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 別れのダメージは後から訪れた。


 わずかな期間の住所移動を実家に戻すため訪れた市役所の市民課でまたセッキーに会ってしまったときも(互いに気づかないふりをした)、雨月から「だから『大丈夫?』って訊いたのに~」とLINEが来たときも(スタンプひとつで受け流した)、慧介と過ごした期間の写真を整理しているときも(意外に大量なので途中で頓挫した)、胸に感じる痛みは想定内のものだった。むしろ開放感でいきいきと動き回り、仕事納めまできっちりと業務をこなした。

 けれど大晦日の晩、母と並んで夕食の準備をしているとき、ふいに石を飲みこんだような気分になった。誰かの手で胸が塞がれているかのように呼吸が苦しい。わたしはローストビーフをスライスする手を止めた。

「ごめん、ちょっと……休んでいい?」

「え、いいけど大丈夫?」

「平気」

 心配する母の声を背中に聞きながら流しで手を洗い、よろよろと階段を上る。足が少しもつれていた。


 ほとんど同棲前の状態を回復した自分の部屋の扉を開け、倒れこむようにベッドに横になった。マットレスの中で、体重を受け止めたスプリングがぎしりと鳴る。

 ”大丈夫っすか” ”眠いっすよね”

 初めて声をかけてきたときの慧介が、何度も何度も脳裏に蘇る。床に落ちたわたしの教本をさっと拾い上げ、片手でぱんと軽く払った、あの仕草。

 気づけばあたりまえに体型や生活習慣をジャッジされていて、気づけば家事のほとんどがわたしの担当になっていて、気づけばわたしが仕事を辞めて嫁に行くのがあたりまえになっていて。いつももやもやさせられていた。別れに至るのは当然だった。自分の意志で離れた。

 それなのに、胸にぽっかりとできた空洞に風が通ってひゅうひゅうと鳴るのはなぜなのだろう。あのときほとんど手をつけられないまま処分したクリスマスケーキが責め立ててくるような、この後ろめたさやよるべなさはなんなのだろう。

 この世界で誰からも顧みられない存在になってしまった気がして、文字通り目の前が真っ暗になった。恋よりもっと大切なものが自分の手をすり抜けていってしまった気がした。

 "もうちょっと自分のこと客観的に見つめた方がいいよ"

 "そうやって他人との間に壁作ってたらいつまで経っても幸せになれないよ"

 "いつまでもこじらせてればいいよー"

 森にLINEで投げつけられた言葉たちが、今になって黒いとぐろを巻き、じわじわと心を圧迫する。

 もしかして、全部わたしがいけなかった? わたしのせいだった? 目をつぶればやり過ごせたはずのことを、わざわざ自分の視界に引きこんで問題にした?


 どうにもたまらない気持ちになって、まだローストビーフのにおいのしみついている指先をスマホの液晶画面に滑らせる。

『よかったね……と心の底からホッとしました』

『こんな人とは別れた方が良いと思いながら読んでたので一安心です』

 カクヨムの「不要不急の恋人」に寄せられているコメントに、現実感が戻ってくる。わたしはいったいなにをやっているのだろう? 幸せになれないことが誰の目にも明らかな私生活を晒して。

 情けない現実をリセットしたくなり、Facebookのアプリを立ち上げる。「最新の状態にアップデートしてください」とメンションが表示され、久しく触っていなかったことを知らせる。

 スクロールすると旧友たちの顔アイコンがタイムフィードを駆け抜けてゆく。ああ、エリの結婚式って先週だったんだ。えっ、さゆりが妊娠中? やばい、全然知らなかった。

「ご報告」で始まる記事にいちいち衝撃を受けながら、何かを探し求めるように必死でスクロールする。そして、その記事が目に飛びこんできた。


『今月の粋⑨ コロナ禍だからこそできた大きな決断。世代交代して起死回生をはかる小料理屋の覚悟と努力』


「みんな~! モロちゃんとこだよ!」と記事を引用して紹介していたのは、中学のときの同級生の男子だった。既に「いいね」やコメントがびっしり付けられている。

 webメディアに取材され記事に取り上げられていたのは、まぎれもなくモロちゃんの実家の小料理屋だった。思考が入りこむ前にクリックしてしまう。


『"コロナ禍で酒類が提供できず、客足が遠のいて行き詰まったとき、思いきって親父に提案したんです。この機会にいったん店を閉めて店舗を大幅にリフォームし、世代交代しようと"

 そう言って笑うのは、諸永もろながつかささん(26)。諸永さん一家は、ちょうど10年前に埼玉県さいたま市から一家で吉祥寺に転居。東京は吉祥寺に小料理屋「みかげ」を構え……』


 コロナ禍を乗り越えて売り上げを以前の水準に戻したというサクセスストーリーが続き、白い帽子と白衣を身につけた懐かしい顔が現れたとき、心臓がどくりと鳴った。その隣に、同じ白装束に身を包み唇をぴんと引き上げて微笑んでいる黒髪の女性が映っている。あのとき迎えにきた女性に違いなかった。


『……司さんは同年8月、2代目として正式に後を継ぐと同時に従業員の優香ゆうかさんと結婚。ふたりで店を盛り立ててゆこうと、来る日も来る日も顔を突き合わせて相談した。若者に訴求力の高い料理や食材を豊富に導入し、創業時から変わることのなかったメニューを思いきって一新した……』


 記事を読み終える頃には、胸の圧迫感がひどくなっていた。漬物石でも乗せられているように。

 スマホを枕元に放りだし、ブランケットを頭からすっぽりかぶって目を閉じていると、自分の鼓動の音だけが聞こえてきた。そのまま、譲治が呼びにくるまでずっとそうしていた。

「姉ちゃーん」

「……あい」

「まだ具合悪い? 寿司来たよ。紅白も始まるよ」

「……今行く」

「──姉ちゃんさ」

 弟は、そこでちょっと言葉を区切った。既視感のある場面だ、と思った。

「もやもやすることはさ、全部2021年に置いていこうよ」

 ああ、本当にそうだな。それができたらいいな。わたしは闇のなかで目を開く。

 光を放つスマホを引き寄せると、「今年も大変お世話になりました。来年も里瀬さんに幸せがありますように。カクヨムコン、ぜひエントリーしてくださいね!」と雪下ひるねさんからのDMが入っていた。

 窓の外にちらちらと雪が舞い始めていた。

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