page56:再会〔後〕
エクセルシオールカフェはほぼ満席に見えたけれど、なんとか空いているふたり掛けを見つけることができた。両側はいずれもノートPCを持ちこみ作業している男性だ。
体は芯まで冷えきっていて、それでもわたしはアイスカフェモカを注文した。「里瀬、それ好きだったよな」という言葉を引きだしたかったのかもしれないし、「この寒いのにアイスかよ!」と突っこんでほしかった気もする。けれど、北見くんは「コーヒー。ホット」と無愛想に注文するだけだった。
そして今、椅子の背に体を預けたまま虚ろな目でマグを口に運んでいる。努力してそうしているのかと思えるほど目が合わない。気まずさを絵に描いたような沈黙を恐れて話しかけてみても、義務でこうしていますとでも言いたげなおざなりな反応しかなく、くじけそうになる。
Instagramで紹介されていたおしゃれなカフェに、普段着というより部屋着の人間を伴って入るのは憚られた。それ以前に北見くんが寒そうにくしゃみを連発したので、手近な店に入るしかなかった。
ジャケットを脱いだ彼は毛玉だらけのトレーナーを着ていた。そもそも、色も素材感もすべてバランスがおかしい。コーディネートというものをいっさいする気がなかったことだけが伝わる出で立ちだった。
「4月からこっちに戻れるんだよね、よかったね」
必死に気持ちを立て直し、チョコレートソースのかかったホイップクリームを口に放りこんで、わたしは明るく問いかける。極上の笑みが作れたような気がするけれど、そもそも北見くんはこちらをほとんど見ない。椅子の背にもたれ、だるそうな気配を隠そうともしない。
「え? ああ、まあ、うん」
「戻ったら部屋借りるの?」
「や、実家に」
「そうなんだ」
「うん」
「……名古屋は住みやすかった?」
どうだった? と言いかけて、漠然としすぎていると思い直して言葉を変える。こちらばかり質問を投げかけて、まるで面接官になったようだ。これは面接じゃない、デートなのに。クリームを飲みこんだばかりなのに、口の奥が苦くなる。
「まあまあかな」
「食べものとか、おいしいでしょう。味噌カツとか、ひつまぶしとか、えっと、天むすとかきしめんとか?」
うーん、と言いながら彼が小さくあくびを噛み殺すのをわたしは見逃さなかった。
「まあ、だいたい……食ったかな」
「いいね、食べたいな。あとは小倉トーストとか?」
「まあコメダ珈琲はこっちにもあるしね」
まるで他人のことについて話しているかのような温度感に、さすがに心が折れそうになる。グラデーションをつけてきっちりと塗りこんだネイルの先でそっとグラスをはじく。ピスタチオ&ベリーラテだって! とはしゃぐ若い男女の声がレジのほうから耳に届く。
こんなはずじゃなかった。ハンドバッグの奥にひそませた下着の出番はないにしろ、血の通った会話ができるはずだった。自分たちの関係を言葉で確かめて、胸を熱くするはずだった。
会うことを快諾してくれたのは、自分も会いたいと思ってくれたからではないのだろうか。近況報告ならLINEで済ませたじゃないかという無言のメッセージなのだろうか、この態度は。疑問と不満が脳内にぐるぐると渦巻く。
ねえ、わたしに訊きたいことはないの? きれいになったねとひとこと、言ってくれないの? 泣きたいくらいの切実さで思う。ねえ。ねえ。
コーヒーを飲み終えた北見くんは所在なさそうに首を動かし、小さくうつむいた。腹の前で両手の指を組み合わせ、軽く目を伏せている。そのまま寝てしまいそうな勢いだった。
これ以上口を開いたら負けな気がしてわたしが黙っていると、さすがに沈黙が気になったのか、唇を動かした。
「あれ、大宮帰ったんだよね」
いかにも上辺だけのものとわかる切り出しかたに、それでもわたしはようやく顎を持ち上げた。
「うん。今年の春から」
「そう」
「でも11月にほんの一瞬だけ住所移して、年末にまた戻したの」
「なんで?」
「同棲したから」
自分としては最大クラスの爆弾を投げたつもりだった。
それでも北見くんの瞳にはなんの光も宿らない。眉ひとつ動かさない。まるで幼児の語りにうなずいてあげる大人のようなトーンで、へえ、と言った。そこに嫉妬の成分は1ミリも含まれていない。
「彼氏……付き合ってた人とね、結婚するって話だったんだけど、なんか、やめちゃった」
「へえ」
「……北見くんはそういうのないの?」
「そういうのって?」
「や、だから……恋愛とか」
「ああ。今は特にないかな。とにかく仕事がクソ忙しくてさ、正月なのにクソみたいな持ち帰り仕事まであってさ、全然他に意識向ける余裕がないっつーか」
大幅な遅刻も委細かまわぬ格好もやる気のない態度もすべてそれが原因だと言わんばかりの口調に、わたしは唇を引き結んでうつむく。脳の中が散らかっている。
熱愛中の恋人がいると聞かされたほうがまだましだった。以前のようにわたしにダメ出しをして、マウントをとってくれてもいい。なんでもいいからいきいきと語る姿を見たかった。どうしてあたりまえに見られると思っていたのだろう。この抜け殻のような人は誰だろう。
そんなに仕事がきついのか。そんなにわたしに興味がないのか。きっともう、どちらであったところでなんの意味も持たないのだろう。
グラスに薄く残ったカフェモカが溶けた氷と混じって泥水のような薄い茶色になっている。ホイップクリームがかすかにへばりついていて、醜悪だ、とわたしは小さく思った。
会話がそれ以上広がることはなかった。意識して広がらないようにしているのか、何も考えていないのかすらもわからなかったけれど、ただひとつ言えるのは「わたしたちの関係」を確かめる必要さえないというシンプルな事実だった。
16時になるのを待ち構えていたように、北見くんは「そろそろ出る?」と腰を浮かせながら言った。伝票をつかみとる仕草はすばやくて、それだけ彼がこの時間を早く終わらせたいのだということがひしひしと伝わってきた。
「じゃ、なにかあったら」
最後の最後だけマスクの上の目にわずかな親しみを浮かべて、北見くんは片手を上げた。やっと解放される、とその目に書いてあった。
「うん……元気でね、じゃあね」
「うっす」
かつて恋人だった男はまたポケットに両手を突っこみ、わたしに背を向けてすたすたと歩いてゆく。一度も振り返ることなく冬の雑踏に紛れ、やがて見えなくなった。
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