page57:向いてない

「秩父でも行くか」

 結露した窓ガラスに額をつけて庭を見ていると、背後から父の声が降ってきた。

 さっきからずっとわたしに声をかけるタイミングをうかがっているのは気づいていた。第一声が「秩父」とは意外だったけれど。

「え」

 なんで、という意味をこめて少し眉を寄せながら笑ってみせる。ぎこちない笑みになる。もはや憔悴を家族に悟られないようにするのは無理だとわかっていた。

 父はさりげなさを装ってわたしの背後の肘掛け椅子に座る。料理をしている母も聞き耳を立てているのがわかってうんざりした。

「久しぶりに山行くのはどうかと思ってさ。山はいいぞ、気分転換に」

 出た、「気分転換」。譲治にも昨日「気分転換にゲーセンでも行かね?」と誘われて断ったばかりだ。

「ええ……どこの山……」

武甲山ぶこうざんでも、御嶽山おんたけさんでも」

「こんな寒い中登ってどうするの。明日なんて関東でも雪積もるらしいし」

「そう……だけど、まあ、もうちょっとあったかくなったらでもいいし。新しいトレッキングシューズ買ってやるぞ」

「ええー、別にいらない」

「里瀬」

 諫めるような声に、口をつぐむ。ふーっ。父は自分を落ち着かせるようにゆっくり鼻から息を吐いた。

「あんまり、男に振り回されるな」

 反論しようと開いた唇は、しかしわずかに痙攣しただけだった。

「まだ焦るな。26なんて可能性の塊みたいなもんなんだから。自分の価値を他人に決めさせるな」


 仕事はふわっとやめてしまった。

 いわゆる拘束時間というものがない代わりに、作業時間も作業のための作業時間もすべて自己管理し、それを報告する時間と手間が必要だったのだが、給与が支払われるのは作業時間そのものに対してだけだった。なんだか急にすべてが色褪せて、ばかばかしく感じられるようになっていった。

 鬼のように飛んでくるChatworkもだんだん見なくなり、ZOOM会議も堂々とさぼるようになった。だから、人事担当者に「次回の契約は更新しない方針です」と連絡したときもそんなには驚かれなかった。

 必要な引継ぎと事務手続きをして、わたしはまた何の肩書もないひとりの女に戻った。おそろしく身軽で、おそろしく孤独だった。


 無職になったとたん、体の調子を崩した。わかりやすくて笑ってしまう。

 珍しく関東でも積もるほどの大雪が降った翌日、つるつるに凍結した路面を滑らないように踏みしめて近所の医院へ向かった。駅前に近づくにつれ、融け残った雪はぐちゃぐちゃの灰色になっていった。フェイスシールドをつけた医師は先代から交代した若い先生で、ここでも時の流れを痛感した。

 ただの風邪だろうと診断されると、それを言いわけに2日間寝こんだ。家族の誰も、必要以上にわたしを構わなかった。むしろみんなほっとしている空気さえ感じた。

 ベッドの中で、泉に浮かぶイメージが何度も湧いた。

 透明な水をたたえた、清らかな泉。白装束に身を包み、あらゆる思考から解き放たれて、ただ静けさの中に五体が漂っている。

 夢と現実の境がかぎりなく曖昧で、それは生死の境が曖昧であることを意味しているのかもしれないと思った。新興宗教に傾倒する人の気持ちが、ちょっとだけわかったような気がした。

 要するに、生に執着しなければいいのだ。違うかな。あれっもしかしてわたし、悟り開いちゃったかな。

 ふふふとひとりで笑った瞬間目が醒めて、そこが真っ暗な自分の部屋だと知ったとき、今度は急に恐怖がわたしをとらえた。

 なにが悟り。ばかじゃないの、ばかみたい。

 何も持っていない。何も最後まで成し遂げられない。

 恋が続かない。仕事も続かない。怪しいチャットレディすらすぐに見切ってしまった。オジギソウひとつ育てられない。筋トレもプロテインもとっくにやめてしまった。どれだけ自分の芯がないのか。

 自分だけが人の営みからはじきだされている気がした。心が急速冷凍されてゆく。

 もしかしてわたし、人間が向いていないのだろうか。

 それは言い過ぎかもしれないけど、でも、人生が向いていないような気がする。


 いや、待って。

 まだひとつだけ放りだしていないことがある。

 枕元のポカリスウェットを喉を鳴らして飲むと、わたしはベッドから起き上がった。部屋の照明もつけずにPCの電源を入れる。モニタ電源をぷちりとONにすると、暗い夜の海に自分だけの灯台が立ち上がったように思えた。

 スマートフォンでなく、PCで書きたい気が猛烈にしていた。キーボードをかしゃかしゃと高速で打てば、この心のどろどろも浄化されるのではないだろうか。

 そうだ、カクヨムコンにエントリーしてくださいねと雪下ひるねさんも言っていたではないか。たしか規定は10万字以上。「不要不急の恋人」の作品の設定画面を確認して、えっと声が出た。だらだら書いているうちにもう10万字を超えているではないか。出せる。でもまずは完結まで持っていかなければ。


 そうだ、エントリーボタンを押す前に雪下ひるねさんに報告しよう。わたしも出すことにしましたって。あとわずかだけど頑張りますって。

 めずらしく自分から雪下さんに連絡を取ろうとTwitterを開いて、タイムラインを流れてきた文字たちにはっとした。

 雪下ひるねさんが炎上していた。

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