいはい。姉の顔つきなんてどうだっていいでしょ。あんまりシスコンだと彼女に嫌われるよ」

「は? シスコンじゃねーし」

 くすくす笑いながら母と作った大量のスパゲティナポリタンをテーブルに運ぶ。

 昔から、来客といえば母はこれでもてなすのがおきまりだった。シンクの上には、ほとんど空になったトマトケチャップのチューブが転がっている。

 やっぱりケーキでも買ってくるかと問う父に、いらないいらないと譲治が高いトーンで返している。


 あと数分で、譲治は車に飛び乗り、駅まで彼女を迎えにゆくだろう。

 りんろん、と涼やかなチャイムの音が響き、手土産を持った若い女性がはにかんでいるのをわたしたちは見るだろう。

 お酒は飲めるかたずね、パスタを取り分け、品のよい話題を選び無難なジョークを飛ばしながら、わたしたちは相手を値踏みし、また値踏みされるのだろう。

 我が家を辞したあと、彼女はふうと脱力し、新鮮な夜気を肺まで吸いこみながら譲治の車に乗りこむだろう。

 昔からずっと変わらない、わたしたちの営み。


 片倉さんとのオンライントークは、あれから毎晩続いていた。毎晩だ。

 身の上話や雑談を積み重ねるたびに醸成してゆく濃密な気配があることに、わたしは気づかないふりを続けていた。

 だって、もう失敗したくない。

 もう失望したくない、されたくない。

 軽率に心の内を見せていいわけない。

 慎重に。慎重に。

 だって、大切な人だから。


『──里瀬さんは』

「はい」

『里瀬さんは恋愛ってなんだと思いますか』

 画面の向こうで居住まいを正し、彼は言った。口元が引き締まり、喉仏が上下するのをわたしは見た。

「恋愛とは……」

 プロフェッショナルの仕事ぶりを掘り下げる番組のような質問を茶化さずに、わたしは真摯に考える。恋愛とは。わたしを通り過ぎた恋人たちの顔が、脳裏に浮かんでは消える。

「恋愛、とは」

『はい』

「恋愛とは……相手を消費することだと思います」

 言葉を選びながら答えると、彼の黒目がわずかに大きくなった。聞こえたものを咀嚼するようながあり、やがてその顔に笑みが広がってゆく。

『消費……そうですね、消費なんですよね。他人と深く関わるってことは、相手の一部を自分のために使わせるわけですもんね』

「ええ、時間とか体とか……エネルギーとか」

 そっか、そうなんだよなあ、本当に。ひとりごとのように彼は言い、しばしうつむいてから意を決したように顎を持ち上げた。小さく息を吸いこむ気配がした。

『もう察してらっしゃると思うけど』

「はい」

『里瀬さんのこと特別に思ってます』

「……」

 慎重に。慎重に。

『こんなに言葉や感性の合う人と、男女問わず会ったことないです。あなたになら俺、どれだけ消費されてもいい』

「……」

 慎重に。

『はっきり言って今すぐ日本に飛んでいきたいです。それかこっちに来てほしい。わりと限界です』

「片倉さん」

『はい』

「わたしの気持ちも、察してらっしゃると思うんですけど」

『……はい、自惚うぬぼれでなければ、そうかなって』

 ああ、慎重にいかなきゃだめなのに。

 どうしてわたしは、恋なしじゃ生きられないのだろう?

 無職で、無知蒙昧で、なんの取り柄もなく、なにも続けられず。相手に期待し、失望し、空回りし、裏切られ。

 それなのにまた、心の求めにしたがって手を伸ばしてしまう。希求してしまう。

 恋だけじゃ割りきれないって、わかっているのに。

「──そうなんですけど、でもわたし、思えば誰からも最後まで大切にされたことってないんです。まさに不要不急っていうか、ははは」

『里瀬さん』

「はい」

『俺にとって里瀬さんは、必要火急の恋人です』


「こぼれてるこぼれてる!」

 譲治の声に我に返る。

 弟の連れてきた恋人に取り分けようしたパスタがトングからぼとぼとあふれ、磨きこんだテーブルに油じみを作る。母と弟と弟の恋人がいっせいに立ち上がり、ティッシュや布巾ふきんがパスタを取り去ってゆく。

「ごめんな帆奈はんな、姉ちゃん最近おかしいから。ってか元からだいぶおかしいから」

「……帆奈さん、こいつこう見えてシスコンだから。気をつけてね」

「は? ちげーし」

 弟の恋人は口元に手を添えてくすくすと笑う。長身の譲治に負けないくらい背が高く、玄関で対峙したときは驚いた。趣味はキックボクシングと囲碁とプログラミングだというからさらに驚いた。

 ごめんごめんと笑いながら、わたしはまた昨夜の甘やかな会話をこっそりと反芻する。

 壁の時計が12時を知らせる。クアラルンプールはまだ、11時だ。


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