page55:再会〔前〕

「名古屋で年越し? それともひょっとしてもう本社に戻れたかな?」

『正月だから実家に戻ってるけど。去年帰れなかったし』

「そうなんだ! 頑張ってるんだね」

『まあね。本社には4月から戻る予定』


 思いがけず、北見くんとのメッセージのラリーは続いた。

 LINEとはいえ、短い言葉の中に彼らしさがつまっている気がして、わたしの胸はどんどん甘やかになった。あの頃のふたりの空気感が蘇る。

 ああ、きっとわたしの勘違いだったのだ。彼は本当に、文字通り距離を置いていただけだったのだ。ひとりで出会いと別れを繰り返したりしてばかみたい。本当にばかみたい。

 でも、もう迷わない。機は熟せり──。

「会ってちょっと話せたりする?」

 決意が揺らがぬうちに、思いきって送信した。またすぐに既読がついた。

 お願い、北見くん。

 お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。おねが

『4日なら空いてるけど』


 前夜のうちに服を選び抜いて、角質ケアをして、高級なフェイスパックを使って、コラーゲンドリンクを飲んで、お肌のためにたっぷり8時間睡眠をとって。

 当日は時間をかけて髪をセットして、隙のない化粧をして、香水を手首と足首にさりげなく吹きかけて、網タイツっぽく見える柄ストッキングを履いて、パールピンクのネイルを塗りこんで。

 こんなに気合を入れて自分を磨きあげるのは、100年ぶりくらいのような気がした。スタンドミラーに映る自分は、まさに上等のわたし、というオーラを放っている。

「出かけてくるねー」

 この姿にあれこれ突っこまれる前に家を出てしまおうと、玄関に移動してから母に声をかける。自分の顔が映るほど念入りに磨きこんだパンプスに爪先を入れる。指先を迎え入れたトウはひんやりと冷えていた。

「あれ、雨月ちゃんとだっけー?」

 今から母ののんびりした声が聞こえる。

「いや、ワンゲルのときの……集まり」

 嘘は言っていない、と思いながらパンプスをフィットさせて立ち上がる。

「ああそう」

「夕飯はたぶん要らないから」

「たぶんって」

「行ってきます」

 もしかしたら今夜は帰らないかもしれない。そんな予感を胸に、勢いよく玄関の扉を開く。北風が頬に吹きつける。

 いつもより大きめのハンドバッグの中には、小さく折りたたんだレースの下着もひと組、御守りのように入っている。


 風は冷たいだけでなく、とても乾いていた。もう少しリップクリームを塗っておけばよかったと、マスクの下で唇を湿らせながら悔やむ。 

 池袋西口の芸術公園。半同棲のようになる前、ここでよく待ち合わせた。北見くんの実家は豊島区にある。池袋は自分の庭のようなものだとよく語っていた。

 彼の好きだったモニュメントの前ではストリートミュージシャンがギターをかき鳴らしていたので、噴水の前に移動した。懐かしさとときめきで胸をいっぱいにしながら背筋をしゃんと伸ばし、ハンドバッグの持ち手を体の前で固く握りしめる。アドレナリンが全身を駆けめぐり、香水の香りを残らず吹き飛ばしてしまうほどの北風もさほどつらくない。


 約束の14時になっても北見くんは現れなかった。

 余裕を持って再会できるなんて夢見たわけではなかった。でも、そこまで時間にルーズな人ではなかったはずだ。きっともう駅には到着していて、構内を東口から西口まで歩いてくるのに時間を要しているだけだろう。そう思うことにして、内臓ごと引き上げるように背筋を伸ばす。

 10分経った。

 昨夜も「明日はよろしくね」「了解」と確認し合ったから忘れているとは思えない。何かあったかな。電車遅延かな。こまめにスマートフォンを取りだしては確認するけれど、なんの連絡も入らない。寒空の下、全身キメキメで人待ち顔で突っ立っている自分が急にひどくみじめに思えてきた。

 こうしている間に来るかも、次の瞬間に現れるかも。信じて待っているのに報われない。電話をかけたら短気と思われるだろうか。でも。マスクの下でもキープしていた笑顔が不安に歪むのを自覚する。行き交う人々の中に待ち人が現れるのをものほしげに見つめる自分を俯瞰しているような錯覚を覚える。

 20分経った。

 さすがに焦りを覚え、迷った末に「おーい?」とひと言だけLINEを送ってみる。既読がつかない。「待ってます」と添えられた猫のキャラクターのスタンプを送ったところでようやく既読がついた。

 それから数分後だった。見覚えのあるカーキ色のジャケットがこちらに向かってくるのが目に入った。通行人越しに目が合う。拍動が強く、激しくなる。

 来た、来てくれた。安堵が全身の細胞に行き渡る。マスクの下の口角が吊り上がるのを感じながら控えめに手を振る。心臓が今にも胸骨から飛び出しそうだ。

 ──だけど。

「悪い」

 寝起きのままのような、整えられていない髪。着古したジャケットに、量販店のトレパン(それはまさしくトレーニングパンツだった)。サンダルのようなぼろぼろの靴には、乾いて固まった泥が付着している。

「それで、ええと、どこ行くんだっけ?」

 わたしの全身にちらりと目を走らせた北見くんは、ポケットに両手を突っこんだまま無感動に言うのだった。

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