page59:あなたがいないから
黒縁眼鏡の下の目が、こちらを見て微笑んでいる。
いかにもユーモアを理解していそうな、やや垂れた両目。意志の強さをうかがわせる口元。ボリューム多めの黒い髪。チャコールグレーのセーターを着た肩幅は広い。慧介に比べたら顎から肩にかけてのラインはもたついているけれど、それがかえって柔和な印象や安心感を与えている。
そして、顎に点々と散らばる黒い髭。
「……」
『こんにちは。びっくりさせちゃいましたね』
「こんにちは……え、だって」
女性じゃなかったんですか? そう言いかけて、思い至る。これまで雪下さんはひとことも自身の性別に言及していない。
『騙し討ちみたいになってごめんなさい。リゼさんは女性だってわかってたのに卑怯ですよね。なんかもうヤケっていうか、素の姿を見てほしくなっちゃって』
ははは。テノールより少し低めの声。なんだかとても落ち着く声だと思った。細胞にスッと溶けこむような。
本来なら少しは怒ってもよい状況に違いない。けれど、言葉にできない不思議な感情が喉のあたりを満たしていた。
「いやあ、騙されてました……でも別に隠していらっしゃってないですもんね?」
『そうなんです。人はどれだけイメージを先行させるんだろうという実験的な意味合いもあって始めたんですが、そのままこの感じでここまで続いちゃって』
「なる……ほど」
『男が"私"って言ってもおかしくないじゃないですか。男が花をアイコンにしてもおかしくないはずじゃないですか。でも世間って勝手に思いこむんですよね。本名は
「全然違うじゃないですか」
思わず吹きだしてしまう。空気がほぐれ、笑い声が重なる。小岩井里瀬です、と名乗ると、「本名!?」と驚かれた。
顔に、声に、フルネーム。ここまで個人情報を差しだしてしまったら、もう何も怖くない気がした。これまでの自分なら考えられないようなことをしているのに、不思議と不安はなかった。
たくさんの言葉を費やして声をかけ合い、互いの作品を読み合ってきた相手は、家族にすら見せない自分の内面世界を知っている。ましてや言語感覚の合う人だ。まるで昔なじみのように、わたしたちは時間を忘れて会話を続けた。
雪下さんあらため片倉さんはわたしより3歳年上で、2年前に単身でマレーシアのクアラルンプールに移住したという。日本からの配信だと思いこんでいた自分に気づかされた。もはや人間は思いこみだけで世界を泳いでいるのかもしれない。
時差は1時間で、向こうのほうが遅い。住環境はよく教育水準や民度が高いこと、現地の料理は安くておいしいが肉がメインになり野菜不足で困っていること、ヘイズによる大気汚染がひどく日本に帰りたいがコロナのせいで予定が大幅に狂ったことなどを、悲壮感を見せずに語ってくれた。
「訊いてもいいですか」
『はい』
「なぜ、女性視点で書こうと思われたんですか。前作もそうでしたよね」
『……実はそのへんを聞いてもらおうと思ったんです。ちょっと長くなっても構いませんか』
「はい、ぜひ」
片倉さんは清涼飲料水らしきペットボトルを口に運んだ。わたしも柚子茶のマグを持ち上げる。
『あんまりじめじめしないようにしますね。……身内の話になってしまうんですけど、実はというか、僕の姉は鬱病を患ってまして』
「えっ」
『はい。あ、重くとらえなくて大丈夫ですよ。最近は服薬でなんとかそれなりに社会生活やってるようです。発症したのは7・8年前なんですけど、新社会人として最初に入った会社で、思いっきりパワハラに遭いまして。具体的には全部語られてないんですけど、たぶん、セクハラも』
「……」
『人の心って、思うよりずっと
気の利いた言葉を探そうとすると、結局黙りこくっているしかなかった。
『でもいちばんいけないのは、まわりがそれを軽率に本人の弱さのせいにしがちだってことです。だってそのほうが楽なんですよね。家族である両親も、俺も、あっ俺って言っちゃった、もういいか。俺も最初は、”そんなことくらいで会社休むなよ”って言っちゃったんですよ。いい歳して子どもみたいに布団から出てこない姉を、鼻で笑ったんですよ。本当にそれを……一生後悔すると思います』
彼の瞳に初めて悲しみの色が浮かんだ。炎上のことを話していたときさえなかった憂鬱の影が差して、わたしの胸は痛んだ。
『姉が倒れて動けなくなるまで、いや病院で鬱の診断が降りるまで、誰も本当の意味では深刻に捉えていなかったんだと思います。本当に後悔しました。どうして最初に”つらい”って言いだした段階でちゃんとそのサインを受けとめてあげられなかったんだろうって。どこかで女性の苦しみを軽視していたんだと思います。『SISTERHOOD』の智成は俺なんです』
「雪……片倉さん」
『雪下でいいですよ』
「ええと、だから女性視点に立ってみようって思ったんですか?」
『そんなところです。男のフィルターではどうしたって男の世界しか見えないじゃないですか、もちろん逆も然りですけどね。問題は、それを薄ぼんやりと認識していたにもかかわらず、意識からそぎ落としていたことなんです。自分が生きやすいように』
片倉さんの切実な響きには、自分の心の氷河を融かす温度があった。
『一日だけ、女装してメイクして渋谷を歩いてみたこともあるんですけど』
「えっ」
『当時は今より細かったんで、姉のレディースものも着られたんですよね。いやあ、体当たりされるわ横入りされるわすれ違うだけで舌打ちされるわ、世界の見えかたがガラッと変わりましたね。これが女性の日常なんだって、身に染みてわかったんです。Twitterでも変なのに絡まれまくるし、オフパコがどうのとかいうDM来るし。男を名乗ってるアカウントでは絶対に起きないことが日々起きてますよ。それが答えだと思うんです』
「ええ、ええ」
もはや首がもげるほどうなずくしかなかった。そういう人形のように。
『まあそのうち俺もそこそこ病んじゃって、これじゃまずいと思って、ライフスタイルを見つめ直したんです。差別とか同調圧力のない住みやすい国を探したら、マレーシアを薦める人が多くって。コンドミニアムの住み心地は最高だし、家賃激安なのに給与水準は東京と同じだから金は溜まるし、ヘイズさえひどくなければ姉を呼び寄せてもいいかなって思ってたくらいなんです』
「いいな……、いいですね」
『でも今は帰りたい』
「日本が恋しいですか」
『こっちには里瀬さんがいないから』
「え」
『里瀬さんのこと、もっと話してくれませんか』
心に、ひとすじの新しい風が吹いた。
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